野球にささげた〝情熱〟と〝真心〟がのちに私の財産となりました
大好きな野球のことなら、何の迷いもためらいもありません。野球に関わって全力疾走してきた結果、幸運にも多くのすばらしい出会いに恵まれ、私の人生を豊かなものにしてくれました。野球にささげた〝情熱〟と〝真心〟が何ものにも代えがたい財産となり、私の人生を支えてくれているのだと思います。
私は、日本プロ野球界の一翼を担うチームドクターとして、これまで数多くのプロ野球選手を心身両面からサポートしてきました。プロ野球のチームドクターになるにあたって、国立病院で公務員として勤務していた私は、いっさいの謝礼を受け取りませんでした。すべてボランティアです。その代わりに選手たちといっしょに練習させてほしいと願い出ました。
当時は私も若かったですから、内野の守備練習ではダイビングキャッチをするなど、真剣そのもので臨んでいました。すると、その真剣さが選手たちにも伝播し、ノックをしているコーチから「吉松先生が練習に加わると、選手たちの目つきが変わる」と喜ばれたものです。投げたり打ったり走ったり、すべて選手と行動をともにしました。選手目線で現場に携わることで、選手のコンディションを把握したり故障の有無を見極めたりする一助にもしていたのです。
私はチームドクターとして、可能な限り最先端の医療を行いたいと考えていました。当時、整形外科で肩・ひじの領域といえば、アメリカが一歩も二歩も進んでいました。私は読売ジャイアンツの尾山末雄トレーナーとたびたび渡米し、最先端の医療を貪欲に学びました。
トミー・ジョン手術の権威であるフランク・ジョーブ医師のもとを訪れたさいには、手術テクニックを録画したビデオが私のために用意されていました。そのご縁から、ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の村田兆治投手やヤクルトスワローズの荒木大輔投手、読売ジャイアンツの桑田真澄投手などをフランク・ジョーブ医師に紹介しました。
〝マサカリ投法〟と呼ばれたダイナミックな投球フォームで知られる、ロッテオリオンズの村田さんは、私がトミー・ジョン手術の権威であるフランク・ジョーブ医師に紹介した第一号でした。1982年にひじを故障した村田さんは翌年も改善しなかったため、私が紹介したフランク・ジョーブ博士の執刀のもとで左腕の腱を右ひじに移植する手術を受けたのです。
その後、村田さんは2年間にわたってリハビリに専念し、1984年のシーズン終盤にみごと復帰を果たしました。1985年には開幕から11連勝を挙げる鮮烈な復活劇を見せ、最終的に17勝5敗の成績でカムバック賞を受賞。まさに不死鳥のようによみがえった大投手です。
ある日のフリーバッティング練習で、村田さんが私のピッチャー役を買って出てくれたことがありました。しばらくは直球だったと思いますが、何球目からか落差20㌢以上もある〝伝家の宝刀〟フォークボールを投げてくれたのです。
その頃はまだ私も若かったこともあり、無我夢中でバットを振りました。すると、バットの芯で捕らえたボールが右中間の壁まで転がっていったのです。村田選手の悔しそうな表情をいまでもはっきりと覚えています。
そのほか、私の提案した筋トレやアイシング、水泳などが日本プロ野球の現場で徐々に受け入れられ、しだいに頼りにされる存在になっていきました。数多くの球団から依頼が寄せられ、多いときでは10球団の春季キャンプを回り、全12球団のチームドクターになりました。また、シーズンオフには、国立長野病院(現・上山田病院)で故障した選手たちの治療にあたったのです。
「野球を愛する私に受け取ってほしい」と選手から記念品の数々をいただきました
球団のチームドクターを任されれば、チームに所属する全選手の健康管理や医療サポートを担当することになります。これまでに私が親交を重ねた選手の中には、プロ野球史に名を刻む名選手たちも含まれています。現在では、後進のチームドクターに道を譲るようにしていますが、一つひとつの出会いに容易には語り尽くせないほどの思い出がぎっしりと詰まっています。「野球を心から愛する吉松先生にぜひ受け取ってほしい」と記念品の数々もいただきました。
