プレゼント

頼りになる仲間の力を借りる——これに尽きます

私の元気の秘訣

東日本国際大学総長、早稲田大学名誉教授 吉村 作治さん

エジプト調査を始めてから60年。83歳を迎えてなお、クフ王の墓の発見を目指し、発掘の最前線に立ちつづける吉村作治さん。10数年前、発掘中の事故で左ひざを複雑骨折し、車イス生活を余儀なくされた今も、その情熱はまったく衰えていません。波瀾万丈はらんばんじょうの考古学人生と、その原動力に迫ります。

いじめから逃げるために図書室に行ったことが私の人生を決めました

[よしむら・さくじ]——1943年、東京生まれ。工学博士(早大)。1966年、アジア初のエジプト調査隊を組織し、発掘調査を始めてから60年にわたって調査・研究に心血を注ぐ。電磁波探査レーダー、人工衛星の画像解析といった最先端の科学技術を駆使した調査により、数々の功績を残す。1974年、ルクソール西岸「魚の丘遺跡」の彩色階段の発見により一躍注目を集める。その後も、200体のミイラや太陽の船、未盗掘墓の発見など、エジプト考古学史上に数多くの足跡を残す。現在は浜通り地域の振興・創世の試み、eラーニングを活用した教育の普及にも力を入れている。日本とエジプトとの学術交流功労、教育研究功労により瑞宝中綬章を受章。

早いもので、私がエジプトでの調査を始めて、今年でちょうど60年です。年齢は83歳になりますが、研究者としても還かん暦れきを迎えたことになりますね。

今も2ヵ月に1度はエジプトへ行き、発掘調査の陣じん頭とう指し揮きを執っています。一方、日本では東ひがし日にっ本ぽん国際大学の総長という立場にあるものですから、キャンパスのある福島県いわき市と東京を行ったり来たりする、せわしない毎日を過ごしています。いくつになっても、私の授業を受けたいといってくれる学生たちがいるのは、ほんとうにうれしいことです。

私がこうしてエジプト考古学の研究に明け暮れるようになったのは、10歳の時に読んだハワード・カーターの本がきっかけでした。カーターはイギリスの考古学者で、あのツタンカーメンの墓を発見した人物です。彼が果たした世紀の大発見に感銘を受けて、自分もいつか金銀財宝を見つけて世界をあっと驚かせたい——そう思ったんです。

カーターはもともとイギリスの貧しい家の生まれで、体が弱く、人付き合いの苦手な少年だったそうです。それゆえ誤解を招くことも多かったのか、人間関係がうまくいかず、人と衝突してばかり。まずそこが、私にとって1つの共感ポイントだったように思います。

イギリスと東京で生まれた場所は違いますが、私自身も子どもの頃は話し下べ手たで、幼いなりに生きづらさを感じていました。平たくいえば、いつもクラスの連中からいじめられてばかりいて、カーターとよく似た境遇にあったわけです。

ある時、いじめっ子たちから理由もなく追いかけ回された私は、逃げる際にうっかり足をすべらせ、肥こえだめに落ちてしまいました。

今では肥だめなんて目にする機会もありませんが、そのひどい悪臭たるや、想像を絶するものです。どれだけ体を洗っても、1週間たってもにおいが落ちないのですから、たまったものではありません。

こんなことが続くなら、とてもそういう連中のそばにはいられないと、私は逃げるように図書室にこもるようになりました。いじめっ子たちは大の勉強嫌いでしたから、図書室にはまず来ないだろうと思ったんです。案の定じょう、彼らの目を逃れるのに図書室はうってつけの場所で、本を読んでいるひと時だけが、私にとって安息の時間になりました。

その図書室にいた女性の司書さんがある日、私に少年少女向けの伝記シリーズをすすめてくれました。世界の偉人たちの生涯をまとめた100冊ほどのシリーズで、私はそれを1冊ずつ片っ端から読んでいき、最後の1冊がハワード・カーターだったんです。

ちなみに、読書に夢中になっている私に対して、学校の先生がこう声をかけてくれたのを覚えています。

1966年のエジプト全土踏査の写真。エジプト考古学者として生きようと決意を固める

「その人の人生や仕事に興味が湧いたなら、あなたも本気でそれを目指してごらんなさい。その人物と同じように大成功はできないかもしれないけれど、頑張れば足元くらいには届くかもしれないよ」

