プレゼント

「必ずできる!」と自分を信じて脳梗塞を乗り越えました

私の元気の秘訣

元プロサッカー選手 ラモス 瑠偉さん

サッカー日本代表のメンバーとして活躍したラモス瑠偉さん。63歳になった現在も、サッカーの指導者やタレントとして精力的に活動されています。4年前に脳梗塞のうこうそくで倒れたものの、奇跡といわれた復活劇の背景には、サッカー仕込みの強靭な意思と努力がありました。

脳梗塞で倒れたあの日、二度と家族に会えなくなる不安にさいなまれました

[らもす・るい]——1957年、ブラジル・リオデジャネイロ生まれ。1977年に来日し、読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)に入団。1989年、日本に帰化。1990年、サッカー日本代表に選出され、32試合に出場。1998年、現役引退。日本最優秀賞選手賞2回、JSL得点等2回、JSLアシスト王3回、Jリーグ功労選手賞、日本プロスポーツ大賞・殊勲賞、リオ・ブランコ勲章などを受章。競技活動以外にも、パラスポーツ・バリアフリー応援大使やコメンテーター、タレント、教育など、さまざまな分野で活躍中。

大病を乗り越えたとき、「運がよかった」という人がいます。でも、それは間違いだと私は思っているんです。

ほんとうに大切なのは、自分の力を心から信じれられるかどうかであり、必ず病気を治すという強い気持ちを持ちつづけられるかどうかです。私が4年前に発症した脳梗塞のうこうそくとその後の後遺症から立ちなおり、いまこうして元気に生活することができるのも、「自分なら必ずできる!」という、ぶれない思いがあったからだと確信しています。

私が脳梗塞で倒れたのは、2016年の暮れのことでした。発端は朝、体が突然けいれんを起こし、ベッドから転げ落ちてしまったことです。私はどうにかベッドに戻ろうとしましたが、なぜか思うように体が動かせません。

そんな私の異変に気づいた妻が、慌てて119番に電話をかけて救急車を呼びました。そして搬送された先の病院で診断を受けたところ、右の中大脳動脈ちゅうだいのうどうみゃくに血栓が見つかったのです。

といっても、私自身はこのあたりの記憶はほとんどありません。何とかベッドに戻ろうともがいていた記憶はうっすら残っているものの、もうろうとしたまま、気づけば病院で寝かされている状態でした。

そこで医師が「脳梗塞です」と話しているのを耳にしたときには、正直、絶望的な気分に陥りました。ちょうどその頃、身近な友達を脳梗塞で亡くしていたこともあり、もしかすると自分も助からないのではないか、もう二度と愛する妻や子どもと会えなくなってしまうのではないかと、不安でたまらなくなってしまったんです。

何しろそれまでまったく予兆めいたことがなく、いまでもなぜあのタイミングで脳梗塞が発症したのか分かりません。いつものように好きなものを食べ、トレーニングをして、翌日に備えて眠りにつく。何もかもがふだん通りの生活でした。ただ、強いて挙げれば、トレーニング後の水分補給が足りなかったのかもしれないと思いましたが、後の祭りです。

妻の迅速な対応のおかげで、どうにか一命をとりとめた私ですが、左半身にはまひが残っていました。腕を上げることも足を伸ばすこともできず、思った通りに動いてくれない体に、イライラが募ります。一方で内心では、いつ脳梗塞が再発するかと考えると、気が気ではありません。これほど弱気でネガティブな気持ちになるのは、私にとっては非常に珍しいことでした。

ところが、少しずつ平静を取り戻すにつれて、気持ちも前向きになっていきました。

「結果的にこうして生きているということは、神様がもう一度チャンスを与えてくれたということではないか。だったら、この病気に立ち向かい、日常を取り戻す努力をしなければ……」

実際、もし血栓があと1、2㍉ずれていたら、命は助からなかったかもしれないと医師にいわれました。ならば、こうして生きながらえたのは奇跡のようなものです。

そこで私は決意しました。必ずまたサッカーができる体を取り戻そう、と。

リハビリだけでなく段階的な目標を設定して自主トレに励みました

最初は車椅子生活を余儀なくされましたが、できることからやっていこうと考え、入院からわずか2日後には歩行器を使ってトイレに行くようになりました。動けないからといって何もしないでいることには、とても絶えられなかったのです。

