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前立腺がんと分かった時も、不安になるより先に「どうがんに勝とうか」と考えることができました

有名人が告白

元プロ野球選手  角 盈男さん

自覚症状がまったくなかったので、がんといわれてもあまり実感が湧かなかったんです

[すみ・みつお]——1956年、鳥取県生まれ。1977年、長嶋茂雄監督率いる読売ジャイアンツに入団後、新人王、最優秀救援投手に輝く。1989年に日本ハムファイターズ、1992年に東京ヤクルトスワローズへ移籍。野村克也監督のもと、リーグ優勝で有終の美を飾る。引退後、元祖ベースボールタレントとして活躍するかたわら、1995年にヤクルトの投手コーチとして球団を日本一にすることに貢献。1997年、古巣・巨人の投手コーチに就任し、同年退任。2014年に前立腺がんと判明するも、治療を受けて寛解し、現在も再発・転移なし。

58歳で前立腺(ぜんりつせん)がんが見つかりましたが、当時先進医療だったトモセラピーという放射線治療によって寛解(かんかい)し、今は元気に過ごしています。野球を通して身につけた物事の考え方や経験を生かし、納得のいく治療法を選ぶことができました。

僕が社会人野球を経て読売(よみうり)ジャイアンツに入団した頃は、9年間連続してプロ野球日本シリーズを制覇した時代の「V9選手」はすでにいなくなって、長嶋茂雄(ながしましげお)監督が率先して次の時代を担う新チームを作ろうとしていた時期でした。

今や伝説となっているのが、1979年秋に行われた「地獄(じごく)伊東(いとう)キャンプ」です。参加したメンバーが口をそろえて「二度とやりたくない」というほどの、ハードなキャンプでした。僕はもともと腕を振り下ろすオーバースローで投げていましたが、キャンプ中に試行錯誤を重ねるうちに、腕を横から出すサイドスローだと調子がいいと分かったんです。左ピッチャーの場合、サイドスローは基本的にはタブーとされていました。サイドスローで投げると右バッターからすればボールが見えやすくなり、変化球などにも対応しやすくなるからです。それでも、僕は迷わずにサイドスローに投球フォームを変えました。サイドスローに変えてからは頭で思い描いたとおりのボールが投げられるようになり、初めて真のプロピッチャーになったように思ったものです。

プロ野球選手は勝ち負けがハッキリしているので、けっこうストレスがたまります。試合に負けると、テレビや新聞で報道されて全国に知られます。僕はリリーフピッチャーですから、負けた時にはスポーツ新聞に大きく「(すみ)、打たれる!」と書かれるわけです。優れたリリーフピッチャーなら抑えるのが当たり前です。打たれて負けたことが話題になるほどいつも抑えているのが一流の(あかし)なわけですが、負けは負け。負けた翌日は買い物の時の店員さんや、周りのお客さんの視線が痛くてコンビニにも行けないほどでした。

僕の場合、ストレスの発散にはお酒が欠かせません。ワインなら一本くらいは軽く空けますし、ビールは僕の中では炭酸水(笑)。ビールをチェイサーにしてブランデーを飲んだりしていましたね。次の日に多少お酒が残っていても、練習で汗をかくうちに抜けてしまうんです。

お酒を飲んだ次の日の登板は、いつも以上に気合いが入ったものです。飲みすぎたせいで負けるとなると、お酒をやめるしかありません。絶対にお酒はやめたくなかったので、いつも以上に真剣に投げていたわけですね。

「地獄の伊東キャンプ」を乗り越えて手にしたサイドスローで、角盈男さんは"巨人の守護神"と呼ばれるようになった

引退後は野球解説者の道に進むことを考えていたのですが、引退した頃(1992年)はマスコミ全体で解説者が減らされる傾向があり、周囲からのすすめもあって、「元プロ野球選手のタレント」になりました。

タレント活動と並行して、2008年、52歳の時に恵比寿(えびす)に昭和歌謡曲バーをオープンしました。前立腺がんが見つかったのは、その6年後です。以前から、PSA(基準値は4.0以下)の数値が高めで9.2くらいでした。でも、お店のお客さんも「10を超えなきゃ平気だよ」なんていっていましたし、特に自覚症状もなかったので全然気にしていませんでした。

58歳の時、古くからの知人に誘われて、大阪で1泊2日の人間ドックを受けたんです。PSAの数値9.4。人間ドックの先生から、「東京で前立腺の検査を受けてください」と病院を紹介されました。

渋々、紹介された病院を受診したところ、精密検査で前立腺がんと診断されました。その時はショックというより、「ふーん、がんなのかぁ」と淡々と受け止めたように記憶しています。自覚症状がまったくなかったので、がんといわれてもあまり実感が湧かなかったんですね。