カーターの発掘調査が、私にとってはまさに大きな関心事だったんです。

私は昭和18年(1943年)の生まれですから、3歳に満たない時に太平洋戦争の終戦を迎えています。まだまだ戦後の混乱が続いていた時期ですが、もちろんその記憶はありません。

ただ、直後に始まる第1次ベビーブームの兆しだったのか、当時通っていた東京都中野なかの区の小学校には子どもがあふれていて、校舎に生徒が入り切らず、2部制で授業を行っていたのを覚えています。

父は着物の反たん物ものに絵を描く江え戸ど友ゆう禅ぜんをなりわいにしていて、家ではお弟子でしさんや職人さんがいつも忙しそうに作業をしていました。おかげで、なんとなく居場所を見つけづらく感じ、それも毎日の図書室通いに拍車をかけたように思います。

なお、小学校の先生いわく、考古学者になるためにはたくさん勉強をして、いい大学へ進む必要があるとのこと。つまり、東なら東京大学、西なら京都大学へ行くのがベストだろうと教えられました。

エジプト関連の出土遺物やレプリカ。東日本国際大学に展示されていて見学することができる

大学進学前に喜劇役者か考古学者を目指すのか大きな葛藤がありました

運動は苦手でも勉強にはそれなりに自信がありましたから、私はがぜん、その気になりました。夏は暑く冬は寒い京都に行くのは抵抗があったので、目指すべきは東大だと目標を設定し、残りの小学生時代を必死に勉強に費やすことになったんです。単純なことに、それがカーターを超える発見に直結しているのだと信じていましたから、勉強することはまったく苦になりませんでした。

そのたまものか、私は進学校として知られる東とう京きょう学がく芸げい大学附属大泉おおいずみ中学校、そして東京学芸大学附属高等学校へと進学することになります。

ただ、それからいちずに考古学者を目指したかというと、実はそうではありません。中学生の時に先輩に誘われて演劇をやることになり、一時期は本気で喜劇役者になりたいと考えていました。

今でも思い出深いのは、ピエロの役で舞台に上がった時のことです。自分の一挙手一投足にお客さんがどっと笑ってくれることに快感を覚え、こういう世界に進むのもいいかもしれないと、本気で思いはじめたのです。

考古学者としての憧れがカーターなら、役者としての憧れはチャールズ・チャップリンでした。役者の道に進むなら、チャップリンのような存在になって、日本中を楽しませたい。私のトレードマークとされる口ひげも、実はチャップリンを意識したものなんです。

そんな2つの夢のはざまで将来に思いをはせた高校時代に、どちらの道も捨てがたく感じていた私は、合格した大学によって進路を決めようと思い立ちます。つまり、東京大学に合格したら考古学者に、日本大学芸術学部に合格したら役者になろうと考えたのです。

結果は残念ながら、東京大学はあえなく不合格に。ならばエジプトで発掘調査をする夢は諦めて、役者を志すしかないと決意した私ですが、これに反対したのが母でした。

「役者? 駄目よ、そんな職業。考古学者を目指して頑張りなさい。そもそも学者は役者になれるかもしれないけれど、役者は学者になれないじゃない」

そう諭されたことで、私はそれから3年間の浪人生活を経て、早わ稲せ田だ大学に進学することになります。

クフ王の墓が見つかれば世界が大騒ぎする大発見になるでしょう

早稲田大学に入学すると、私はすぐに行動を起こします。4人の仲間と一緒に調査隊を結成して、念願のエジプトへ渡ることにしたんです。

ただ、最大のネックは交通費です。さまざまなアルバイトで多少の小銭は蓄えたものの、正規の航空料金はとても手が出ません。そこで自分たちの目的と意義を伝え、航空会社や貨物船にどうにか安く乗せてもらえないかと交渉したものの、取り合ってもらえず。最終的に石油を運ぶタンカー船に直談判じかだんぱんしたところ、運よく空き部屋に紛れ込ませてもらうことができました。

「今も2ヵ月に1度はエジプトへ行き、発掘調査の陣頭指揮を執っています」

本来の渡航価格よりもかなり安く現地にたどりついた私たちは、およそ7ヵ月かけてエジプト全土を踏査しました。これがアジア初のエジプト調査隊で、日本でも大きな反響を呼びました。私としても見るもの触れるものすべてが刺激に満ちていて、この体験によって、あらためてエジプト考古学に人生をささげる決意をしたのです。

