プレゼント

「病人を減らして元気な人を増やす」使命をフレッシュフルーツジュースの普及で果たしたい

患者さんインタビュー

商業ディレクター 宮本 健さん

40℃の高熱が続いたものの原因が分からず、4つ目の病院で悪性リンパ腫と判明しました

[みやもと・たけし]——1965年生まれ。商業施設士。大手外食企業に勤務後、2006年に「企業の収益向上・ブランド力向上」をサポートするアット・エイド有限会社を設立。飲食店・小売店を総合的にディレクションし、話題のプロジェクトから小さな個人店舗まで、多数の案件を手がける。2012年に発症した悪性リンパ腫の経験から、「生フルーツジュースプロジェクト」を発案。“本物のフレッシュフルーツジュース”の普及にまい進、2023年6月にフルーツピューレ『完全果実』のブランドを立ち上げる。

私は大手外食企業に勤務後、2006年に独立してコンサルタント業を立ち上げました。ジャンルごとに専門化されたコンサルティングが多い中、空間デザインやメニュー開発など、店舗に関わるすべてのことを手掛けるのが私のスタイルです。

心身ともにハードな毎日を送っていた当時の身長は174㌢で体重が62㌔。ウエストは72㌢と、無駄な肉のない健康的な体型でした。健康診断では、病気どころか検査値の異常を指摘されたこともなかったのです。

当時の食生活は、決して褒められたものではありません。栄養バランスを考えず、添加物が多く含まれる加工食品も気にせず食べながら、深夜までパソコンに向かう毎日でした。

体調に異変が生じたのは、2012年5月です。打ち合わせの約束時間に少し遅れていたので小走りをした時、極度の疲労感に襲われました。なんとか息を整えて打ち合わせを済ませましたが、その時は「もう年かな」と、不調について気に留めませんでした。

ところが、5月下旬になると乾いたセキが出るようになり、体を重く感じる日が増えました。6月初旬に近くの総合病院で診察を受けると、体温が38℃の高熱と分かりましたが、風邪と診断されてセキ止めの薬を処方されるだけでした。

その後は体調が一段と悪化していきました。会話をするだけでセキが出るようになったので、人と会うことを避けるようになりました。激しい疲労感を解消させようと、サウナに行って全身を発汗させる粗療治も試みましたが、体調はまったく戻りません。セキと高熱は日に日に悪化するばかりでした。

いっこうに回復の兆しが見られないまま、6月下旬に改めて再診を受けました。尿検査と血液検査、レントゲン撮影、CT(コンピューター断層撮影)検査などで調べてもらいましたが、不調の原因は分からず、検査結果も異常なし。この時期は体温が37~40℃と乱降下していました。

当時の私は「原因不明の熱とだるさは気合不足にある」と思い込み、自分に鞭を入れましたが体は正直です。クライアントさんから体調不良と思われないようにと打ち合わせ中は気を張るものの、その後はぐったりする状態で、「人間として機能が壊れてしまったのでは……」と絶望感に包まれていました。

7月半ばになると、体温が連日40℃を超えるようになりました。医師をしている親友に相談すると、「明らかに体がおかしい。私の師匠に診てもらおう」といわれました。その医師は神奈川県内でクリニックを開業しているそうで、一縷の望みをかけてクリニックを訪れました。

親友が師匠と呼ぶ医師に診察を受けると、「脾臓が異常に膨張している」といわれ、呼吸の浅さと脈の速さも指摘されました。翌日に医師から電話があり、「病名は分かりませんが、とても危険な状況です。すぐに紹介状を書きますから、大きな病院で診てもらってください。どこの病院に行きますか?」といわれました。その時初めて、自分の体が危機的状態に陥っていると気づいたのです。

自宅近くにある大学病院を希望することを医師に伝えると、すべての段取りを組んでくださいました。慌ただしく入院の準備をして紹介された大学病院へ行くと、「病床に空きがないので最短で3日、最長で7日間お待ちいただきます」とのこと。今日から入院しこれで救われると思い込んでいた私は想定外の事態と高熱で愕然としました。

クリニックの医師に電話で相談したところ、「3日も待てません。別の病院をあたりましょう。どこがいいですか?」といわれ、近くにある別の大きな病院を希望しました。医師はすぐに入院できるように段取りを組んでくださり、翌日に入院用の着がえなどを持って病院へ向かいました。

