お笑いタレント 肥後 克広さん
計算し尽くされたリアクション芸や「どうぞどうぞ」「ヤー!」「聞いてないよォ」などおなじみのギャグでお茶の間に笑いを届けつづける「ダチョウ倶楽部」。今回はそのリーダーを務める肥後克広さんの半生に迫ります。俳優や歌手、声優、リポーターなど幅広い活躍を見せる肥後さんの元気の秘訣は、ずばり〝頼る力〟にあるそうです!
戦後ムードが漂う沖縄でパワフルな母と少年時代を過ごしました

僕は沖縄県那覇市の生まれなのですが、「三つ子の魂百まで」というやつで、子どもの頃からとにかくものぐさでのんびりした性格でした。将来の夢を聞かれれば、「バスの運転手」と答えていましたが、これも少しでもらくそうな仕事を自分なりに考えた結果なんです。とにかく暑い沖縄で、なるべくエアコンの効いたところで働ける仕事は? と考え抜いたわけです。
当時の那覇にはモノレールが走っていませんから、乗り物といえば市中を走るバスかタクシーくらいのもの。ただ、タクシーの運転手はお客さんによって行き先が違うから道を覚えなければならないし、もし僕の知らない場所を指定されたら大変です。その点、路線バスなら、毎日決まったルートを運転していればいいのだろうと考えたわけです。
でも、これはとても浅はかでした。バスの運転手さんだって、日によって担当するコースが異なるはずです——。そこまで頭が回っていませんでした。
我が家は、私が小学生の頃に父親を病気で亡くしているため、母親と2人の姉の4人家族でした。母は一時期、僕が出る番組によく出ていたので、もしかすると覚えている人もいるかもしれませんね。
母は那覇市内で「ひさご食堂」という飲食店を営んでいました。道路に面した半分がお店、後ろ半分が住居でした。ゴーヤーチャンプルーや沖縄そばなどを出す、ごく一般的な大衆食堂で、客席は多くはなかったのですが、いつも大にぎわいでした。
おかげで、母は朝から晩まで大忙し。今振り返ってもほんとうにパワフルな人でした。奄美大島出身で、戦時中は率先して農作業に励み、10代から家族を守ろうと必死だったと聞きました。頭上をアメリカの戦闘機が飛び交う中、畑仕事に精を出していたというのですから、大したものですよね。
そんな人なので、怒らすととてつもなく怖かったです。まるでアニメの『サザエさん』(フジテレビ系列)のように、ほうきを持って追い回されてたたかれるようなことが、芸人としてテレビに出るようになってからもたびたびありました。
そんな母が僕たちを養うために切り盛りしていた「ひさご食堂」ですが、1972年の沖縄返還に向けた都市開発計画のあおりで立ち退かざるをえなくなり、閉店を余儀なくされました。当時は子どもでしたから、母の心情を思いやることはできませんでしたが、さすがにふさぎ込んでいたように思います。
中学校を卒業すると、僕は地元の工業高校のデザイン科に進学することになります。自動車科や調理科など、いろいろなコースがある中で、たまたまデザイン科が目に留まり、「なんだか面白そうだな」と感じたのがきっかけでした。

