プレゼント

70歳になってもリングに立ちつづけます!

私の元気の秘訣

プロレスラー 藤波 辰爾さん

「ドラゴン」の愛称で親しまれ、IWGPヘビー級王座など数々のタイトルを手にしてきたプロレスラーの藤波辰爾さん。68歳になる現在も、現役選手として活躍しています。プロレス以外にも、芸能活動や趣味のお城巡りなど、精力的に活動する藤波さんに元気の秘訣(ひけつ)を伺いました。

格闘技経験がなかった私はデビュー戦まで1年以上かかりました

[ふじなみ・たつみ]——1953年、大分県生まれ。1970年、日本プロレスに入門し、翌年デビュー。1972年、アントニオ猪木さんが旗揚げした新日本プロレスに入団。1978年、WWWF(現・WWE)ジュニアヘビー級王座を獲得。ヘビー級に転向後、WWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。新日本プロレスではライバルの長州力さんと熱闘を展開。2006年、無我ワールド・プロレスリング(現・ドラディション)を旗揚げし、独自の活動を展開。2015年、WWE殿堂入り。プロレス生活50年を迎えた現在も、〝闘うレジェンド"として他団体に参戦中。

大分県の北東部、瀬戸内海(せとないかい)に面した国東(くにさき)半島東部に位置する(ひがし)国東郡(くにさきぐん)武蔵(むさし)(まち)(現・国東市)が、私の故郷です。海までは車で30分ほど、家の前には川が流れて裏には深い山がある、豊かな自然環境の中で育ちました。

父親は炭焼き職人でしたが、先祖伝来の田畑を耕してお米や野菜を作る半農の暮らしでした。私たち家族も自宅で作った米や野菜、飼っていた鶏が産んだ卵を食べる、半ば自給自足の生活を送っていました。

プロレスとの出合いは、小学3年生のときだったと思います。叔父さんの家に、当時はまだ珍しかったテレビがあったんです。大きな外国人レスラーを得意技の空手チョップでなぎ倒す、力道山(りきどうざん)さんの姿に憧れました。

やがて私の家にもテレビがやって来ました。毎週金曜日になると近所の大人から子どもまでわが家の居間に集まり、夢中になってプロレスを観ました。テレビ観戦を終えた後は、当時スター選手だったアントニオ猪木(いのき)さんやジャイアント馬場(ばば)さんの得意技を、二人の兄貴といっしょにかけあうプロレスごっこをしていました。

中学生になったとき、大分市内の体育館にプロレスの巡業がきました。家から体育館まで約50㌔も離れていましたが、どうしても観たかったので親にないしょで学校を早退し、田舎(いなか)の砂利道を自転車で4時間かけて体育館まで行きました。

兄弟の中では、私の体がいちばん大きかったこともあったのでしょう。兄貴から「おまえ、プロレスラーになれ」といわれるようになり、自分でもだんだんその気になっていきました。ただ、「どうしたらプロレスラーになれるのか?」の答えは、まったく見当がつきません。とりあえず、プロレスの巡業がある市内にいれば何か接点があるだろうと、別府(べっぷ)市内の専門学校に進み、勉強をしながらプロレス団体に手紙を送っていました。

でも、レスリングどころか柔道や相撲(すもう)といった格闘技の経験がない私に、プロレス団体から返事が来るわけがありません。そんなときに、「地元出身のプロレスラーがケガの療養で別府温泉に来ている」という情報が入ってきたんです

兄貴と二人で別府温泉にある旅館を何十軒も訪ね歩き、ついにそのプロレスラーを発見。それが、私の恩人となる北沢幹之(きたざわもとゆき)さんとの出会いでした。テレビ観戦はしていましたが、実物のプロレスラーを目の前で見たのは初めてです。体の大きさやプロレスラーのオーラに圧倒され、緊張でガチガチ。脚はガクガクと震えて、北沢さんから何を聞かれても「はい!」と首を縦に振るのが精一杯でした。

プロレスは大好きでしたが、いわゆるわんぱく小僧ではありませんでしたし、体もそれほど大きくありません。その後、入門が許されましたが、ケンカをしたことが一度もない少年がプロレスラーとしてやっていけるのか、不安を覚えるようになりました。

まったくの素人(しろうと)でしたから、入門直後はリングに上がることは許されません。若手選手の練習風景を見ながら、会場の隅っこでスクワットなどの基礎トレーニングをすることから、私のプロレスラーとしての歩みが始まりました。

柔道やレスリングの経験があれば、一般的には入門から半年ほどでデビューできます。私は素人そのものでしたから、デビューまでに1年以上かかりました。デビュー戦の相手は、私をプロレス界に導いてくれた北沢さんです。試合開始のゴングが鳴ってから10分ももたずに負けましたが、プロレスラーとしての第一歩を踏み出しました。