その日の体温は42℃の高熱で、待合室のイスに座ることすらつらく、検査の時間まで横にならせてもらいました。すぐに検査をしてくれると思いきや3時間待ち、ようやく血液とCTの検査を受けました。医師の見解を聞くまでさらに2時間待ち、「今にも死ぬんじゃないか」と思えるほど意識の弱いぐったりした状態で診察室に入ると、医師から「悪いところは見当たりませんので、入院の必要はありません」と、予想外の結果を告げられたのです。病院の受付から会計まで約8時間。高熱に耐えて過ごしたこの時間は人生で最も苦痛で無駄な時間でした。

病院から戻った後も42℃の熱が続いていたその晩、震えが止まらなくなり、救急車を呼びました。意識もうろうとした状態で入院予約をしていた大学病院に搬送されると、医師から伝染病の疑いがあると診断されて隔離病棟に運ばれました。病気を特定するためにさまざまな検査を受けましたが、病名が不明のため対症治療を受けられず、高熱の乱高下が続いて死を意識した瞬間が何度もありました。

入院中は食欲もなく、生きるために病院食を流し込む毎日でした。搬送から12日目にようやく伝染病でないことが分かり、4人部屋の一般病棟に移りました。それでも病名は特定できず、私は「謎の病人」として病室で過ごすことになったのです。

一般病棟に移った後も、原因を特定するための検査が続きました。ある日、医師から「肺にブツブツができている」といわれ、細胞を採取して検査をすることになりました。かなりの痛みを伴いながら、肺にカメラを挿入して調べた結果、ステージⅣの悪性リンパ腫(非ホジキンリンパ腫:血管大細胞型B細胞性リンパ腫)と判明しました。 

悪性リンパ腫は、白血球の一つであるリンパ球ががん化することで発症します。「血液のがん」といわれる悪性リンパ種は、がん細胞の形態や性質によって、大きくB細胞リンパ腫、T/NK細胞リンパ腫、ホジキンリンパ腫などに分類され、細かく分けると100種類以上あるとされているようです。悪性リンパ腫には、ゆっくり進行するタイプと活動の速いタイプがあり、前者は治療しても治りにくく、後者は治療が間に合えば治るケースが多いそうです。私は後者のタイプでした。病状の深刻度からすぐに治療を始める必要があり、悪性リンパ腫に広く効果がある抗がん剤治療を始めることになりました。

抗がん剤を点滴された瞬間、「体の中に異物が流れている」という体感がありました

宮本さんは抗がん剤治療中に脱毛をはじめ、副作用に苦しんだ

抗がん剤はがん細胞を攻撃する一方で、正常な細胞も攻撃してしまうため、体力がないと治療を受けられないようでした。私は極度に弱った状態でしたが、他に治療方法はなく医師と相談をして治療が始まりました。

抗がん剤治療に伴う吐き気や倦怠感、脱毛といった副作用の話は耳にしていたものの、私は軽視していました。実際に抗がん剤が入った点滴を打つと、その瞬間に「体の中に明らかな異物が流れている」という体感があり、その後は想像をはるかに超える頭痛と吐き気に襲われました。抗がん剤治療は3週間に1度、半年間で計8回。前半は病院内で、残りの4回は退院後に通院して点滴を受けました。

3回目の治療の頃から抗がん剤治療の苦痛を軽減できる策を体得しました。それは「体を1㍉も動かさないこと」です。治療中は手足をわずかに動かすだけで苦痛がひどくなることに気づきました。私の場合、点滴治療中の約2時間とリカバリーのために安静にする約1時間、合わせて3時間を微動だにしない意識で過ごすことで、苦しさが大幅に軽減されたのです。抗がん剤治療中の方はこの方法を試してみてください。

入院中、トイレに行く際はナースコールで看護師さんを呼び、車イスで連れて行ってもらいます。深夜にコールボタンを押すたびに、申し訳なさを感じました。体調がやや回復したので、自力歩行でトイレに行くチャレンジをしたところ、私の姿を看護師さんが見つけて「宮本さんが歩いている!」と驚かれたこともありました。私がトイレまで歩いたことは、看護師さんが集まるナースルームで話題になったそうです。おそらく私が重篤ゆえ、助からない可能性が高い患者と思われていたからでしょう。入院中は、突然音信不通となって迷惑をかけている仕事関係の方々の一人ひとりに謝罪に行きたい気持ちでいっぱいでした。

入院によって骨折した宮本さんの足。大きく腫れ上がっていることが分かる

2012年9月、酷暑の日に退院となりました。50日間の入院中、会話や歩行をほぼしていなかったので、退院時は小さな声しか出ず、歩く練習からやり直しでした。一歩一歩の着地を確かめないと歩行に自信がなく、よろける不安が常にあったので、人とすれ違うことが恐怖でした。ペットボトル飲料のキャップが開けられないほど力が弱り、自分で何もできないことで今後の視界はゼロ。抗がん剤治療の影響から骨が弱くなり、歩行訓練中に骨折した時は心も折れました。

