料理人 落合 務さん
ステージⅣの悪性リンパ腫で治る確率は五分五分といわれ半分の確率で治ると思いました

私が悪性リンパ腫と告げられたのは、2021年の3月のことでした。
最初に感じた異変は、だるさというか疲労感で、「どうも疲れが抜けないな」といった程度のもの。でも、私は当時すでに73歳でしたから、年齢を考えればそれも普通のことだと思っていました。毎年、ちゃんと人間ドックを受けるようにしていましたし、2020年6月にも特に大きな異変は見つかりませんでしたから、あまり気にしていなかったんです。
しかし、一晩寝ても二晩寝ても、どうにも疲労感が抜けません。その様子をそばで見ていた家内は、さすがにおかしいと感じたのか、執拗に病院へ行けと私にいいます。
渋々ながらその言葉に従い、病院で検査を受けたところ、血液に腫瘍反応があるとの診断が下りました。ステージⅣの悪性リンパ腫です。
ただ、悪性リンパ腫といわれても、どういう病気なのかすぐにはピンときませんでした。要は血液のがんだと説明されても、「そうなんだ」と思うしかありません。
しかし、落ち込んだり絶望したりするようなことはありませんでした。担当の先生がいうには、悪性リンパ腫というのは胃がんや肺がんなどと違って、原因が分からないのだそうです。これが喫煙や飲酒、生活習慣にひもづくものなら反省や後悔もするのでしょうけれど、原因不明ということは運が悪かったとしか思えません。だから、ただただ「しょうがない」という心境でした。交通事故のようなものだな、と。
これは決して諦めの気持ちではありません。「しょうがないから、治さなければ」というのがより正確な気持ちでした。
担当の先生もざっくばらんな人で、私が「この病気は治せるんですか?」と聞くと、どこかひょうひょうとした口調で「五分五分だね」といいます。これはいい割合ではないのかもしれませんが、私は率直に「半分の確率で助かるんだな」と、前向きに感じたのを覚えています。
しかし、この治療が非常につらいものでした。抗がん剤治療を受けるために、最初の3週間は入院することになったのですが、副作用が非常に強く、私の場合は、重度の便秘に苦しめられました。下腹部がパンパンになり、もういっそおなかを切って便を出してもらえないかと切実に思ったくらいです。
また、居ても立っても居られない、のたうち回るようなだるさが4、5日続きました。これもすごくしんどかったですね。

その後はいったん退院し、通院して引き続き抗がん剤を打つことになるのですが、2回目以降は下剤を処方してもらいながら、8月まで計6回、抗がん剤を打ちました。
ほんとうは抗がん剤を8回打つ予定でした。ただ、5回目くらいの時に先生から「抗がん剤、けっこう効いていますね」といってもらえて、6回で終えられたんです。
それでも、体中の毛という毛はすべて抜けてしまいましたし、免疫力が落ちているから生ものを食べてはいけないとか、土いじりをしてもいけないとか、いろいろな制約もありました。
ただ、私にとって不幸中の幸いだったのは、世の中がちょうどコロナ禍の真っただ中で、引き受けていた仕事が片っ端からキャンセルになったことでした。病気とはいえ、こちらの都合でのキャンセルであれば、違約金が発生するものもありましたから、余計な心配をせずに療養に専念できたことだけはよかったかもしれません。
がんの告知を受けてから約8ヵ月後の11月、私は先生から治療の完了を告げられました。体内にがん細胞はもう見当たりません、と。
引き続き、検査だけは毎月受けなければいけませんが、年が明けて2020年になると少しずつ世の中はウィズコロナのムードになり、私も徐々に仕事を再開していきました。たぶん、仕事がやりたくてウズウズしていたのでしょうね。これ以降の手帳を読み返してみると、2024年あたりまで見事にびっしり予定を詰め込んでいたのが分かります。
こうなると時間が足りなくなってきて、月に一度の検査が煩わしくなってきます。まさにのどもと過ぎれば……というやつですね。
そこで、私はがんの診断を受けてからちょうど3年が経過した2024年の春頃に、こう先生に申し出ました。
「どうせいつも異常なしなんだから、もう毎月来なくてもいいでしょう? 3ヵ月に一度くらいのペースに落としてもいいですか」と。
でも、先生は首を縦に振らず、「いや、もう少しの間、毎月やりましょう」といいます。
その翌月のことでした。がんの再発が確認されたのは……。これが悪性リンパ腫の恐ろしいところで、一度罹患した人が再びかかるケースは決して少なくないのだそうです。
おまけに「今度はちょっときつめの治療になりますよ」と先生から念を押され、さらに苦しい思いをしなければならないのかと、とても嫌な気持ちになりました。
さらに、今回は状態が前回と少し異なるようでした。
「今回はちょっと診た限り、大腸と小腸、そして肝臓に悪性リンパ腫が付いています」
「それは、その3つの臓器ががん化しているということですか?」
「いえ、あくまで悪性リンパ腫が付いているだけです」
「では、大腸がんでも肝臓がんでもないんですね?」
「そうですね。でも、このまま放置しておくと、そうなるリスクが0ではありません」
こうして私は、2024年6月から、再び入院してがんと闘うことになったのです。
心境としては前回同様、特に動じることはなく、「再発してしまったからにはしょうがない」「治してもらうしかない」——そんな気持ちでした。どの道、専門家に任せるしかない状況ですから、じたばたしても始まらないですからね。
3週間で退院した前回と違い、今回の入院期間は約半年。そして、最初に先生からいわれた、今度はきつめの治療になるという言葉は、ウソではありませんでした。特に最初に受けた治療の後は、40℃近い高熱が出て寒気が止まらなくなり、2日ほど意識が飛んでしまいました。また、今回も便秘に苦しみましたし、激しい腹痛に襲われて検査してみたら、小腸に穴が空いていた、なんてこともありました。
ほかにもいろいろ苦しい思いや体験がたくさんあった入院生活でしたが、一方では毎日ゆっくりテレビやYouTubeを見るという、これまでの人生にはありえなかった時間の過ごし方ができました。
この時期によく見ていたのは、大食い系の番組です。薄味な病院食がどうしても口に合わずに苦しんでいた私は、早く社会復帰して自分も思いっきり飯が食いたいなと、闘病へのモチベーションを高めていたわけです。
「これ、真面目に作ったの?」副作用によって発症したのは、塩味に対する味覚障害でした
また、困ったのは点滴で、私は人より血管が細くて、看護師さんがいつも難儀していました。

