漫画家 しりあがり寿さん
1980年代から日本のイラスト・漫画界を席巻した「ヘタウマ(一見ヘタに見えて、実は計算された味わいや表現力があるスタイル)」の代表的存在である漫画家のしりあがり寿さん。新聞連載や現代アートなど多方面で活躍し、手塚治虫文化賞受賞や紫綬褒章受章の実力派です。作風にも共通するフランクな人柄が印象的なしりあがりさんに、元気の秘訣をお聞きしました!
デザインの世界を志し、美大を卒業してキリンビールに入社しました

僕が「ヘタウマ」と呼ばれる作風に目覚めたのは、作画・湯村輝彦さんと原作・糸井重里さんの共著『情熱のペンギンごはん』(情報センター出版局)という作品がきっかけでした。ゆるい画風とナンセンスなトーンがたまらなく面白くて、「ああ、漫画ってこういうことでいいんだ」と感じたんです。
それまではもっとオーソドックスなギャグ漫画を志していて、例えば松本零士先生の『男おいどん』(講談社)のような、ちょっとペーソス(哀愁)があって笑えるタイプの作品を描きたいと思っていました。実際、大学時代に所属していた漫研(漫画研究会)では、最初はそういう漫画を描いていました。
ところが、『情熱のペンギンごはん』を一読して衝撃を受け、もっとばかばかしい内容に振り切ってもいいのではないかと気づかされたわけです。
そもそも漫画家という職業を意識しはじめたのは、小学生の頃でした。卒業文集の「将来の夢」の欄には、2番目か3番目にちゃんと漫画家って書いてあるんですよ。ちなみに、残りの2つは漫才師とアメリカ大統領でした。もし、僕がなにか重大な犯罪で捕まりでもしたら、きっとこの文集もニュースで流れるんでしょうね(笑)。
出身は静岡市の葵区。われながらのんびりとした子どもで、静岡といえば株式会社タミヤ創業の地ですから、よく家でプラモデルを作っていました。もちろん漫画もたくさん読んでいましたから、基本的に子どもが欲しがるものを与えてくれる家庭だったのだと思います。
やがて高校生になると、真剣に絵を学ぼうと美大(美術大学)を目指すことになります。そうなると高校の早い時期から準備を始めなければ間に合いませんから、美術の先生が営む私塾に通いはじめました。もっとも、当時は漫画家になりたかったというよりも、広告とかデザイン関係の仕事に就ければいいなと、漠然と考えていたのですが……。
その後、実際に美大を出ると、僕はキリンビール株式会社に入社することになります。最初はマーケティング担当の部署にいて、そこから商品開発部や宣伝部を転々としながら、パッケージデザインなどをやっていました。当時(1980年代)は飲料メーカーの広告が盛り上がっていて、仕事はすごく楽しかったですね。
1987年にはアサヒビール株式会社から「スーパードライ」が発売され、空前の大ヒットとなりました。僕はちょうどその時、「ハートランド」の商品開発に携わっていたのですが、その頃のいわゆる「ビール戦争」と呼ばれる時代。各社が中身や容器に知恵をしぼってさまざまなビールを販売していた時代は、すでに漫画と二足のわらじを履いていた自分にとって大変な忙しさでしたが、充実していました。
思いどおりの絵が描けることが「うまい」のであればヘタ側です

キリンビール時代はハートランドのほか、「一番搾り」の開発にも参加しました。新商品を立ち上げる際に部署を横断した開発チームが編成されるのですが、僕以外のメンバーは皆、数字や事業性について知識のある人たちばかり。ではなぜ、そこにデザイナーである僕が組み込まれるのかというと、これは当時のプロジェクトリーダーの方針だったと思うのですが、新しい商品を創るなら、ちょっと変なやつを1人入れておいたほうがいい、という考えだった気がします。
要は、物事にはいろいろな視点が必要ということで、ある会議では、僕以外は全員、エリート大学出身者なんてこともありました。おかげで自由気ままに発言させてもらえましたから、どのプロジェクトも無責任でいられたのはよかったですけどね(笑)。
先ほどふれたように、僕はそんな会社員生活のかたわら、入社からわりと早々に漫画家としても活動を始めていました。もともと大学の漫研でいろいろ描いていたおかげで、出版社から声をかけてもらったのがきっかけでした。
当時は素人ブームみたいなのがあって、例えばテレビでも女子大生ばかりを集めて番組を作るようなやり方が注目されていました。出版社があちこちの漫研の作品に目を配っていたのも、きっと似たような思惑でしょう。
でも、漫画を描けといわれても、こちらは入社間もない会社員ですから、とてもそんな時間は取れません。だから、「漫研時代の同人誌に載せた作品でよければどうぞ」と差し出したんです。それがほんとうに雑誌に載って、僕は漫画家デビューすることになりました。
その後は会社員のかたわら、描き下ろしもやるようになり、最初の単行本『エレキな春』(白泉社)が出たのが1985年。会社の仕事も忙しく、ビールの会社だからお酒の席も多くて、たくさん飲んで帰ってきてから、朝まで漫画を描くような日も珍しくありませんでした。
それでも、若かったので体力がありましたし、なにより精神的に安心感がありました。もし会社員生活に挫折したとしても漫画があるし、漫画家として売れなかったとしても会社にいれば給料がもらえるし……。そう考えると、どちらも切実感なくノビノビできました。会社には申し訳ない話ですけど。
それに、ヘタウマという作風が言い訳にもなって、ちゃんと仕上げなくても作品として理解してもらえたのは助かりましたね(笑)。