固定概念にとらわれなかったからこそ、寛解という結果につながったのだと思います

先生いわく、僕の前立腺がんの状態は「普通」とのことでした。一般的に前立腺がんは進行が遅く、70代で見つかった患者さんの中にはなんの治療もしない方もいるそうです。ただ、僕の場合は58歳と比較的若く、骨などに転移する可能性があったので治療をすることになりました。

選択肢として手術と放射線治療の二つが提示されたのですが、手術となると何日間か入院しないといけません。仕事の都合もありますから、できれば入院は避けたかったので放射線治療を選びました。

放射線治療にもいくつかの種類があり、当初は重粒子線治療を受けることにしたんです。でも、もともと受診していた都内の病院では手術しかできないといわれていたので、重粒子線治療を受けられる千葉の病院に移りました。

重粒子線治療自体は一ヵ月ほどなのですが、その前後に半年間のホルモン療法が必要なのだそうです。ところが、ホルモン療法は千葉の病院ではできないので、以前の病院で受けてくださいといわれ、気まずかったのですが、もう一度、これまでの病院を受診してホルモン療法を受けました。

ホルモン療法を始めて一ヵ月ほど過ぎた頃、トモセラピーという放射線治療があることを知ったんです。詳しい話を聞きに行ったところ、トモセラピーはがんにピンポイントで放射線を照射する治療法で、正常な組織へのダメージが少なく、一ヵ月に15回の照射で治療が終わるとのことでした。重粒子線治療中は飲酒を控えなければならなかったのですが、トモセラピーでは特に飲酒の制限はないという説明もありました。「僕に合っているのはトモセラピーのほうだ」と考え、すぐに重粒子線治療からトモセラピーに切り替えました。早速始まった治療は一ヵ月で終わりました。

「野球をしていた頃から、何事にも『固定概念』を持たないようにしていました」

トモセラピーは、MRI(磁気共鳴画像法)検査を受けるような感じで、機械の中で寝ているだけでした。非常にらくだったのですが、困ったのが、あおむけで寝たままの姿勢で排尿をしなければならなかったこと。前立腺がんの治療の精度を上げるために必要なことと説明がありました。事前に十分に水分をとりますから尿意はもよおすのですが、寝たままの状態で排尿するというのはなかなかできないものでした。

僕は野球をしていた頃から、何事にも「固定概念」を持たないようにしていました。野球界では「左投げのサイドスローはタブー」という固定概念があるわけですが、僕は「バッターが打てないようにさえすればいいだろう」という考え方を優先させて、固定概念にはとらわれなかったわけです。

プロ野球選手には故障がつきものですから、現役時代はいろいろな治療法を試してきました。整形外科や鍼灸(しんきゅう)といった治療のほか、体がよくなるという水を飲んだり、NASAのロケットでも使われているというオイルを塗ったり、日本で導入されはじめたばかりのレーザー治療を受けたり……。自分で実際に話を聞いて、よさそうだと思ったものは全部試すようにしていました。

前立腺がんの治療への取り組みも、野球とまったく同じように進めていました。自分に合う治療法を探し、当時はまだ一般的ではなかった重粒子線治療やトモセラピーといった治療を受けることに決めたんです。固定概念にとらわれずに情報を集めて自分で判断したからこそ、寛解という結果につながったのだと思います。

気持ちの持ち方ひとつで結果は変わってくる——僕はそのことを野球から教わりました

気持ちの面も大きかったように思います。気持ちの持ち方ひとつで結果は変わってくる——僕はそのことを野球から教わりました。僕はリリーフピッチャーでしたから、ピンチの場面で出場することが多かったわけですが、その時、「長嶋監督、なんでこんなところで起用するんだよ!」と怒りながらマウンドに上がるのと、「ここを抑えられるのは俺しかいないだろう」と思いながら出ていくのとでは、必ず後者のほうが成績がいいんです。自分の感情に振り回されず、「どう勝つか?」という考え方に変えることができるからだと思います。

前立腺がんと分かった時も、不安になるより先に、「どうやってがんに勝とうか?」と考えることができました。結果、戸惑ったり不安になったりする時間が少なくなり、冷静に治療法を検討できたことがよかったのだと思います。

僕の元気の秘訣(ひけつ)はお酒です。好きなお酒をいつまでもおいしく飲みつづけられるよう、食事や運動にちょっとだけ気をつけて生活をしています。気になることがある時には主治医の先生に相談して、生活を改善しながら、自分なりにいい状態を保つようにしているんです。「お酒をやめたくない」というわがままでも気楽に相談することができる主治医の存在は、今の僕にとって大きな安心感につながっています。