決して絵が得意だったわけでも、美術に興味があったわけでもありません。単に「毎日絵を描いていればいいのだろう」と思いついただけなのですが、ここでもやっぱり僕は浅はかでした。デザイン科だからといって、勉強をしなくてすんだわけじゃないんです。
なんとか卒業にこぎつけ、僕は求人で見つけた東京のデザイン事務所に就職することに……。でも、一大決心をして上京したとか、そんなつもりでは全然ないんです。たまたま都内にはいとこも住んでいるし、東京がどんなものかちょっと確かめてみたいという、実に軽い気持ちで選択した就職先でした。
その会社では建物の看板やステンドグラスのデザインなど、いわれるままこなしていましたが、もともと生半可な心構えでしたし、半年もたつとこのまま仕事を続けることに違和感を覚えはじめました。決して仕事が嫌なわけではなく、かといって楽しいわけでもない——。こうなると、わざわざ東京で暮らしている意味が分からなくなってしまい、結局、1年足らずで退職して沖縄へ戻ることにしました。
もちろん帰ったところで仕事のあてがあるわけではなく、姉がやっていたお土産用のキーホルダー作りの仕事を手伝ったりしながら、しばらくのんきな毎日を送っていました。
浅草芸人に憧れ、沖縄初のお笑い芸人を目指して再上京しました
ところが、勝手なもので沖縄に戻って1年もすると、沖縄での生活にも飽きてしまいます。そこで、次に目をつけたのがお笑いの世界でした。きっかけは、たまたま書店で手にした『定本日本の喜劇人』(小林信彦〈中原弓彦〉著)という本で、そこに描かれていた浅草芸人の姿に、強烈に憧れを抱いたんです。
当時、沖縄出身の有名人といえば、ボクシングの元世界チャンピオン、具志堅用高さんくらいのもの。お笑いの世界では皆無です。
そこで「ならば自分が」と思ってしまうあたりは、もはや「キッザニア(子ども向けの職業体験型テーマパーク)」感覚に近いですよね。気になる職業はとりあえず体験してみよう、という。
そんなこんなで再び上京した僕は、まっしぐらに『定本日本の喜劇人』に書かれていた「浅草フランス座」を目指しました。ちょうどテレビで『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系列)の放送がスタートした年で、あのビートたけしさんが下積み時代にエレベーターボーイをやっていた浅草フランス座へ行けば、自分も浅草芸人になれるはずだと信じて疑わなかったんです(やっぱり浅はかですね)。
しかし、なんのツテもなく飛び込んだ浅草フランス座で、僕は門前払いされてしまいます。「今はもうエレベーターボーイなんて使ってないよ」とのことで、出鼻をくじかれた僕はほとほと参ってしまいました。
その様子がよほどふびんに見えたのか、浅草フランス座の人が「芸人になりたいなら、渋谷の道頓堀劇場へ行ってごらん」とアドバイスをくれたのですが、これが運命の分かれ道でした。僕はその道頓堀劇場で、当時名をはせていた浅草芸人の巨匠・杉兵助さんに拾ってもらうことができ、どうにか芸人の世界に足を踏み入れることができたんです。
道頓堀劇場の芸人には、わずかながら給料が出ます。これが大助かりで、寝泊まりは楽屋だったし、食事も先輩方にごちそうになることが多いしで、アルバイトをしなくても「専業」で食べていくことができました。
「ダチョウ倶楽部」は偶然できた4人のユニットだったんです
今にして思えばぬるま湯で、僕はいわゆる厳しい下積み生活というのを経験していません。だから、ここでもやっぱり生半可で、1年半もするとこの恵まれた生活に飽きてしまい、「もうそろそろいいや。沖縄へ帰ろう」と考えはじめます。
そして、まさに故郷へ戻ろうとしたその瞬間に、劇場の先輩であるコント赤信号の渡辺正行さんとばったり出くわし、こんな言葉をかけられます。
「おう、肥後。今月のライブのネタ、できたか?」
一瞬、なんのことやら分からず、頭の中は「?」でいっぱい。戸惑いながら、「ええと、それはなんでしたっけ?」と答えたら、あの温厚な渡辺さんが大激怒。どうやら渡辺さんが主催するコント大会に、やみくもに「出ます!」といったようなのですが、完全に記憶のかなただったので、ネタ作りどころかメンバーすら決まっていない状態でした。

