俳優 赤井 英和さん
かつては〝浪速のロッキー〟の愛称で日本を湧かせたプロボクサー、現在は強面と愛嬌が同居する名優として活躍中の赤井英和さん。エネルギッシュなイメージそのままに、「かれこれ30年くらい、カゼひとつ引いていない」と語る赤井さんには、知られざる独自の健康法がありました。波乱万丈の生い立ちとともに、元気の秘訣を探ってみましょう。
〝ごんたくれ〟でしたがボクシングに熱中し大金星をあげました
生まれは大阪の西成区で、僕自身も子どもの頃から自他ともに認めるごんたくれ(悪ガキ)でした。一応、曲がったことはせず、弱い者いじめも絶対にしないという、自分なりの矜持を守っていたつもりではありますが、それでも偉そうななりで闊歩して、街の皆さんにとってはさぞ迷惑な存在だっただろうなと反省しています。
そんなごんたくれがボクシングと出合ったのは、高校入学を控えた春休みのことでした。たまたま喫茶店でばったり会った先輩に、「おまえ、明日うちの高校に来い」と命じられ、訪ねた場所がボクシング部の道場だったんです。
こちらとしては残りわずかな春休みを満喫したいと思っていたのでいい迷惑でしたが、先輩には逆らえません。いわれるがままに洗濯や掃除などの雑用をやるはめになり、結局、入学後もそのままボクシング部に入ることになってしまいました。
1年生の夏、僕も国体予選に出場することになりましたが、入部してから雑用しかしていません。そこで先輩に、「試合って、どないすればええですか」と聞いてみたものの、ただ「どつけ」といわれるばかり。
しかたがないので何も分からないまま試合に臨んだところ、とんとん拍子に勝ち進んでフェザー級の大阪府代表になりました。いま振り返ってもボクシングの型にはほど遠いケンカみたいな戦い方で、いわば馬力の勝利でしたね。
しかし、さすがに全国大会では通用せず、すぐに敗退してしまいます。素人同然なのだからあたりまえなのですが、負けるのはやっぱり悔しいもの。そこで腕力と馬力だけでは限界があるということを、自分なりに感じはじめました。
翌年の国体では、オリンピック候補にもなっている有名な選手と対戦することになりました。もちろん下馬評ではこちらが圧倒的に不利ですが、もし勝つことができたら、自分がオリンピック候補に取って代われるかもしれません。これはおいしいぞと、僕は初めて本気で練習に打ち込みました。部活の練習を終えた後、さらに街のボクシングジムで特訓するなど、とにかく勝つためにボクシングを覚えようとがんばりました。
そんな努力のかいあって、この試合、僕は番狂わせの勝利を収めます。ボクシング界が騒然とする大金星で、ボクシング専門誌にも取り上げられました。あまり褒められたことのない人生でしたから、当時の僕にはこれがほんとうにうれしくて、ボクシングに人生を捧げるきっかけになったんです。
こうなれば、目指すは金メダル。練習にもがぜん、熱が入ります。その結果、僕は3年生のインターハイで優勝を飾るなどいくつかの実績を引っ提げて、近畿大学でボクシングを続けることになりました。
ところが、そうして迎えた1980年。日本は東西冷戦のあおりを受けて、モスクワオリンピックのボイコットを決定します。これにより、金メダルの夢はあえなくついえてしまいました。目的を見失った僕は、考えた末、大学在学中にプロ転向を決意したのでした。
デビューから連戦連勝で〝浪速のロッキー〟としてスター選手になったんです
プロ入りするにあたっては、どうすればお客さんが喜んでくれるか、どうすればメディアが大きく取り上げてくれるか、ない頭をひねってとことん考えました。
それというのも、僕が所属していた当時のジムは、選手は僕一人だけという、超零細ジムだったからです。こんな人も金もない小さなジムから世界チャンピオンを目指すなら、人気がなければ始まりません。多くのお客さんに応援してもらい、スポンサーのサポートを得る必要があったんです。
そのためにはKOで勝つことが絶対条件。アマチュア時代の僕はていねいにジャブで相手との距離を測る、どちらかといえばテクニシャンタイプでしたが、プロ入り後は派手なKO狙いのスタイルに変えました。
幸い、プロの水は自分に合っていたようで、デビュー戦から12戦連続でKO勝ちすることができました。一試合ごとに応援してくれるファンも増え、いつしか〝浪速のロッキー〟というニックネームも授かりました。
試合会場も最初の頃は小さなスケートリンクだったのが、しだいに大阪府立体育会館などの大箱になり、最も大きな試合では大阪城ホールに1万5000人の観客が集まりました。世界チャンピオンでもないのに、これは異例なことだったんです。
そうして14戦無敗で挑んだ世界タイトルマッチ。待ちに待った大舞台で、僕は最初から相手に突進して一発ぶちかまそうと作戦を立てていましたが、無念にも初めてのTKO(テクニカルノックアウト)負けで、初黒星を喫してしまいます。
それまで連戦連勝でしたからこのときはさすがにヘコみましたが、すぐに再起を決意。再び勝ち星を重ねて、世界を目指します。
そして1985年2月、世界タイトルマッチの前哨戦に位置づけられた試合が組まれます。結果的にはこれが僕のラストファイトになりました。
この試合、僕にはいっさいの記憶がありません。リング上でゴングを聞いた瞬間から、病院のベッドで目を覚ますまでの過程が、頭の中からすっぽり抜け落ちてしまっているんです。