そうした奮い立つ気持ちを後押ししてくれたのは、入院から2週間後に受けた精密検査の際、結果を見た医師が発したこんな言葉でした。

「すばらしい回復力です。脳梗塞を起こした部位以外は、体のどこにも問題はありません。むしろ、年齢を考えれば驚くほどきれいな体ですよ」

当時の私は59歳。丈夫な体に産んでくれた親のおかげですし、日頃の鍛錬の賜物でもあるでしょう。

だったら、この調子で全力でリハビリに取り組めば、きっと元の体を取り戻すことができるはず。マイナスのことばかり考えていた日々がうそのように、そんなポジティブな心が戻ってきました。

医師のアドバイスでサッカーをリハビリに取り入れたことが、早期の回復につながった

年が明け、2017年の1月下旬になると、医師から専門のリハビリセンターへ行くようすすめられました。つまりはそれだけ体が順調に回復しているということですから、これはうれしかったですね。

リハビリセンターでは簡単なストレッチや運動など与えられたメニューを地道こなします。しかし、一刻も早く元気な体を取り戻したい私には、どうにも物足りません。

そこでリハビリ終了後も先生には内緒で、病院の階段を下から上まで何往復もする“自主トレ”を行いました。もちろん、肉体的に重労働で、息もすぐに上がってしまいます。それでも、私の目標はただ日常生活を送れるようになることではありません。再び子どもたちといっしょにサッカーがやれる体を取り戻すつもりなのですから、弱音を吐いてはいられません。

まずは目先の目標を「この病院から家まで走って帰ること」に設定して、ゆっくりとでも長く歩けるようになることを目指してリハビリに励みました。

こうした段階的な目標を設定するやり方は、アスリート時代の経験に裏打ちされています。何事も人は一足飛びに伸びることはなく、計画を立てて段階的に努力をすることが最も効率的であるということを、私は体験的に知っていました。

それでも、その道のりは決して平坦ではありません。地道に努力していても、なかなか体は思うように動かせません。

現役時代も苦手だった左足のリフティングで最高記録を更新!

そんなある日、しだいに焦りを募らせていく私の様子を見て、医師がこんなアドバイスをくれました。

「自分の得意な運動を取り入れてみると、リハビリの効果が上がりますよ」

私の場合、得意な運動といえば、もちろんサッカーです。そこでサッカーボールを用意して、まずは右足でリフティングを始めてみました。左足が動かないので以前のようにスムーズにはいきませんが、それでも数回はこなすことができます。

ならば左足ではどうかと試してみると、案の定、ボールはぽんと蹴るとあらぬ方向へ飛んでいってしまいました。足首が固まった状態なので、コントロールがまったく利かないのです。

それでも辛抱強く、何度も何度も左足でボールを蹴り上げてみるうちに、2度、3度、4度と少しずつリフティングが続くようになっていきました。

そこで私は目標を「20回」と設定しました。なぜなら、利き足ではない左足でのリフティングは、現役時代の最高記録が20回だったからです。

「神様は必ずチャンスをくれるものなんです」

こうして目標を定めたら、あとは「必ずできる!」と自分を信じて前へ進むのみ。私は来る日も来る日もボールを蹴りつづけ、ついに左足で25回もリフティングができるようになったのです。地道にやりつづけた結果、現役時代の記録を超えてしまったわけで、これには傍らでずっと見守ってくれていた妻も大喜びでした。

こうなると欲が出てくるもので、私は次の目標を51回に設定しました。お世話になっていた後援者の方の、51歳の誕生日に合わせてのことでしたが、努力を続けた末、やがてこの目標もクリアすることができました。やはり、努力は裏切らないということを、あらためて実感しましたね。

そうした努力の結果、晴れて退院の日を迎えた私は、2017年の3月には記者会見を開いています。直前に受けたMRI検査では順調な血流が確認され、新たな脳梗塞は一切なし。4月から仕事に復帰していいとのお墨付きをもらったことを受けての復帰会見でした。