〝赤ヘル黄金時代〟 を築き上げる原動力となった、広島東洋カープの衣笠祥雄さんとも仲良くさせていただきましたね。衣笠さんは、もとの背番号が28だったことから『鉄人28号』の〝鉄人〟という愛称で親しまれ、負傷しても休まず試合に出場して2215試合連続出場という大記録を打ち立てました。
衣笠さんは、私が会長を務める草野球の試合などにゲストとして何度か駆けつけてくれたこともあります。自分では「俺は監督には向いていない」といっていましたが、タフさに加えて人望の厚い方でした。
星野仙一さんが中日ドラゴンズの監督になった1986年、当時の球団オーナーだった加藤巳一郎さんから突然帝国ホテルに呼び出されたことがありました。加藤さんに初めてお会いしたとき、「吉松先生がチームドクターになると、どのチームも優勝するというじゃないか。中日ドラゴンズはもう何年も優勝していない。俺を男にしてくれないか」と頼み込んでくるではありませんか。
いざ中日ドラゴンズのチームドクターを引き受けてキャンプに行ってみると、星野さんの存在感が際立ちました。練習から夜の宴会までのすべてを仕切り、「俺にすべて任せろ」といった感じの熱血漢だったのです。練習が終わった後は、決まって「吉松先生、飯に行くぞ」と声をかけてくれたものです。
星野さんは麻雀好きで、私の家で何度か卓を囲んだことがあるのですが、うまいだけでなく度胸も持ち合わせている勝負師でした。「きっと監督としても大成するだろう」と直感しました。
私が所属していた国立長野病院では、1台数千万円もする筋力計などの最新機器を早くから導入していました。最新機器を使ってデータを収集し、メディカル・チェックを行っていたのです。例えば「150㌔の球を投げるためにはどれくらいの筋力が必要か」「3冠王を取るためにはどのような要素が必要か」などを調べていました。
私が中日ドラゴンズのチームドクターになってから、全選手がメディカル・チェックを受けに国立長野病院にやってきました。その成果もあってか、中日ドラゴンズはリーグ優勝を果たすことになります。1988年、チームドクターになってから2年後のことでした。
2017年の冬に開かれた星野さんの野球殿堂入りを祝う祝賀会に参加したときは、私の存在に気づいた星野さんが「吉松先生、ご無沙汰~!」と声をかけてきて、ほかの人への挨拶もそこそこに私の前の席に座ってしまったのです。1000人以上の参加者が集う盛大な会でしたが、星野さんと私に気づいた往年の名選手たちが私たちを取り囲むように集まり、しばらく談笑に花を咲かせました。
星野さんの訃報が私のもとに届いたのは祝賀会の直後、2018年1月のことでした。星野さんはたいへん達筆で、私がプロ野球界から離れた後も毎年必ず直筆の年賀状を送ってくれました。野球では闘志をむき出しにする激しい気性の持ち主でしたが、グラウンドを離れると気配りを欠かさないとても律儀な方でした。
〝史上最高のサブマリン投手〟と称された、阪急ブレーブス(現・オリックス・バッファローズ)の山田久志さんは、ストレート主体の強気の投球スタイルに定評がありました。1971年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、第3戦で王貞治さんにサヨナラ3ランを浴び、手痛い敗北を喫してしまったのが記憶に残っています。
その後、山田さんは「てんぐの鼻をへし折られた。あのホームランがあったから、その後の自分がある」と述懐していました。後にプロ野球名球会入りを果たした山田さんから「栄光に近道なし」と書かれた色紙をいただき、いまでも私の自宅に飾っています。