ニューヨークの大舞台でチャンピオンになり華々しく凱旋帰国

デビュー戦を終えてしばらくすると、ドイツやアメリカへ海外武者修行に出ることになりました。修行先でプロレスの指導を受けたのは、カール・ゴッチさん。プロレスファンなら誰でも知っている〝神様〟と呼ばれるレスラーです。

私はこの武者修行のおかげで、プロレスラーとして大きく成長できたと思っています。ゴッチさんからじきじきに、格闘技の基礎とプロレスのイロハを学ぶことができたからです。「ゴッチ教室」と呼ばれる道場では、いわゆるショー的な要素ではなく、レスリングとしての体の使い方や関節技の効果的なかけ方を教えていただきました。

海外修行はドイツなどのヨーロッパから始まり、その後はアメリカやメキシコに渡りました。厳しい練習はもちろん、地元のレスラーとの試合を重ねながら、プロレスラーとして着実に成長することができました。

やがて私に大きなチャンスが訪れます。現在、世界最大のプロレス団体として知られるWWEの前身・WWWFでタイトルに挑戦する機会が与えられたんです。

タイトルマッチの舞台はニューヨーク。スポーツの殿堂と呼ばれるマディソン・スクエア・ガーデンで開催され、試合は日本にテレビ中継されるとのことでした。武者修行で鍛えていましたから、リングに上がってしまえばこっちのもの。新しい技のドラゴン・スープレックス・ホールドで勝利し、日本人として初めてWWWFジュニアヘビー級のタイトルを獲得しました。その後、チャンピオンとして3年8ヵ月ぶりに日本に帰国します。

日本に戻ってからは体重が増え、軽量のジュニアヘビー級からヘビー級に階級を上げました。ほかのタイトルも獲得した私は、憧れていたアントニオ猪木さんとともに、新日本プロレスの二枚看板といわれるまでに成長することができました。

プロレスラーにケガはつきものです。捻挫(ねんざ)はしょっちゅうしましたし、両ひざはともに半月板(はんげつばん)を損傷し、内視鏡手術を受けています。それでも若い頃は、「とにかくリングに上がりたい」という強い気持ちで、多少のケガでも無理をして試合に出ていました。

プロレスラー人生で大きな転機となったのは、35歳のときでした。団体のエースとして看板選手になっていた私は、海外の試合も含めると、年間に260もの試合数をこなすハードな生活を送っていました。精神面での疲れはありませんでしたが、体には相当な負担がかかっていたのでしょう。ある試合で大きなケガを負います。

「いままで感じたことのない電気的な衝撃が腰に走りました」

相手は身長190㌢㍍以上、体重200㌔㌘近い、巨漢のビッグバン・ベイダー選手です。ベイダー選手に投げ落とされたときに腰を強打。いままで感じたことがない強烈な衝撃が走りました。「これはやばい!」と思いましたが、そこはプロレスラーの(さが)です。その後も5分間、ベイダー選手と試合を続けました。

試合後は体が大変なことになりました。控え室に戻って腰を冷やしていると、しだいに腰から下の感覚がなくなっていったんです。まったく力が入らず、立つことすらできません。以後は痛みをごましながら数試合に出ましたが、痛みはどんどん増してついにほとんど歩けない状態になりました。日常生活すら困るようになったので、治療に専念することにしました。

医師の診断結果は「椎間板(ついかんばん)ヘルニア」。レントゲンとMRI(磁機共鳴断層撮影装置)の画像を見ると、腰椎(ようつい)から椎間板の組織である髄核(ずいかく)が飛び出して、神経を圧迫していました。

しびれ・痛みが悪化してソファで〝座りきり〟の生活を送っていました

椎間板ヘルニアの痛みは、それまで経験したケガとはまったく異なるものでした。経験した人にしか分からないと思いますが、しびれと痛みが半端じゃなく、体を動かすことがまったくできないんです。トイレに行くときは妻の手を借り、ベッドで横になることもできませんでした。

ベッドで寝ることができないので、寝たきりではなくソファに〝座りきり〟の状態で過ごしました。病院に行くときは、痛みを座薬でマヒさせないと動けないほどでした。痛みで意識が朦朧(もうろう)となって眠りに落ち、起きるとまた痛みとの闘い……そんな毎日の繰り返しでした。

「ファンの言葉があったからリングに戻ることができました」

医師から手術をすすめられましたが、その後のレスラー人生に影響があると考えました。手術以外の治療法がないものかと、妻(伽織(かおり)夫人)に連れ添ってもらいながら、整体や(しん)(きゅう)、気功、マッサージなど、西洋・東洋問わず治療法を求めて治療院を訪ね歩きました。「痛みが取れないのは悪いものが()いているからでは?」と思って、お(はら)いを受けたこともありました。