そこで、治療の途中から先生がPICCという手法を提案してくれました。これは二の腕の下のあたりに局所麻酔を打って、点滴の針を差し込むストローみたいなものを取り付ける手法です。これにより、私自身の負荷もだいぶ軽減されました。
そんな中、夏の終わりの頃だったと記憶していますが、先生からあらたまって「お話があるので奥さんと一緒に別室へ来てほしい」と連絡がありました。余命宣告でもされるのかと、さすがにちょっとヒヤヒヤしましたが、そうではありません。
今回も無事、寛解に向けて順調に治療は進んでいるものの、悪性リンパ腫の場合は、この後さらに3度目の再発も十分に考えられます。そこで、「カーティー細胞療法(CAR-T細胞療法)を受けてみませんか?」と先生はいうのです。
カーティー細胞療法は、患者からがん細胞を攻撃するT細胞(リンパ球の1つ)を取り出して、がん細胞への攻撃力をより高めた状態にして体内に戻すという、最近日本でも取り入れられるようになった新しい治療法なのだそう。ただ、取り出したT細胞を一度アメリカに送る必要があり、非常に治療費が高額なのがネックだといいます。聞けば、新車のランボルギーニが1台買えるほどの金額で、先生も誰にでもすすめているわけではないとのこと。
私がラッキーだったのは、数年前に突然思い立って加入していたがん保険が、このカーティー細胞療法に使えたことでした。
しかし、だからといって100%確実に再発を防げるわけではありません。私がお世話になった病院では過去に12例の治療を受けたケースがあり、そのうち4人はお亡くなりになっていて、今も元気に生きているのは8人。つまり、確率でいえば3分の2ということになります。
それでも、少しでも再発の可能性を防げるのであれば、すがってみるのもいいかもしれないと思い、私はこの治療を受けてみることにしました。
かくして9月の半ば頃、通常の治療を終えたのを受け、退院前に私はアメリカに送るT細胞を採取するために、血液を抜きました。そして、数週後にアメリカから戻ってきたT細胞を再び体内に入れるため、再び入院することになるのですが、この時の副作用もきつかったですね。高熱が出て数日ほど意識を失い、11月の初旬になってからようやく退院することができました。
さすがにこれだけ長い間入院していると、全身の筋肉が衰えて、歩いていてもフラフラしてしまいます。朝起きて、体を起こすのすら体力を使うような状態で、しばらくは大変でした。
しかし、さらに大変なのは、実はこの後です。
12月のある日、自宅でリハビリがてら料理してみようと、家内の好きなパスタを作ったんです。すると、それを1口食べた家内がこういったのです。
「ねえ、あなた。これ、真面目に作ったの?」
なにをいわれているのか分からず呆気にとられていると、家内は続けて「この味、やばいよ。しょっぱくてとても食べられない」といいます。この時、私の身には抗がん剤の副作用で、塩味を感じにくくなる味覚障害が起こっていたのです。
今にして思えば、病院食が妙に薄味に感じられたのも、すでにこの症状が出ていたからなのかもしれません。

幸い、この症状は1ヵ月、2ヵ月と時間が経過するにつれて、少しずつ治まっていきました。2025年2月に料理をした際、家内が今度は「うん、これこれ。おいしいよ。やっとパパの味が戻ってきたね」といってくれた時は、心底ホッとしました。
こうした一連の体験を経てあらためて感じるのは、「しょうがない」と、いったん受け入れることの大切さです。慌てふためいたところで、病状がよくなることはありませんからね。
私の「しょうがない」は諦めではなく、腹をくくって病気と向き合い、治るまでがんばろうという決意の表れなんです。だから、入院中にどんなにつらくても家内に弱音を吐いたことはなかったはずですよ。腹さえくくってしまえば、ちゃんと治療に向き合えるはず。そういう前の向き方もあるのではないでしょうか。