野村克也さんの後を引き継ぎ、1999年にヤクルトスワローズの監督に就任した若松勉さんとも交流がありました。日本一に加え、球団史上初の4年連続Aクラス入りに導いた名将です。若松さんはスローガンとして「データ+スピード&パワー」を掲げ、〝ID野球〟を提唱した野村さんのようなデータ重視の野球だけではなく、根本からチーム力を底上げしようと図っていました。
あるとき、若松さんから電話があって「先生、ちょっと来てくれないか」といわれました。会いに行ってみると、「優勝するための策を授けてほしい」と頼み込んでくるではありませんか。若松さんと私とは何でも話しやすい間柄でしたから、スポーツ医学に基づいて選手のスピードとパワーを向上させる実践法をお教えしました。その成果もあってか、2001年に最下位を予想されていたヤクルトスワローズが日本一に輝きました。
プロ野球で最初にチームドクターになったのが読売ジャイアンツです。当時監督だった長嶋茂雄さんのそばには常に私の存在がありました。また、〝世界のホームラン王〟こと王さんとも懇意にさせていただきました。長嶋さんや王さんのようなお人柄の方は人間の鑑だと思っています。大袈裟ではなく、ほんとうに神様のような人格者です。
すばらしいプレーをするためにもケガの予防のためにも、テクニックもさることながら、パワーがなければならないというのが私の持論です。当時は「メジャーリーグに追いつけ」をモットーに、メディカル・チェックを活用したパワーアップ法を指導しており、日本プロ野球界のほとんどの大物選手は私のもとにやってきていました。
ロッテオリオンズ在籍時代に3度の3冠王に輝いた落合博満さんのメディカル・チェックをさせていただいたときは、頭脳明晰な選手という印象を受けました。落合さんは気に入ったらとことん気に入るタイプの方で、現役時代には私の自宅によく遊びにきて食事などをともにしました。
落合さんは豪傑な側面も持ち合わせていました。ある日、MRI検査を受けていたときのことです。当時のMRIといえば、〝ガンガンガン〟ととても大きな音が鳴っていましたが、落合さんは検査の間ずっと寝ていたというのです。「大した器だ」と感心したものです。
落合さんがロッテオリオンズに在籍していたときに監督としてチームを率いていたのが、稲尾和久さんです。現役時代は西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)のエースとしてチームの3年連続日本一に貢献し、連投・多投の中で好成績を挙げたことから〝鉄腕〟の異名で呼ばれていました。
あれほどの大投手でしたが、監督になった稲尾さんは「現場の4番にはかなわない」という言葉を残しています。落合さんは稲尾さんを師として仰ぎ、「7人の監督に仕えたが、野球を教わったのは山内さんと稲尾さんだけ」と振り返っています。山内さんというのは、稲尾さんの前にロッテオリオンズの監督だった山内一弘さんのことです。
私は、読売ジャイアンツの監督だった藤田元司さんと仲がよかったことから、川上哲治さんとも親しくさせていただきました。卓越した打撃技術から〝打撃の神様〟と呼ばれ、日本プロ野球史上初の2000安打を達成した読売ジャイアンツの川上さんはトレードマークの〝赤バット〟を使用し、第一次巨人黄金時代の打撃の中心選手でした。また、監督としても長嶋さんや王さんを率いて読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、プロ野球史上唯一の「V9」(9年連続セ・リーグ優勝・日本一)という偉業を達成するなどの多大なる功績を残し、〝プロ野球界の生き神様〟とまで呼ばれる伝説的な存在となりました。
川上さんは畏れ多い存在ですが、選手の奥さんに配慮されている方でした。試合や練習中に選手を叱りつけたとしても、その後に川上さんの参謀が選手の奥さんに電話をして「川上監督はあなたのご主人にがんばってほしいと思っている」などと伝えて、きちんとアフターケアをしていたのです。参謀の一人がコーチとして川上さんを支えた牧野茂さんです。それから、巨人V9時代の正捕手で〝V9の頭脳〟の異名を取った森祗晶さんには「助けられた」といってましたね。私の家にお越しいただいたこともあり、いろいろとお話をしましたが、とても含蓄がありました。
