プレゼント

足腰が命——電車で移動する時は座りません

私の元気の秘訣

マジシャン マギー司郎さん

茨城弁を生かした独特のおしゃべりマジックでおなじみのマギー司郎さん。病欠を一回もせずに現在もステージでひょうひょうと笑いを取り、観客から喝采かっさいを浴びる日々を送っています。トレードマークの黄色いえんび服で取材会場に現れたマギー司郎さんに、いつまでも第一線で活躍しつづける秘訣ひけつをお聞きしました!

16歳の時に親にはなにも伝えずに東京へ出てきました

[まぎー・しろう]——1946年、茨城県出身。1968年、正統派マジシャンのマギー信沢に入門。1980年に『お笑いスター誕生‼』(日本テレビ系列)で7週連続勝ち抜きしたことを機に、テレビでも活躍。親しみやすい芸風と茨城なまりのしゃべりで、老若男女に愛される存在となる。2004年に出演した『課外授業 ようこそ先輩』(NHK総合)の『おしゃべりマジックで強くなろう』が話題となり、日本賞「教育ジャーナルの部・東京都知事賞」(最優秀番組)を受賞。そのほかにも、放送演芸大賞ホープ賞、奇術協会天洋賞、ゆうもあ大賞グランプリ、第24回浅草芸能大賞奨励賞などがある。

私は茨城県のしもだて町(現・ちく西せい市)という、野と山と畑に囲まれたド田舎いなかで育ったので、子どもの頃から東京に強い憧れを持っていました。

例えば、雑誌なんかで都会の風景を見ると、〝色〟がまったく違うんです。田舎は自然の緑や土や畑の茶色であふれていて、それはそれで素晴らしいのでしょうけれど、子ども心には多様な建物やおしゃれな看板が風景を彩る東京の様子が、うらやましくてしかたがありませんでした。

だから、「早くこんな茶色い景色を抜け出して、明るい東京へ行きたい」と、ずっと思っていたんです。しかし、今ほど経済も交通も発展していない時代のことですから、東京へ出るのは簡単なことではありません。

私は中学校を卒業すると、職業訓練所に通うことになりました。今でいう専門学校のようなもので、私は建具を作る職人になるための技能を学びました。でも、特にそういう職業を志していたわけではなく、当時は仕事に就けるならなんでもよかったんですよね。

で、やっぱり東京への憧れが捨てられず、私は16歳の時に家出同然に茨城の生家を飛び出してしまいます。

仕事や住まいの当てがあったわけではありません。でも、とりあえず寝具さえあればどうにかなるだろうと、とんを担いで汽車に乗り込んだんです。

親にはなにもいわずに飛び出してしまいましたが、家族と不仲だったわけではありません。でも、私は9人兄弟の7番目ですから、皆さんが想像するような一般的な家族と比べれば、ちょっとドライな家庭環境だったとはいえるでしょうね。

なにしろ戦後の貧しい時代のことですから、親からすればとにかく家族を食べさせるのに必死で、生きていくだけで精いっぱいの状況です。父は戦争で足を悪くしていて、満足に働ける体ではなく、燃料用のまきを売ったり、木材で箱を作って売ったりと、あの時代なりにたくましく暮らしていました。

そんな生活ですから、9人のうちの1人がいなくなったところで、むしろ「食いぶちが減って助かった」というくらいに思っていたのではないでしょうか(笑)。そういう、おおらかな時代だったんです。

でも、いちばん上の兄貴にだけは、東京へ行くことは前もって伝えていました。これが非常に面倒見のいい兄貴で、僕の決意を聞くと、それまでためていたなけなしのお金から、1万5000円の現金を持たせてくれました。これはありがたかったですね。

そんな兄貴ですから、たぶん親にも後でうまくいってくれたのでしょう。私が突然消えても、家族が大騒ぎになるようなことはありませんでした。

さて、東京でなにをするかというと、特に具体的な夢を持っていたわけではありません。当時はとにかく田舎から抜け出したい一心でしかなかった私は、「東京へ行ってしまえばなんとかなるだろう」という、今にして思えばとても浅はかな考えでいました。

