毎日働き、遊びまくっていた59歳のときに胆のうがんと分かり余命を告げられました
19歳のときに青果業の仕事を始めてから、猛烈に働く仕事人生を送ってきました。朝早くから野菜の仕入れに駆け回り、「たくさん売ろう!」「どの店よりも安く売ろう!」と、商売をガンガン仕掛けていました。おかげさまで商売は軌道に乗り、首都圏に10店舗を持つまで成長しました。
仕事好きの私は、遊びも旺盛でした。夜更かしもするし、お酒もたくさん飲む。そんな生活がたたって、57歳のときに急性膵炎になりました。
手術を担当してくれた先生はとても熱心な方でした。もともと医師嫌いの私が「すばらしいお医者さんっているんだな」と感心したくらいです。その先生から「退院後も定期的に検査を受けてください」といわれた私は、手術後も通院を続けていました。ところが、1年8ヵ月後に受けた超音波(エコー)検査で、胆のうにがんが見つかったんです。2010年3月のことでした。
腹腔鏡手術でがんを摘出したものの、5月には周囲のリンパ節に転移していたことが分かり、開腹手術を受けました。手術後は抗がん剤治療を受けることになりましたが、先生から「胆のうがんは希少がんの一つなので、特効薬がない」といわれました。結局、内臓系のがん患者に多く使われる、ジェムザールとTS‐1という抗がん剤を使って治療を受けました。
抗がん剤治療は体力を奪われます。がんと診断される前に75㌔あった体重は、あっという間に50㌔まで落ちました。副作用もしんどかったですが、体力が奪われることがきつかったです。自宅の2階に上がるときは、階段の途中で2回休憩しないと昇りきれないんです。体力には自信があったので愕然としました。
しんどい抗がん剤治療を耐えたものの、2011年の正月明けには、がんが全身に転移していることが分かりました。先生から「せいぜい8月まで」と余命を告げられた私は、緩和ケア病院を紹介されました。
そのときの心境は、どう表現したらいいのか……呆然自失とは、まさにこのことです。家内はいまでも「あのときは地獄のようだった」といいます。
「どうやったら治せるのか」「どうやったらもっと生きられるのか」。生きることだけを考えていた私は、がんに関する本を読みあさり、治してくれる医師を探して全国に足を運びました。がんに効くという漢方薬を処方してもらうために、海を渡って中国にも行きました。ビジネス書ばかり並んでいた書斎の本棚は、がん関係の本で埋め尽くされました。
「がんが治ったら何をするの?」と質問されたとき、いい年をした大人が何も答えられませんでした
病院の治療のみならず、民間療法と呼ばれるものも試しました。その中の一つとして催眠療法を受けたときに、患者さん向けの勉強会で講師をされていた、作家の小原田泰久さんとの出会いが大きな転機となりました。
実をいうと、小原田さんの話より、最後に小原田さんが告知した「イルカと泳ぐ小笠原ツアー」のほうが印象に残りました。ツアーの開催は2011年8月。医師から告げられていた、私の命が終わる時期でした。私は小原田さんに電話をかけて、「私は末期がんです。医師から余命を告げられていますが、参加できますか?」と尋ねました。驚いたことに、小原田さんは「大丈夫ですよ」といってくれたのです。おもしろい人だと思いました。
小笠原への交通手段は船しかありません。片道24時間の船旅ですが、八丈島を過ぎたときに急病人が出たので、48時間かけて島に着きました。
小笠原の海はとにかく美しかったです。どこまでも青く透明な海でイルカといっしょに泳いだ毎日は、ほんとうに楽しかった。体重が落ちてゲッソリしていた私を、誰も病人として見なかったこともうれしかった。
小笠原から戻った後、小原田さんから紹介された免疫療法の先生を訪ねると「治ります」といってくれたんです。先生から力強い言葉をもらった私は「よし!」と覚悟を決めて、免疫療法と放射線治療を組み合わせた治療を受けることにしました。この治療は私の体に合っていたのでしょう。約2ヵ月後、がんはきれいに消失していました。
再発のリスクもあるので検診には行っていましたが、がんが治ってうれしくなった私は、ゴルフ三昧の生活を送るようになりました。治療中に、私がいなくても会社の経営が回るようにしていたので、時間がたっぷりあったのです。