そういえば、あの手塚治虫先生が僕のヘタウマ漫画を見て、「この人はすごく絵のうまい人だ」と褒めてくださったという逸話があります。なんといっても自分が憧れて育った神様のような方の言葉ですからうれしかったですね。
ただ、これは「絵がうまい」「絵がヘタ」とはどういうことかを考える一つのきっかけではあると思います。例えば、思ったとおりのものが描ける、ここからここまで思ったとおりの線が引けるといったことが「絵がうまい」のであれば、僕はまったく描けない側の漫画家です。むしろ、かなりヘタな部類でしょう。
でも、ヘタにもいろいろあって、その〝ヘタさ加減〟から、読み手がどのようなメッセージを受け取るのかはまた別です。仮にその絵から、〝技術なんて無関係だ!〟という、パンキッシュ(挑発的)な攻撃性が感じられたり、逆にしんみりとした哀れみのようなものが感じられたりするなら、それは作品として成功していますよね。
僕は後者のタイプの漫画家で、哀れみというか、「この人、大丈夫かな」と思われるほうが、リアリティがあって面白いのではないかと思っています。
賞を頂いていますが実は、僕は一度も売れたことがありません
僕がキリンビールを退職して、漫画家として独立したのは1994年、36歳の時でした。
仕事自体は楽しくても、朝早く起きて満員電車に押し込められるのが苦痛で、実は何年も前から辞めたいと思っていたんです。それでも仕事を終えて一杯やって気持ちよくなると、そんな苦痛も忘れてしまい、朝起きて現実に引き戻される——その繰り返しでした。
また、キャリアパス的に、そろそろ内勤を外れて、さまざまな部署を経験したうえで管理職のポストに収まらなければならない年齢に差しかかっていたのもネックでした。僕としてはこのまま現場にいたかったですし、とても管理職が務まるような人間でもありませんから、ここらが潮時と判断したわけです。
もちろん、ずっと広告の仕事をしてきたので、フリーランスでやっていくことの大変さは理解していました。これまではクリエイターを選ぶ側の立場でしたけど、今後は選ばれる立場になります。会社員と並行してやってきた仕事も、いつまであるか分かりません。つまり、なんの保証もない立場になるわけで、これは僕なりに一大決心でした。
結果的には、こうして68歳になるまで食べてこられましたから、間違った決断ではなかったのかもしれません。しかし、キリンビール時代の退職した同僚と飲みに行くと、みんなすごく幸せそうにしているし、結局どんな生き方をしても〝シアワセ〟は本人次第かもしれませんね。
僕のキャリアは、はた目には順調に見えるのかもしれません。実際、賞もいくつか頂きましたし、2014年には紫綬褒章まで授かりました。この時はさすがにびっくりして、「こんな人間がもらってはいけないのでは」と戸惑いました(笑)。
それに、おそらく「この先も頑張れよ」という期待が含まれた受章だと思うのですが、僕はまったく頑張っていないですから、なんだか申し訳なくて……。でも、親や親戚がすごく喜んでくれたので、その点では得をしたように思います。
ただ、意外に思われるのですが、実は僕は一度も売れたことがないですよ。

世間的にはヒット作といわれる『ヒゲのOL藪内笹子』シリーズ(エンターブレインほか)にしても売れたのがせいぜい20万部程度ですから、世の中にはミリオンヒットがいくつもあることを思えば、まったくたいしたことはありません。もうちょっと、どうにかなるといいんですけどね(笑)。
漫画を描いていると、若い頃に比べて〝脳の握力〟が低下していることを、日々実感させられます。具体的には、ちょっとしたアイデアが浮かんでも、それをストーリーにできるところまでつかみきれないことが増えました。こういう実感があると、今後はどんどん衰えていくのかなと、心配になってしまいますよね。
もっとも、近年は4コマ漫画が仕事の中心で、特に僕の場合は時事ネタですから、アメリカのトランプ大統領のような人がいてくれると、ネタに困らなくて助かるのですが(笑)。
健康面では、幸いこれまで大病とは無縁でやってくることができました。ただ、糖尿病を患っているので、ここ10年ほどは薬で抑えています。薬頼りとはいえ、ずっと数値が変わらないということは、問題ないのだろうと信じていますが、この先は分からないですよね。
でも、それよりも心配性のほうが厄介なんですよ。ちょっとした政情不安とかがすごく気になってしまう性分で、ホルムズ海峡が封鎖された時なども、毎日それを気に病んでいました。とはいえ、僕にはどうすることもできませんから、そういうさまざまな心配事は、お酒を飲んで忘れてしまうようにしています。うちは妻も事務所のスタッフもみんな、よく酒を飲むので、そういう環境にも助けられています。
最近よく思うのは人生は観光旅行のようなものだということです

そんな性格だからなのか、変に長生きするのは、それはそれで大変なことだと思ってしまうんですよ。長く生きるということは、それだけこの先、大変な出来事を次々に受け止めつづけなければならないということですからね。もちろん、早死にしたいわけではないですけど、やりたいことを我慢して、耐えたり、節制したりして長く生きるのも、あまり健康によくないのではないかと。
そこで最近よく思うのは、人生は観光旅行のようなものだということです。せっかく、どこかよその世界からこの世界に観光旅行にやって来たのだから、おいしいものを食べて、楽しいことを経験しなければ損でしょう。
僕の場合でいえば、「漫画家体験プラン」や「子育て体験プラン」などが盛り込まれた旅行なわけで、そう考えるとけっこう楽しい旅行なんですよね。
だから、皆さんもあまり無理をしたり我慢をしたりする必要はありません。この観光旅行を思い思いに楽しんでください。
取材・文/友清 哲 写真/村上庄吾



