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「80歳を超えても仕事や趣味を充実させ自分らしく輝いて生きる極意」

私の元気の秘訣
長野寿光会上山田病院/財団大西会千曲中央病院整形外科医師 吉松 俊一

大好きなことに無我夢中で全力投球してきた結果、偶然にも多くのすばらしい出会いに恵まれ、私の人生を豊かなものにしてくれました。情熱を燃やしてきたことのすべてが後のかけがえのない財産となり、私の人生を支えてくれています。

私は、日本プロ野球界の一翼を担うチームドクターとして、これまで数多くのプロ野球選手を心身両面からサポートしてきました。私が日本プロ野球界初のチームドクターになったきっかけは、1通の手紙でした。

長嶋茂雄さんが監督として巨人軍を初采配した1975年。そのシーズンはチームの戦力が落ちて、巨人軍が球団創設以来初の最下位に終わりました。

野球好きな私は、週末によく多摩川で2軍選手のプレーを見ていました。その中に故障しているにもかかわらず練習している選手がいたことから、巨人軍の球団関係者に「2軍選手は将来1軍を担う金の卵。多摩川には金が埋もれてしまっています。故障した選手は新たに3軍を設けて治療に専念させるべきです」という内容の手紙を出しました。

いまでは、公認のチームドクターが故障した選手を「故障者リスト」に登録するのはあたりまえです。ところが、休むことが許されない風潮だった当時としては、画期的な提案だったのです。その提案が巨人軍球団代表の長谷川実雄さんの目に留まり、正力松太郎オーナーの御曹司にもお目にかかることができ、翌年から日本プロ野球界初のスポーツドクターとして宮崎県で行われる巨人軍の春季キャンプに行くことになりました。

プロ野球のチームドクターとなるにあたって、国立病院で公務員として勤務していた私は、いっさいの謝礼を受け取りませんでした。すべてボランティアです。その代わりに選手たちといっしょに練習させてほしいと願い出ました。投げたり打ったり走ったり、すべて選手と行動をともにしました。選手目線で現場に携わることで、選手のコンディションを把握したり故障の有無を見極めたりする一助にしていたのです。

ただし、初めからすべて自分の思いどおりにできたわけではありません。ときには「アイシングなどをやられては困る」といわれたこともあります。しかし、決して諦めたわけではありません。毎年、自費で渡米してメジャーリーグを訪れ、最先端の情報収集に努めたのです。

メジャーから学んだ先発ローテーションやアイシングの必要性を野球界に紹介しました

[よしまつ・しゅんいち]

日本整形外科学会専門医、日本リウマチ学会専門医、日本リハビリテーション医学会認定臨床医、日本体育協会公認スポーツドクターとして活躍。主に子どもの肩・ひじ関節、またスポーツ現場で見られる腰痛と遺伝の関連性などを40年以上の長期にわたって研究。さらに、日本屈指のスポーツドクターで、負傷したプロスポーツ選手が数多く治療に訪れ、復帰に貢献している。

私は、1970年代に160㌔以上の剛速球を記録し、メジャー屈指の速球王として知られるノーラン・ライアン投手に手紙を出し、「あなたに会ってお話を伺いたい」と申し出ました。すると、「OK」との返事。当時は公式戦の最中だったのですが、幸運なことに私がノーラン・ライアン投手とお会いできたのは登板した翌日でした。私は、本来であれば関係者以外立ち入り禁止のロッカールームに入ることができました。そして、十分に時間を取ってもらい、私のたどたどしい英語で会話をしながらノーラン・ライアン投手の練習メニューを教えてもらったのです。

まず、登板した翌日は完全休養日で、ボールをまったく触らないとのことでした。そして、室内のバイシクル・トレーニング(自転車漕ぎ)を中心にメニューをこなしながら、3日目、4日目とボールを触る回数を増やしていき、登板日までに徐々に肩を作っていくというのです。