プロ野球選手ではありませんが、『ドカベン』『あぶさん』など、数々の野球マンガのロングヒット作を生み出してきた水島新司さんとは、草野球を何度もした間柄です。水島さんが肩の痛みで入院されたことがご縁で知り合いました。退院後の試合では、私が利き腕とは反対の左ひじを骨折してバットが振れないにもかかわらず、水島さんが「ピッチャーをやればいい」といって試合に出場させていただいたことがあります。
その頃は、ちょうどトルネード投法でメジャーリーグを沸かせた野茂英雄投手が全盛期を迎えていた時代で、私も見よう見まねでフォークボールを投げていました。そのフォークボールを水島さんが褒めてくれたのがうれしくて、私は白衣のポケットに入れたボールを人さし指と中指で挟んで必死に練習したものです。私の子どもの結婚式に出席してくれた水島さんが、開口一番「フォークボール投げてる?」と声をかけてくれたことはいまでも忘れません。
自分が出場した試合でいちばん思い出に残っているのは、いまから40年近く前に行われた草野球の試合です。相手投手に完璧に抑え込まれ、スコアは1対0。先頭打者として打席に立つ前、私は「もし出塁したら三塁まで盗塁します。場合によってはホームスチールを決めます」と監督に進言したのです。
幸い監督の了承が得られ、なんとか出塁に成功。次のバッターは、とにかく打席に立っていることになりました。私は相手ピッチャーのモーションを盗んで二塁、三塁と盗塁を決め、素知らぬ顔をして一球だけ様子を見た後に本塁めがけて猛然とダッシュ。みごとホームスチールを決め、チームが勢いづいて逆転勝利を収めることができました。
いま、私が所属している早起き野球チームと全日本生涯野球チームの平均年齢は約75歳です。退職した人も多いので、いまでは毎週木曜日のお昼から午後3時まで、晴れの日は千曲川の河川敷で、雨や雪の日は体育館で練習しています。人間70歳を過ぎるとなにかしらの故障を抱えているものです。しかし、皆で「99歳までは現役プレーヤーでいよう」と励まし合っています。
以前はピッチャーを任されることが多かった私ですが、2年ほど前から急に投げられなくなってしまいました。いまではもっぱらファーストを守っています。慣れないポジションのため、当面の課題は守備。いまでもノックの嵐を浴びています。
ただ、最近になってようやく少しずつ投げられるようになってきました。今日もフリーバッティング練習でずいぶんと投げましたよ。決して自分のためだけのことではなく、いまの工夫や努力がこれから年配になっていく方々のお役に立てればと思っています。
最近では、新しく80歳野球チームを立ち上げようとしています。私の経験上、80歳と83歳では体力面で大きな違いがあります。ピッチャーマウンドからキャッチャーの構えるミットまでボールが届かなくなるんです。ですから、3年刻みで年齢に応じたルールを設けるなど、80歳野球チームの実現に奔走しています。
「野球を通じて夢や希望をかなえる喜びを味わってもらいたい」というのが私の願いです
「野球を通じて多くの人々に夢や希望を与えられたら、夢や希望をかなえる喜びを味わってもらえたら」というのが私の願いです。そして、子どもの教育や障害のある方々の生きがいの創出、中高年の方々の健康寿命の延伸にも、私は野球が貢献していくものと信じています。
いまの私の目標は、長野県千曲市に新しい野球場を建設することです。全国のチームから注目されるような、草野球の聖地となるにふさわしい球場ができたらと心から願っています。
どんなことでもいいから、夢中になれる目標に向かって全力投球する——これが、整形外科医として、86歳を迎えたいまでも現役で働きつづける私の元気の秘訣です。