残念ながら、その時一緒に渡航したほかのメンバーはみんな、卒業後は普通の会社員になりましたが、私だけは夢を諦めず調査と研究を今日に至るまでそのまま続けています。その間、マルカタ南にある「魚の丘遺跡」で彩さい色しき階段を発見したり、ダハシュール北地区で神殿型大型貴族墓を発見したり、多くの方のサポートを受けながらさまざまな成果を得ました。

しかし、その道程は決して平坦なものではありませんでした。発掘調査を行うには、エジプト考古庁から正式に発掘許可をもらう必要があります。それまでエジプトで発掘の実績を持つ日本人は皆かい無むですから、これが非常に大変でした。何度も何度もエジプト考古庁に通って交渉するものの、そのたびに「なぜ日本がそんなことをやるんだ」「そもそも古代文字が読める研究者がいるのか」と難癖をつけられて追い返されるばかり……。

そして、数年がかりでようやく許可が下りたと思ったら、紛争のためにその地域が立ち入り禁止になってしまうようなアクシデントもありました。

また、資金の問題も慢性化していて、次から次に壁が立ちはだかる日々。それでも諦めることなく、強い意志を持って進みつづけることができたのは、これが子どもの頃からの大きな夢だったからでしょう。

ピラミッドといえば、クフ王の墓であるというのが定説です。しかし、私は常々ピラミッドは墓ではなく、象徴物であると主張してきました。実際のクフ王の墓は、そのすぐそばにある西部墓地と呼ばれるスペースの地下にある——私はそう確信して、今も発掘を続けています。

ここまでの成果からしても、間違いなくクフ王の墓はそこにあります。ほんとうに見つかれば、これまでの常識が一気に塗り替えられることになり、世界中が大騒ぎするでしょう。そして、それは早ければ年内にも実現すると私は信じています。

すべての文化や文明はピラミッドからつながっているんです

エジプトで撮影した当時のネガフィルム。今までの貴重な記録がネガフィルムとして大切に保管されている

こうしてまだまだ気力十分な私は、老体にむち打ちながら今も頑張っています。

ただ、体のほうは少々ガタが来ているのも事実です。というのも、今から10数年前に、発掘調査の最中に4㍍の高さから転落してしまい、左ひざを複雑骨折したからです。それ以来、車イス生活を余儀なくされ、今も研究のかたわらリハビリを続けています。

おかげで、日常生活では不自由を強しいられているのは事実です。それでも以前と変わらず、目標に向けてまい進できるのは、ひとえにやりたいことをやっているから。ただし、がむしゃらに無理をすればいいわけではないことも、この年になれば理解できます。

そこで大切なのは、すべてを自分1人でやろうとせず、頼りになる仲間の力を借りることです。明確な目標があるからこそ、仲間を作ってマネジメントする。そして、それを徹底するからこそ、あらためて自分がどれほど人に恵まれてきたのかを実感させられます。

分かりやすい数字でいうと、ざっと計算した結果、私はこれまでの発掘調査で実に128億円もの費用を使っています。そのうちの4分の3はよそからの補助や寄付ですから、ほんとうに多くの人に支えられてきたことが分かります。

だからこそ、自分のこれまでのキャリアの集大成として、クフ王の墓を見つけなければなりませんし、見つかると確信しています。

東日本国際大学エジプト考古学研究所にある本棚。希少価値のある文献や書籍が数多く保存されている

やはり、エジプト考古学は面白いですよ。よく、文化はシルクロードを経由して日本にやってきたという話がありますけれど、私にいわせればそれは正確ではありません。シルクロード以前に、すべてはピラミッドからつながっているのです。

例えば、人の魂は不滅であり、人は死んでも復活するという古代エジプトの思想の影響は、世界中で見て取れます。エジプトで始まったものが、大陸を渡って少しずつ様式を変えながら日本にもやってきたわけで、仏ぶつ壇だんだってエジプト宗教が作ったものですし、五ご重じゅうの塔とうはピラミッドを模したものと考えられます。

つまり、シルクロードではなく本質はピラミッドロード。こんなことを声高こわだかに主張している研究者は私くらいのものですが、エジプトには興味深い事実がたくさん眠っています。私自身、これからもそうしたロマンを、まだまだ追いかけていきたいと思います。