でも、痛みはいっこうに治まらず、気づけばリングから半年ほど遠ざかっていました。「このまま状態が改善せず、二度とリングに上がれないのでは……」と不安な気持ちに襲われて、窓から飛び降りてしまおうと考えたこともありました。

そんな私の心の支えになったのが、多くのファンでした。ある日、痛みをこらえてプロレスが開催されていた後楽園(こうらくえん)ホールに行ってみると、多くのファンが「復帰する日を待っています!」とうれしい声をかけてくれたんです。あるファンは床にひざをつきながら私の脚に抱きついて、「待っている!」と強く訴えてくれました。ファンの熱い想いを受け止めた瞬間、私は大きな勇気をもらいました。同時に、「必ずリングに戻る」と誓ったんです。

いま思えば、1日も早く復帰したいと焦るあまり、いろいろな治療を受けたことがかえってよくなかったようです。そのことに気づいてからは、しばらく何もせずに安静を心がけました。

安静に過ごしていると、少しずつ痛みが治まってきて、いくらか体がらくになりました。そこからは直接腰ではなく、周囲をマッサージしてもらうことで、徐々に体を動かせるようになっていきました。さらに、ある先生に腰の筋肉を鍛えることで痛みが出ないようにする治療法を教えてもらい、ひたすら実践。なんとか1年3ヵ月後にリングに復帰することができました。

その後も痛みと闘いながらリングに上がっていたのですが、2015年の夏に腰に激痛が走ったんです。病院で検査を受けると「腰部(ようぶ)(せき)(ちゅう)(かん)(きょう)(さく)(しょう)」と診断されました。状態が悪くて緊急手術を受けるほどでしたが、リハビリのかいもあって退院することができました。日常生活では右足の小指が動かしにくいのですが、リングに上がると不思議と動きが機敏になるんです。

健康に関することといえば、幼い頃に何でも食べていたからでしょうか、いまも食べ物の好き嫌いはまったくありません。毎日の食事は、妻が栄養を管理して作ってくれます。妻が料理研究家ということもあり、頼りにしています。「藤波家の食卓」というブランドで、こだわりの食材を販売する取り組みもしています。

「名勝負数え唄」として語られる好敵手・長州力さん(右)との一戦
(写真提供:山内 猛)

睡眠時間は平均して毎日4~5時間ほどなので、ちょっと足りないと思います。何をしているのかあまり自覚していないのですが、つい夜更かしをして、妻に心配されています。睡眠時間の確保は私にとって大きな課題ですね。

2021年、レスラー生活50周年を迎えることができました。デビューから現在に至るまでの歩みをまとめた本も出版でき、感謝の気持ちでいっぱいです。本の中で紹介しているように、華々しいプロレスラーも、リングの裏ではケガなどの苦労をたくさん経験していることを知っていただければと思います。

私は68歳となったいまでも、現役選手としてリングに立って試合をしています。「長くプロレスラーを続けられる秘訣(ひけつ)は?」と尋ねられたら、私は「常に目標を持っているから」と答えています。

お城を自分で建てて城内のリングでプロレスをしたい

2021年の秋に50周年記念試合が組まれたときも、ある目標を設けました。試合当日にファンの皆さんから「かっこいい」と思ってもらえるような体を作ろうと思ったんです。体作りに必要な日数を試合の日から逆算し、ジムに通って鍛えたことで、恥ずかしくない体でリングに上がれたと思っています。

42歳のときに自分の団体を立ち上げたのも、「生涯現役でリングに立ちつづけたい」という目標があったからです。そしていま、そのとおりになっています。現在の目標は、70歳まで現役のプロレスラーでいることです。

目標は小さくてもいいと思います。何歳になっても目指すものがあると、毎日の生活に張り合いが出て、健康的に過ごせるのではないでしょうか。例えば私はお城が大好きですから、巡業中に全国各地のお城を見ることを目標にしていました。お城に関する大きな目標は、いつか自分のお城を持つことです。城内にリングを作ってプロレスをしたいですね。

人生に引退がないのと同じように、プロレスラー・藤波辰爾に引退はありません。70歳になったときは「75歳までプロレスをする」という新たな目標を掲げてリングに立ちつづけていると思います。

藤波辰爾さんからのお知らせ

『藤波辰爾自伝ROAD of the DRAGONプロレス50年、旅の途上で』
(イースト・プレス、2,500円+税)
「それでも俺には、プロレスラー以外の人生なんて、なかった」と語る、デビュー50周年を迎えた藤波辰爾さんの自伝決定版。少年時代の原風景からアントニオ猪木への憧憬、次世代へ語り継ぐプロレス論など、飛龍50年の旅路が詰まったプロレスファン待望の1冊です。