なにしろ雑誌に載っているきらびやかな写真のイメージだけで行動していますから、きっと素晴らしい世界が待っているだろうと、信じて疑わないわけです。

果たして、汽車に乗って栃木県のやま駅で乗り換え、うえ駅までトータル4時間ほどの道のりを経て、私は念願の東京に降り立ちました。なにはともあれ、まずは仕事を探さなければなりません。

「きらびやかな東京へ早く行きたいと思っていました」

担いでいた布団はいったん上野駅の手荷物預かり所に置いて、街をぶらつきながら求人を探します。でも、まだまだ景気もよくないし、未成年を雇ってくれるところなどほとんどありません。そこで上野からいけぶくろに移動してみると、運よくキャバレーの小間使いで雇ってもらえることになりました。

といっても、小僧だった私にできることは限られていますから、ひたすら氷を割ってビールを冷やしたり、掃除をしたり、ほんとうに雑用ばかり……。それでも住み込みで働かせてもらえたので、家賃が浮いて助かりました。

そういえばと、田舎から持ってきた布団が上野駅に預けっぱなしであることを思い出したのは、数週間後のこと。いまだにたまに思い出すんですよ。「あの布団、その後どうなったのかなあ」って(笑)。

戦後から高度成長期に差しかかる過渡期だからなのか、私が働いていたキャバレーも毎晩、実ににぎやかでした。お店は毎日、開店前から30人くらいの行列ができる盛況で、キャストのお姉さんたちは華やかなポリエステルの衣装で着飾っていました。まさしく、私がずっと憧れていたとおりのきらびやかな世界がそこにはありました。

もっとも、それを楽しんでいるような余裕はなくて、毎日仕事に追われててんてこ舞い。でも、時間とともにそうした状況に少しずつ慣れてくると、心にゆとりも生まれるもので、仕事のない昼間の時間をなにか有効に使えないだろうかと考えるようになります。

そんなある日、ふと近所でマジックの教室をやっているのが目に留まりました。子どもの頃、近所のおじさんがたまにマジックを見せてくれることがあったので、少し興味があったんです。

暇つぶしにちょうどいいと、すぐに教室に入ってマジックを教わりはじめてみると、これが意外としょうに合っていました。覚えたてのマジックを、夜お店でろうしてみると、みんなすごく喜ぶんです。自分がやったことで人がこんなに笑顔になるなんて、素晴らしいことだなと実感しました。

ますますマジックにのめり込んだ私は、そこそこネタが増えてきたところで、もっとおおぜいの前でやれないかと欲が出てきました。試しに電話帳を見ながら芸能関係の会社に問い合わせてみたところ、最初につながったのがストリップ専門のプロダクションでした。

私の世代の芸人さんは、ストリップ劇場で経験を積んだ人がとても多いんです。当時は全国の温泉地だけではなく、あさくさとかしぶとか、いろんなところに劇場がありましたね。

私が出演することになったストリップ劇場では、ショーの場つなぎとして出番をもらいました。次の演者のお姉さんが出てくるまで、マジックをやって場を持たせるわけです。ただ、普通にやるとすぐにネタが尽きてしまいますから、自分なりに一計を案じました。

例えば、手にしていた白いハンカチが赤に変わるマジックをやる場合。合図と同時に色が変わるだけなら、そのマジックはもうそこで終了です。だから、自分から「このハンカチが赤に変わります」というのではなく、お客さんに向けてこう語りかけるようにしたんです。

「ここに白いハンカチがあります。そこのお客さん、好きな色をいってみてください。今からこのハンカチをその色に変えてみせますから」

すると、お客さんは半信半疑な顔で「ピンク」や「青」と思い思いの色を口にします。しかし、事前に仕込んだネタは赤いハンカチしかありません。

そこで、「ごめんなさい、ピンクは今日お休みなんです」とか、「青は午前中で売り切れてしまいまして……」などと、誰かが「赤」というまで適当にしのぐことで時間をたっぷり使うわけです。幸い、お客さんのウケもよくて、これが私のおしゃべりマジックの原点になりました。