「出るといっておいて出ないなんて許さないからな! メンバーが集まらなければ、おまえ1人でもいいから絶対に出ろ!」
あまりのけんまくにすっかりビビってしまった僕は、慌てて芸人仲間に片っ端から電話をかけました。
しかし、電話してすぐに連絡がつく人間はごく限られていて、どうにか話ができたのが南部虎弾、上島竜兵、寺門ジモンの3人でした。
特別、仲がよかったわけでもないので、渋りまくる彼らを「1回だけでいいから」となんとか説き伏せて、無事にライブ出演を果たした僕たち。ネタは僕が適当に書いた、ベタベタな刑事コントでした。
ところが、なにが幸いするのか分からないものです。この急造メンバーでやった拙いコントが、なぜかウケたんです。
それに気をよくしたというよりも、渡辺さんが怖かったので、そのまま同じユニットで翌月のライブにも出ることになった僕たち4人が、そのまま後に「ダチョウ倶楽部」と名乗ることになりました。つまり、ダチョウ倶楽部というのはほんとうにたまたま生まれたユニットなんです。
僕は最近、『頼る力』という本を上梓しました。
本を書く中で自分自身を振り返ってみると、確かに僕は周囲に甘えまくってきましたし、いろんな人たちの力を借りて生きてきました。
「でも、自分としてはただ他人に丸投げして『はい、助けてくださいね』とやっているつもりはなく、あくまで軸の1つは自分が持ち、自分なりのルールのうえで甘えているんですよ」
そう編集者に伝えたところ、「まさにその部分を本にしましょう」と返されました。
なんでも、僕と同世代の人たちの中には、スマートフォンの使い方1つでも、若手に教わるのに抵抗感がある人が少なくないそうです。僕には考えられないことです。だって、すぐ身近に「それ」を知っている人がいるなら、自分で調べるより教わったほうが圧倒的に早いし、らくじゃないですか。
積極的に周囲に頼って自分をアップデートすることが大切なんです

実際、僕は芸人としてテレビや舞台で活動をするうえで、今も後輩たちに頼りまくっています。
例えば、初対面の相手とどんな話をすればいいかというテーマでは、「髪型や服装に触れるのは駄目」と僕に教えてくれたのは劇団ひとりさんでした。彼はアメリカの会社とも仕事をしているので、ルッキズムの境界線についてことさらシビアなんですよね。これは勉強になりました。
また、自分の妻について「嫁」とか「かみさん」と呼ぶのは僕らの世代では当たり前のことでしたが、マシンガンズの滝沢秀一くんが「うちの妻が……」と話しているのを聞いて、なるほど令和はそれが無難なのかと学びました。
要は、周囲から積極的に常識を取り入れて自分をアップデートすることが〝頼る力〟なのだと思います。
そういう生き方を心がけているからでしょうか、幸いあまりストレスをため込むことのない生活を送れています。健やかに生きていくために、これはとても大切なことだと思います。
おかげで、ここまで大病とは無縁。毎日なるべく歩くようにしていますし、食生活も野菜をたくさんとるようにしています。
最近は野菜作りに凝っているんですよ。まだまだ品種のことも肥料のことも勉強中なので、うまく育たないこともありますし、水やりが面倒になる時もあります。でも、「きっとあいつら、今雨降らないかなと思っているんだろうな」なんて想像すると自然に重い腰も上がり、いつの間にか畑に向かっています。こういう生活もいいものですよ。
もちろん、病気になるのはしかたのないことですし、人はいつか老いて必ず死にます。「生きてるだけで丸儲け」とは明石家さんまさんの言葉ですけれど、そう考えればあまりがんばりすぎず、肩ひじ張らずに自然体で生きていけるのではないでしょうか。
無理に嫌なことをやる必要はないですよ。ふらふら生きていれば、そのうちきっといいことがありますからね。それでも困ったことが起こったなら、遠慮なく周囲に頼ってしまえばいいんです。
少なくとも僕は、そういう人生を送ってきましたから。皆さんにとって少しでもヒントになればうれしいですね。

『頼る力』小学館、990円(税込)
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