入院中は全国のファンの方々から、ほんとうに多くの声援をいただきました。関係者の皆さんにも心配をかけましたし、とにかく元気な姿を見せたいとの思いから、私は会見の場でリフティングを披露しました。それを見て多くの方が安心してくれるのを感じ、2ヵ月間のリハリビ生活は過酷でしたけど、頑張り続けてほんとうによかったと、思わず胸が熱くなったものです。

他方では、味覚や嗅覚に異変が生じ、しばらく日常生活に不便を強いられました。

たとえば大好きだったチーズの香りに耐えられなくなり、ラザニアやカルボナーラ、グラタンなどを一切受けつけなくなってしまったのです。また、タクシーに乗り込んだ際には、車内の匂いに吐き気をもよおし、すぐに降ろしてもらうようなことがしばしばありました。

好物だったブラジルのコーヒーもだめ。キムチやニンニクなど匂いのキツイものもだめ。ビールすら飲めなくなってしまいました。

こうした症状には退院後、1年近くも悩まされることになりますが、その半面、かつてはほとんど口にしなかった魚や野菜を積極的に食べるように心がけるなど、再発防止のために生活習慣の改善にも取り組みました。

その後、いまもこうして元気でいられるのも、日々の心がけによるところが大きいでしょう。

「自分ならできる!」と強い気持ちで病気に立ち向かうのが大事

「できる!」という気持ちを忘れないでほしいと読者にエールを送る

私がブラジルから日本へやって来たのは19歳のとき、1977年のことでした。

日本にプロリーグができるはるか前で、読売よみうりサッカークラブ(現・東京ヴェルディ)でプレーしていた与那城よなしろジョージさんにスカウトされたのがきっかけです。

母親に少しでも楽をさせてやりたい一心で日本移住を決めた私ですが、読売サッカークラブに入団してすぐ、日本のサッカー界の現状に愕然がくぜんとさせられました。当時の日本サッカーというのは、ただ蹴って走るだけの非常にレベルの低いもので、ブラジルとは天と地ほどの差がありました。お客さんもほとんどいません。

これはえらい国に来てしまったと後悔しましたが、それでもホームシックに耐えながらがんばってこれたのは、松木安太郎まつきやすたろうをはじめとする読売の仲間たちのおかげでしょう。気心の知れた仲間たちとがんばっているうちに、日本のレベルは少しずつ向上し、ついにはJリーグも誕生しました。

なお、帰化して日本人になることを決意したのは、家族ができたためです。そのおかげで、日本代表メンバーに入ることもできました。

あの当時を思い起こしてみれば、いまの日本のサッカー界にはスター選手が大勢いますし、世界の舞台で評価される選手も少なくありません。ただ、昔と比べると技術的なレベルは上がっていても、頭を使う選手、ズルく戦える選手が減っているように思います。

何より、優れた選手は皆、すぐに海外へ出て行ってしまいます。選手それぞれの考え方があるので仕方がないことですが、理想をいえば、もっと業界全体で世界に通用するクラブチームを育ててほしいですね。私はいま、東京ヴェルディのチームディレクターを務めていますから、今後も引きつづき、自分にできる形でそれに貢献できればと思っています。

また、こうして元気を取り戻したからには、サッカー以外にもやりたいことがたくさんあります。たとえば私は映画が大好きなので、オファーさえあればいつか俳優業にだってチャレンジしたい。

実際に一度、北野武きたのたけし監督に「出演させてよ!」とお願いしたことがあるんです。すると武さんは、「南米からの麻薬の運び屋役なんてちょうどいいかもしれないな。成田についてすぐに拘束されちゃうの」といってくれましたが、できればもう少し出番の長い役柄を与えてほしいですよね。

ともあれ、こんなふうに新しい夢を語ることができるのも、すべては諦めずに努力をしたからです。とにかくどんなときでも「できる!」という気持ちを失わないことが何よりも大切。

病気になると人は弱気になりがちですけど、自分がいまこうして生きていられるのは、まだ何か役割があるからだと考えて、強い心で立ち向かってください。そうすれば、神様は必ずチャンスをくれるものなんですよ。