しかしながら、2015年、遊んでばかりいた私を、がんが再び襲いました。今度は悪性リンパ腫です。担当の先生を信頼していたので、精神的な動揺はありませんでした。
2度目のがんを患ったとき、それまで自分の人生の意味など考えることもなかった私に、大きな転機が起こりました。統合医療の分野で有名な帯津良一先生(帯津三敬病院名誉院長)の講演会で、先生とお話しする機会に恵まれたんです。帯津先生の著書をたくさん読んでいた私は、興奮しながら先生にがんの経験を話しました。すると先生から、こんな問いかけをいただいたのです。「大野さんはがんが治ったら何をするの?」と。
「え?」と思いました。人生の中で、自分が何のために生きているのかを考えたことは1度もありませんでした。生まれて初めて尋ねられた質問に、いい年をした大人がまごついて答えられなかったんです。その日を境に、自分が生きている意味を真剣に考えるようになりました。
そんなときに知ったのが、農業と福祉を連携させる「農福連携」の分野で活動をしている人たちの存在でした。障害者の人たちを雇い、農作物の自然栽培に取り組む活動があることは以前から知っていましたが、当時は気にも留めていませんでした。500人ほどの集会に参加してみると、通常は1万円程度の障害者の月給を、5万円まで上げられるように、みんなで真剣に話し合っていたのです。ただでさえ難しい農業と福祉を連携させるチャレンジ精神に感銘を受けた私は、「よし、俺もやろう!」と思いました。
いったん決めたら、あとは突き進むだけです。千葉県の鴨川市で放置されていた約9000坪の農地を借りて、農業への挑戦が始まりました。家内は「遊んでいるより、ずっといい」と、大喜びで賛成してくれました。
私は長年、野菜を売っていましたが、育てたことはありません。農業は土壌や気候、水、空気によって育ち方がまったく変わります。地元の人たちに教えてもらったり、手伝ってもらったりしながら、「イチから勉強!」のつもりでなんとかやっています。
放置されていたとはいえ、農薬を使っていた農地は土壌作りから始めなければなりません。農業を始めて2年たちましたが、ようやく土が落ち着いてきたという感じです。
自然栽培で育てた稲は、土から栄養をもらうために根をしっかり張ります。台風が来ても、ほとんどの稲は倒れません。自然栽培の野菜は、ゆでたときにアクが出ないですし、味がしっかりしてとにかくおいしい。野菜が嫌いというお子さんは、おそらくほんとうの野菜の味を経験していないのだと思います。
農業をやめようと思ったことは1度もありません。農作物の流通ルートも確立していきます
農業は自然を相手にするので、計画どおりに作業が進まないことがたくさんあります。私の場合は経営している店舗で野菜を販売できますが、それでもまだ赤字です。私はずっと野菜を値切って仕入れていましたが、野菜を作る立場になって初めて、農家さんに悪いことをしていたと反省しています。
いまは毎朝、日の出前に千葉市の自宅から畑のある鴨川市まで車で通い、日中は農作業、夕方に帰宅する生活です。いまの季節はサヤエンドウやグリーンピース、スナップエンドウなどの豆類を作っています。
「農業は大変でしょう」とよくいわれますが、やめようと思ったことは1度もありません。むしろ、私が現役として働ける間に自然栽培農法で育てた農作物をブランド化して、流通ルートを完成させたいと思っています。最近はレストランだけでなく、ホテルや葬祭場などもライバルとの差別化を図るために、国産の自然栽培の農作物に着目しているんです。自然栽培の市場は確実に広がるはずですから、しっかりとした流通ルートを作ることも私の仕事だと思っています。
振り返ってみると、私の場合、引退後の人生を考えた50代後半から体調をくずし、がんを発症しました。「病は気から」といわれるように、人生に隙があると病気になってしまうのかもしれません。幸いなことに、多くの人たちとの運命的な出会いをいただきました。いまは10年前の私からは考えられないことをしているのですから、人生や出会いとはおもしろいものです。
いまの私は「自分の人生を生きている」と毎日感じています。社会に貢献できることに打ち込めるのは、ほんとうに幸せなことです。