このおしゃべりマジックが少しずつ評判を呼び、あちこちの劇場やキャバレーからお声がかかりはじめ、やがて私はマジシャンとして生計を立てることになります。

1000円札が空中に浮くマジックを披露するマギー司郎さ
割り箸の先に両面テープを貼って1000円札にくっつけているとひょうひょうと種明かしをする

そのうち、当時人気だった『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系列)という番組に出ることになり、これをきっかけにテレビにも活動の場が広がっていきました。

家出同然に飛び出して以来、茨城の実家には一度も連絡を入れていませんでしたが、30代半ばになった頃、『がわひろしショー』(フジテレビ系列)という当時の人気番組で私を見た母から、テレビ局に電話がありました。母ははくないしょうで入院中だったようで、病院のベッドの上でたまたま私の姿を見つけたのだそうです。

そこで、私は見舞いがてら母に会いに行くことにしました。久しぶりに顔を合わせた母と通り一遍のあいさつを交わした後、持参した2000円を見舞金として手渡すと、母はお礼の言葉を口にすることはなく、「これだけか」といい放ちました。

そんな態度にげんなりしなかったわけではありませんが、母は昔から思ったことをはっきりいうタイプの人でしたから、「ああ、変わってないな」と、ちょっと懐かしい思いもありました。あの時代に9人の子を育てる母親というのは、そのくらい図太くないとやっていられないでしょうからね(笑)。

なにも考えずに布団一つ担いで東京へ出てきた私が、こうしてどうにか生きてこられたのも、そんな図太さを受け継いでいたからかもしれません。なにより、今日まで大病することのない、丈夫な体に生んでくれたのは親に感謝ですよね。

ストリップ劇場では毎日4回から6回の舞台を15年こなしました。トータルで芸歴は60年になるので、合計の舞台数は約3万回になります。でも、私は一度も病欠したことがないんです。

たくさん歩きますが、今では1日5000歩にとどめています

健康管理に関して気を遣っていることといえば、なるべくたくさん歩くということくらい。かつては1日に1万2000歩、1万3000歩も歩くことが珍しくありませんでしたが、年齢からするとこれは歩きすぎなのだそうで、80歳が見えてきた今は、5000歩程度にとどめています。

電車で移動する際も、まず座ることはありません。1時間ほどの距離も立ちっぱなしで、これが意外と足腰や体幹の鍛錬になっているのではないかなと思います。

「試しにマジックを覚えてみてはいかがですか?」

なにしろ舞台は立ち仕事ですから、足腰が命。おかげで、この年齢のわりに背筋がぴんと伸びていることをよく褒められます。

食生活についてもあまり意識したことはなかったのですが、先日、後輩が入院したのでお見舞いに行ったところ、出てくる病院食を見て、「なんだ、私がいつも食べているメニューばかりじゃないか」と感じたので、期せずして体にいい食事バランスになっていたのでしょう。肉や魚、野菜のほか、納豆などの発酵食品などを満遍なく食べているだけなんですけどね。

振り返ってみれば、若い頃からぜいたくをせずに劇場の賄いを食べつづけてきたのもよかったのかもしれません。劇場で出てくる食事って、ほんとうに質素なんですよ。ちょっとした主菜のほかにご飯とみそ汁、そして、タクアンが二切れ程度。たまに銭湯上がりにラーメンを食べることもありましたが、あれは最高のぜいたくでした。

あとは私の場合、毎日の半身浴も健康維持に役立っている気がします。へその位置くらいまでお湯を張って、夏場なら30分少々、冬なら45分くらい、ゆっくりぶねにつかりながら新しいマジックのネタを考えるんです。

人間、血の巡りがよくなると、発想も広がるようで、いまだに次々に新しいネタを思いつきます。だから、我が家のお風呂ふろ場には必ずメモ帳が置いてあるんですよ。

めぼしい趣味が見つからないという人は、試しにマジックを覚えてみてはいかがですか?人は笑うと免疫力が上がるそうですが、逆に笑わせるほうも大きな喜びを感じるものです。手先を使うから、きっとボケ防止にもいいでしょう。

私もまだまだ、多くの人を笑わせることで、自分も笑顔になりたいと思っています。いくつになっても、元気な姿をステージで皆さんにお見せしたいですね。