かつて日本プロ野球では、リリーフ登板も含めて連投や中1日などで多投する投手が見られました。しかし、近年では中5日もしくは中6日が主流になりました。もし日本プロ野球における先発ローテーションの前時代的な考え方が定着したままだったら、故障に涙する投手がおおぜいいたかもしれません。ノーラン・ライアン投手の貢献は計り知れないといえるでしょう。

また、降板した投手がよく行っているアイシングも、私が提案したものです。アイシングは当時、言葉自体も存在していませんでした。しかし、1978年に日米野球で来日したニューヨークメッツのトム・シーバー投手(当時のメジャーリーグナンバーワン投手)が、私の要望で試合後に積極的にひじのアイシングをしている姿を日本側のベンチ内で球団関係者に見せることで、日本プロ野球にも導入されることになったのです。

実は、私は大学時代に野球で右肩を痛めてしまったことがあります。すぐに病院を受診しましたが、「治せない」とサジを投げられてしまい、3年という長い期間を要したものの、どうにか自力で完治することができました。しかし、このときの経験が後に非常に役に立つことになります。

例えば、子どもの頃によく水深5~10㍍まで海に潜って魚を銛で突いていたことを思い出し、大学時代の夏休みに故郷である神奈川県小田原市で1ヵ月間毎日のように海に潜って遊びました。水に潜るには相当なパワーを要しますし、深く潜れば潜るほど海水の温度は低くなります。つまり、当時としてはプロ野球ではタブーとされていた筋トレとアイシングの両方を偶然にもトレーニングに取り入れ、その有効性をみずから実証していたのです。

長野県の代表を決める大事な一戦。平均年齢40代のチームを相手に代打で出場し、見事剛速球を打ち返す吉松医師

私はチームドクターとして、可能な限り最先端の医療を行いたいと考えていました。整形外科で肩・ひじの領域はアメリカが進んでいます。私は巨人軍の尾山末雄トレーナーとたびたび渡米し、アメリカで行われている最先端の医療を貪欲に学びました。

トミー・ジョン手術の権威であるフランク・ジョーブ医師のもとを訪れたさいには、手術テクニックが録画されたビデオを私のために用意してくれていました。そのご縁から、ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の村田兆治投手やヤクルトスワローズの荒木大輔投手、巨人軍の桑田真澄投手などをフランク・ジョーブ医師に紹介しました。

その他、私の提案した水泳や筋トレ法などが日本プロ野球の現場で徐々に受け入れられ、しだいに頼りにされる存在になっていきました。数多くの球団から依頼が寄せられ、多いときでは10球団の春季キャンプを回り、全12球団のチームドクターになりました。また、シーズンオフには、国立長野病院(現・上山田病院)で故障した選手たちの治療に当たったのです。

〝ミスタープロ野球〟〝世界のホームラン王〟〝月見草〟など、名選手と親交を重ねてきました

気がつけば、私は常に監督のそばにいる存在となっていました。そんな私を見た当時日本テレビの有名アナウンサーだった徳光和夫さんから「自分は長嶋監督と話をする時間が少ないのに……」と冗談交じりに羨ましがられたものです。

というのも、当時の監督といえば、いま以上に会話をすることすら恐れ多い雲の上の存在だったからです。私には監督と選手の橋渡し役的な一面もありました。例えば、監督が「○○選手を明日使いたいんだが、どうだろう」と尋ねてくれば、その選手のコンディションをお伝えしていました。一方で、その選手を監督の前に連れていき、「君は期待されているぞ」と励ましていたのです。

球団のチームドクターを任されれば、チームに所属する全選手の健康管理や医療サポートを担当することになります。これまで私が親交を重ねた選手の中には、プロ野球史に残る伝説的な活躍をしてファンを魅了した大スターたちも含まれます。現在では、後進のチームドクターに道を譲るようにしていますが、1つひとつの出会いには容易に語り尽くせないほどの思い出がぎっしりと詰まっています。

一例を挙げれば、〝ミスタープロ野球〟の異名を持つ長嶋茂雄さんです。巨人軍の監督を務めていた頃にはご家族のことなどでも相談に乗ることがありました。そのご縁から、ご家族の健康管理も担当させていただきました。