医師から「悪性リンパ腫は再発リスクが高い。宮本さんの場合は42℃の高熱が長く続いたので、脳に障害が残るかもしれない」と告げられていたので、不安しかない精神状態がしばらく続きました。もし自爆スイッチのボタンがあれば押していたかも知れませんが、ボタンを押す心の強さもない状態でした。「何もできないけれど、目の前のやれることだけをちゃんとやろう」と、自分を静かに少しだけ応援していました。退院して自宅で安静にしていた頃は、体調のよくなる流れとは逆に、最も心が苦しい時期でした。

果物の栄養素を丸ごととれるフルーツジュースを介護施設や医療機関に届けたいです

フィリピンのミンダナオ島で見た光景が、フルーツが持つ生命力を感じさせるきっかけの一つになった

退院から1年後、私が悪性リンパ腫の治療を受けていたことを知らない知人から、フィリピンのミンダナオ島を舞台にしたプロジェクトの依頼がありました。体調を伝えると、「助言だけでいいから」とのことだったので、不安ながらもお引き受けしました。ミンダナオ島を訪れて驚いたのは、現地の人のパワフルさと果物の豊富さです。生命力に満ちあふれたミンダナオ島の風景を見ながら、「野生動物は病気にならないが、人間と家畜は病気になる。それはなぜか?人間の生活がひずんでいるから」というある生物学者の話を思い出しました。

ミンダナオ島から帰国した私は、「人間が健康でいるためには野生動物に近づけばいい」と思うようになり、人間に最も近い野生動物といえるサルの食生活に近づく努力を始めます。サルは植物の葉や実、根などを食べています。人間の食事に置き換えると野菜や果物の生食です。筋骨隆々のゴリラは肉を食べません。果物や木の実を常食しながらあのマッチョな体を保っています。

四季と豊かな自然に恵まれる日本は、さまざまな果物を味わえる、世界でも有数の果物王国です。厚生労働省が提案する食事のバランスガイドでは、1日200㌘の果物摂取が推奨されていますが、現実には日本人の果物ばなれが進んでいます。

手軽に果物を摂取する手段として、最も手っ取り早いのがフルーツジュースの活用と確信した私は、日本中にある数百店舗のジュース店を視察し、海外の店舗にも足を伸ばしました。驚いたことに、日本よりも諸外国のほうがフルーツジュースに真摯に向き合っていることが分かりました。果物王国である日本のフルーツジュースのほとんどは、果物に砂糖水で甘味を付けたものでした。少数派の砂糖を使わないジュースは健康面ではリスペクトできますが、けしておいしいと思えるレベルではありませんでした。

東京・神楽坂にある「ハピマルフルーツ」は、宮本さんが手がける店舗の一つ

私は砂糖など一切の甘味料を使わずにおいしさを成り立たせるため、5~7種類の果物を素材ごとに搾り方を変えた非加熱のミックスフルーツジュースを考えました。開発は時間にして4年ほど、1000回を超える試作を繰り返した結果、食に携わる味覚のプロの方たちからも味と食感で好評価をいただけるようになりました。私が開発したフルーツジュースは現在、東京都の神楽坂や東京ドームシティのLaQua(ラクーア)にある「ハピマルフルーツ」という店舗で販売しています。健康や美容、ダイエットに関心が高い人を中心に、発売から1年間の累計で6000杯を超える販売数を記録しています。小さなお子さんに正しい味覚を教える食育としてご愛飲いただいているお母さんもいます。

今でも日々、自分でフルーツジュースを造っています。退院からちょうど10年になりますが、体調は常に良く、風邪ひとつ引かない体になりました。フルーツジュースは腹持ちもいいので、肥満に悩んでいた友人に紹介すると、努力せずに1年で8㌔もの減量に成功しています。

「ハピマルフルーツ」では、フレッシュフルーツジュースのほか、フルーツサンドも大人気!

私は今、「完全なフレッシュフルーツジュース計画」と題したプロジェクトに取り組んでいます。一般の方はもちろん、アスリートや療養中で体調管理を目的とした方、さらには医療機関などにもフルーツジュースを届けたいと思っています。お年寄りや食事をとることが難しい方でも手軽に飲めますし、災害などが起こった際に被災地で提供することも視野に入れています。国内の農園は従事者の高齢化や重労働から人手不足となっていますが、生産者さんの果物とフルーツジュースのコラボレーションから日本の農業の振興にも役立てたらと考えています。

一時は生死をさまよったものの助かった命です。これからの人生は、「世の中に元気な人を増やす!」という使命をフルーツジュースの普及によって果たしていきたいと思います。