聞けば、強打で鳴らす相手のパンチを僕はむやみに受けつづけ、7ラウンドにKO負けを喫したのだそう。そしてそのまま意識不明の状態に陥り、担ぎ込まれた病院で急性硬膜下血腫の診断を受けました。
生存率わずか20%という危険な状態だったそうですが、緊急手術によって僕はどうにか生還を果たしたそうです。
頭蓋骨の一部を、50針分も切ってぱかっと開けて、血腫を取り除く手術だったらしいのですが、こういう開頭手術では、すぐまた蓋をするわけにはいかないそうです。目を覚ました時点で、僕の頭蓋骨はぱっかり開いたままで、ガーゼをかぶせてあるだけでした。
でも、自分はなにがなんだか分かりませんから、ガーゼ越しに脳みそをむにゅっと触って、「なんじゃこりゃ?」となる。するととたんに、猛烈な吐き気が襲ってくるんです。よく見ると体中、管だらけの状態ですし、ほんとうに訳が分からずパニック状態になりました。
ともあれ、どうにか状況を飲み込みはじめたところで、今度は猛烈な悔しさが湧いてきました。そうか、自分は負けたのか。こんちくしょう。次やったら絶対に負けへんど。ここからまた世界まで連戦連勝や —— と。
でも、退院の際に主治医からはっきりと告げられました。
「もう二度とボクシングはできませんよ」
これはショックでした。「退院」と同時に「引退」というのは、ちょっとしゃれが利いていて自分らしかったかもしれませんけどね。
映画『どついたるねん』で素人同然でしたが主役を演じました
退院後しばらくは、それまで応援してくれた後援者への挨拶回りなど、それなりにせわしなくしていました。
しかし、いままでボクシングしかやってこなかったので、その後の人生をどうすればいいのか見当もつきません。
すると、何をするでもなくぶらぶらするだけの僕を見かねて、母校の近畿大学が、嘱託職員として僕を雇ってくれることになりました。コーチとしてボクシング部の指導にあたってほしいというのです。
当時は一度プロへ行った人間がこういう形でアマチュアボクシング界に復帰するのはタブー視されていましたから、これはありがたかったですね。毎日1時間半、近畿大学の道場で情熱を持って部員たちの練習につきあいました。
そうして学生たちと過ごすうちに、高校の先輩でもある笑福亭鶴瓶さんから、こうすすめられました。
「不良少年からトップ選手に成り上がり、致命的なケガから生還する。おまえみたいに波乱万丈なやつはほかにおらんから、その半生を本にしたほうがええ」
この助言が周囲の協力を得て、『浪速のロッキーのどついたるねん』という本として実現します。すると縁が縁を呼ぶもので、今度はこれを読んだ阪本順治監督が「ぜひ映画にしたい」といってくれたんです。
さらに驚いたのは、僕自身を主役にしたいという監督の意向でした。もちろんこちらは演技の素人ですし、なにより引退後の暴飲暴食で体重は85㌔まで増えていました。
それでも、自分としては幸運にも拾った命。やらせてもらえることは何でもやろうという思いから、監督にいわれるがまま毎日減量に励み、脚本を覚え、早朝から深夜までの撮影に全力を注ぎました。
撮影スケジュールに合わせて体を絞る必要があったので、とにかくキツい日々でした。日によっては体重を落とすためにおちょこ一杯の水しか飲めないこともあり、現役時代以上に精神的にも肉体的にも追い詰められる毎日。でも、このときの苦労があったからこそ、その後どんな仕事にもへこたれずに向き合えたと思っています。
なにより、この『どついたるねん』が話題になったことが、その後こうして俳優として食べていくことにつながりました。人生というのはほんとうに分からないものですよね。
その後、生活の拠点は東京に移りましたけど、大阪へ帰ったときには学生時代から通っている大阪市の繁華街である新世界の串カツ店「だるま」に必ず寄らせてもらっています。この店は、先代が体を悪くして廃業しようとしていたときに、どうにか店を残したいと、ボクシング部時代の後輩を引っ張ってきて跡を継がせた経緯があります。
僕にとっての最新作『ねばぎば 新世界』は、その「だるま」と新世界が舞台になっている、非常に思い入れの強い作品になりました。
なにしろこの作品は、僕が愛してやまない『悪名』シリーズのオマージュですから、企画をもらった瞬間、震えました。かつて勝新太郎さんが演じた朝吉に相当する役を、自分が勝吉として演じる日が来るなんて、という思いです。新世界の独特の雰囲気の中、弱きを助け強きをくじく勝吉とその相棒のコオロギの立ち回りは、誰しも胸がスカッとする作品に仕上がっていると思います。往年の『悪名』ファンの方にも、ぜひ観ていただきたいですね。
30年もカゼを引いていないのは足湯健康法を実践しているからです
こうした俳優業は確かにハードではありますが、実は、僕はここ30年ほどカゼすら引いたことがありません。理由は明確で、30年前に取り入れた足湯健康法です。足首から先を40℃ほどのお湯に1時間浸して、足の先から心臓までじっくり全身を温めるんです。
すっかり毎朝の習慣になっていて、出張先のホテルでも湯ぶねにお湯を張って、新聞などを読みながら1時間の足湯を絶対に欠かしません。これが僕にとっては最高のコンディショニングになっています。子どものときは割とカゼを引きやすい体質だったのに、いまでは別人のように健康体です。冷えは万病の元といいますから、これは効果的だと思いますね。
まもなく62歳になりますが、おかげさまで体は元気そのもの。今後も目の前の仕事を一歩一歩、堅実かつ全力でがんばっていきたいと思います。