通算本塁打数868本の世界記録を樹立した〝世界のホームラン王〟こと王貞治さんとも懇意にさせていただきました。王さんは福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンクホークス)を2度の日本一に導くなど、選手としてだけでなく監督としても大成しました。

私は、長嶋さんや王さんのようなお人柄の方は人間の鑑だと思っています。大袈裟ではなく、ほんとうに神様のような人格者です。私がテレビ番組に出演したさいなどにもすぐに電話をいただくほど、気配りが行き届いている方です。今年もごていねいに年賀状をいただきました。

「ON(王、長嶋)がヒマワリなら、オレはひっそりと咲く月見草」というコメントで〝月見草〟が代名詞となった野村克也さんとも交流がありました。あるとき、私が西武ライオンズの選手の前で講演していたところ、当時選手として在籍していた野村さんが最前列に座って熱心にメモを取っていたのです。

野村さんは私のことを気に入ってくれて、よくメンタルトレーニングや確率・統計の話をしたのを覚えています。監督として野村さんをヤクルトスワローズの球団側に推薦したのも私です。野村さんの〝ID野球〟と私のスポーツ医学の理論は相性がよかったのかもしれません。野村さんからは、特に配球面などでたいへん勉強させていただきました。

また、広島カープを球団史上初の日本一に導き、〝赤ヘル黄金期〟を築いた名将である古葉竹識さんは、徹底的に私のことを買ってくれていました。近くで試合があるときは私の自宅でユニフォームを用意し、試合後はお風呂に入って懇親会をしたものです。私の亡き妻の大ファンでもあった古葉さんは、生前の妻の思い出話を涙ながらに語ってくれたこともあります。

野球も医療もチームプレーです。自分一人では何も成し遂げることができません。私は常日頃から看護師やリハビリの先生に感謝しながら医療に携わるようにしています。「分け隔てなく誰とでも平等に」という私のポリシーはプロ野球選手が相手でも変わりませんでした。そのおかげか、あまたのプロ野球選手をはじめ、球団関係者にも受け入れてもらえたのだと思います。ちょっと思い出すだけでもさまざまな人の顔が浮かんできます。各球団でお世話になったトレーナーの方々とも、またいつかお会いしたいものです。

数ある名選手の中でも、野手でメジャーで成功すると評価されていたのがヤクルトスワローズなどで活躍した大杉勝男さんです。彼ほどのパワーと豪快さがあれば、メジャーでも十分通用するといわれていました。試合後は、大杉さんが夜行列車で長野まで帰る私を上野駅まで車で送ってくれたことをいまでも思い出します。

「大沢親分」こと、日本ハムファイターズの監督だった大沢啓二さんは私と同じ神奈川県出身だったこともあり、私をたいへん頼りにしてくれました。シーズン中でも選手を私のもとに送り込んで、治療に専念するように指示してくれたのです。

そのご縁で〝オールスター9連続奪三振〟や〝江夏の21球〟などの偉業を成し遂げた江夏豊さんにも、筋トレや温泉を使ったリハビリ、メンタルトレーニングなどを指導しました。日本ハムファイターズ時代のプレーオフのさいには主に同じホテルに泊まって朝から晩までずっとそばにいて行動をともにしていました。1985年、江夏さんが現役の最後にミルウォーキーブルワーズの春季キャンプに参加されたときも、私はドクターとして支えつづけました。

落合博満選手をはじめ丸佳浩選手などのメディカル・チェックで素質を評価しました

北海道日本ハムファイターズの栗山英樹監督の著書『育てる力』(宝島社)を熟読する吉松医師

私が所属していた国立長野病院では、1台数千万円もする筋力計などの最新機器を早くから導入していました。最新機器を使ってデータを収集してメディカル・チェックを行い、例えば「150㌔の球を投げるためにはどれくらいの筋力が必要か」「三冠王を取るためにはどのような要素が必要か」などを調べていたのです。

ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)在籍時代に3度の三冠王に輝いた落合博満さんのメディカル・チェックをさせていただいたときは、頭脳明晰な選手という印象を受けました。現役時代、落合さんは私の自宅によく遊びにきていて落合夫人とも面識がありましたので、落合夫人に「将来、監督として絶対に成功しますよ」とアドバイスしたこともあります。するとその翌日、報道陣を前にした落合さんが禁煙を宣言し、すぐにタバコをやめた決断力の早さには驚かされました。

北海道日本ハムファイターズの栗山英樹監督から贈られてきた直筆のサイン本

また、最近広島カープから巨人軍に移籍して話題を集めている丸佳浩選手も、プロ入りを控えた千葉経済大学附属高等学校の3年生のときに松本吉啓監督といっしょにわざわざ千曲中央病院(長野県千曲市)にまで足を運んできたことがあります。そのさいも筋力計などを使ってデータを収集し、身体能力やプロ野球選手としての将来性などを調べたのですが、常人にはないキラリと光るものがある選手だったと記憶しています。

最近では、北海道日本ハムファイターズの栗山英樹監督と懇意にさせていただいています。もともと現役選手の時代からチームドクターとしてお世話をさせていただいていましたが、栗山監督の選手を育てる能力はナンバーワンで、特に選手を勇気づける手腕はお見事というほかないと考えています。

どんな夢でもいいから夢中になれる目標に真剣に打ち込むことが私の健康の秘訣です

草野球チーム「生涯球友」の皆さん。〝99歳まで現役〝を合い言葉に練習に励んでいる

2014年、長野県では比較的雪の少ない地域の千曲市が100年に一度といわれる大雪に見舞われ、積雪が60㌢以上に及びました。体力には自信があったのですが、自宅前の雪かきをしていたところ、腰に鈍痛を覚えました。整形外科医の私が、腰部脊柱管狭窄症になったのです。しかし、ゴムバンドを使った筋力アップ・トレーニングや血流を改善するストレッチ体操、温圧チップという医療機器を使っての治療のおかげで、症状が素早く改善し、その後は痛みがほとんど気になることはありません。

いま、私が所属している早起き野球チームと全日本生涯野球チームの平均年齢は約75歳です。退職した人も多いので、いまでは毎週木曜日のお昼から午後3時まで、晴れの日は千曲川の河川敷で、雨や雪の日は体育館で練習しています。人間70歳を過ぎるとなにかしらの故障を抱えているものです。しかし、皆で「99歳までは現役プレーヤーでいよう」と励まし合っています。

最近では、新しく80歳野球チームを立ち上げようと、ルール作りなどに奔走しています。実は15年ほど前から、女性の選手も含めて、将来80歳になったときにいっしょにプレーしようと群馬県の方々と計画していたのです。なお、私の経験上、体力面では80歳と85歳では大きな違いがあります。ピッチャーマウンドからキャッチャーの構えるミットまでボールが届かなくなるのです。

昼休みなどを利用してウェイトボールで投球フォームのトレーニングに励む吉松医師

しかし、なんでも諦めてしまったら、それで終わりです。私は通常の野球のボールより重たいウェイトボールを白衣のポケットに忍ばせ、昼休みや夕方になってからウェイトボールを握って投球フォームのトレーニングをするようにしています。

「野球を通じて多くの人々に夢や希望を与えられたら、夢や希望をかなえる喜びを味わってもらえたら」というのが私の願いです。そして、子どもの教育や障害を持った方々の生きがい創出にも、私は野球が貢献していくものと信じています。第2の故郷である長野県千曲市と上田市の地域振興のため、これまで以上に野球の普及活動に尽力していきたいと考えています。他人から見れば、バカらしいことかもしれません。しかし、どんな夢でもいいから、夢中になれる目標に真剣に打ち込む――これが、整形外科医として、80歳を超えたいまでも現役で働きつづける私の元気の秘訣です。
 

この記事は「健康365」2019年4月号に掲載されています。