プレゼント

まだまだやりたいことは尽きない——この気持ちが元気の源です

私の元気の秘訣

歌手 神野 美伽さん

1984年のデビュー以来、国内外での音楽活動はもちろん、グラビアモデルやラジオ番組のパーソナリティーを務めるなど、従来の演歌歌手の枠にとらわれない活動で人気を博してきた神野美伽さん。デビュー40周年を迎えた今年も勢いは止まらず、異ジャンルアーティストとのコラボなど、積極的に活動の幅を広げています。そんな神野さんにこれまでのキャリアとエネルギーの源についてお聞きしました!

小学生の時に出演した歌番組をきっかけに本格的に歌の世界へ

[しんの・みか]——1965年、大阪府貝塚市出身。1977年、『東西対抗チビッコ歌まね大賞』(テレビ東京系列)に出演し、1984年、高校の卒業後に『カモメお前なら』でデビュー。1985年、3作目となる『男船』が70万枚を超えるヒット。1987年、NHK紅白歌合戦初出場。1999年、日本人初の韓国デビュー。2001年、『ハングル講座』(NHK教育テレビ)レギュラー出演など韓流ブームの先駆けとなる。NHKラジオ番組や10年以上にわたってパーソナリティーを務めた東海ラジオの『神野美伽のオツな一日』などトークにも定評がある。ニューヨーク公演、海外音楽フェス(SXSW18)、国内ロックフェス、シャンソン、ジャズなどのイベントにも出演。グラミー賞受賞アーティストとの共演など、異ジャンルアーティストとのコラボも積極的に行い活動の幅を広げている。

私が歌手を目指すことになったのは、小学校5年生の時に受けた関西のある歌番組のオーディションがきっかけでした。

正確にいうと、歌手になりたいと明確に望んでいたわけでも、テレビに出たいと思っていたわけでもありません。ただ歌を歌うのが昔から大好きで、同級生の友だちとノリで応募して、大阪の朝日(あさひ)放送までみんなでオーディションを受けに行くことになったのが始まりでした。ちょっとしたピクニック感覚といってもいいかもしれません。

結果、オーディションでは私だけが合格の通知を受けたのですが、その直後に番組が終わってしまったため、結局、カメラの前で歌う機会は訪れませんでした。ところが、その時の応募書類がテレビ局に残っていたようで、後日、東京の制作会社の方から大阪の実家に電話がかかってきたんです。「今度始まる新しい番組で、(みやこ)はるみさんの曲を歌える女の子を探しているのですが、出てみませんか」と。

今にして思えば、個人情報の取り扱いとしてどうなのかなという気もしますけど(笑)、そういうおおらかな時代だったおかげで、私は思いがけないご縁をいただくことになります。その番組が放送された後、東京のさまざまな芸能プロダクションから正式にスカウトの電話が自宅に相次いだのです。

でも、当時の私は芸能界がどういう世界なのか考えたこともありませんでしたし、東京に行って仕事をすること自体、まったくぴんときていませんでした。大阪在住の私には、東京ははるか遠い異国のような場所でしたからね。

ですから、何人ものスカウトマンが電話でご連絡をくださいましたが、毎回お断りするばかり。芸映(げいえい)プロダクションという会社の方がやってきたその日も、やっぱり「申し訳ありません」とお引き取り願ったのですが、その方が帰り支度をしながら、「ところで美伽(みか)ちゃんは、誰か好きな歌手の人なんているのかな?」と聞かれたことで、風向きが変わります。

私はすかさず「岩崎宏美(いわさきひろみ)さんです!」と、ずっと大好きだった歌い手さんの名前を挙げました。すると、スカウトの方がこういったのです。

「彼女はうちのプロダクションに所属しているんだよ。もしよかったら、宏美に会わせてあげるから、一度東京へ遊びにおいでよ」

現金なもので、憧れていた岩崎宏美さんに会えるなら……と、苦手意識のあった東京に行く気になり、そこからはトントン拍子で話がまとまりました。縁というのはほんとうに不思議なものですよね。

「大阪在住の私には、東京ははるか遠い異国のような場所でした」

といっても、当時の私はまだ小学生ですから、すぐにカメラの前に立つわけではありません。実際にデビューしたのは、高校を卒業した5日後のことでした。

思えば、幼稚園の頃から夏祭りでは(やぐら)の上で歌っていた私にとって、歌手になるのは自然な道だったのかもしれません。子ども心に、自分が歌いはじめると大人の人たちがどんどん集まってくるのが楽しくて、ノリノリで歌っていたものです。あの頃はまだ子どもにとってカラオケが身近なものではなかったので、お祭りこそが気持ちよく歌える晴れの舞台だったわけです。時には御祝儀までいただいたりして、当時の私は町内ではちょっとしたスターだったと思いますよ(笑)。

それでも、まさか自分がプロの歌手になるなんて、想像もしていませんでしたから、高校卒業後、生活は激変します。

3曲目「男船」のヒットで途端にプレッシャーを感じるようになりました

右も左も分からない状態のまま、事務所にいわれるままレコーディングして、取材を受けて、全国のレコード店を回る……。ひたすらその繰り返しの日々でした。大人になった今は、それが事務所の期待の表れで、大いにプッシュしてくれていたのだと理解できますが、当時はそれをプレッシャーとすら感じる余裕もありませんでした。

むしろ、プレッシャーにさいなまれるようになったのは、デビューから3曲目にあたる『男船(おとこぶね)』がヒットしてからのことです。その日のことは今でもハッキリと覚えています。

まだまだ無名の演歌歌手だった私は、仕事の合間に赤坂(あかさか)の喫茶店で、レコード店への売り込み用の色紙を書いていました。すると突然、TBSラジオのディレクターさんから連絡が入り、「赤坂にいるんだったら、今すぐスタジオに来てほしい」といわれました。よく分からないままTBSに向かうと、テーブルの上にはハガキが山のように積まれています。

「ほらこれ、全部あなたの『男船』のリクエストハガキだよ」

そういわれて、鳥肌が立ちました。

「40周年記念の第一弾としての新曲が、これまでリリースしてきた66曲目です」

そこからはまさに怒濤(どとう)の日々で、まだデビュー2年目の私が日本レコード大賞で金賞をいただくなど、突如として第一線に躍り出ることになりました。2曲目までは鳴かず飛ばずの状態だったのが、一つの曲で人生が大きく変わったのです。

おそらく、それまでとは方向性の違うタイプの楽曲にチャレンジしたこと、その曲が時代に求められていたものとたまたま一致したことなどがヒットの理由なのでしょうが、とにかくいわれたことを無我夢中でこなしていたら、ある日突然、世間が私を見いだしてくれた。そんな気分でした。

街を歩けば、老若男女を問わず多くの方々にサインを求められる生活——それだけおおぜいの方に応援していただいているのだと実感できるようになったのは、とてもうれしいことでした。けれど、続々と新人がデビューしてきます。なまじ3曲目が売れてしまったが故に、もし次の曲が売れなかったら、応援してくださる方や関係者の方をがっかりさせてしまう……。

基本的には、いつもぼんやりと生きている私ですが、この時ばかりは毎日がそうした不安や恐怖感との闘いでした。

あくまで演歌歌手としてデビューした私ですが、バラエティ番組に出演したり、雑誌のグラビアもやったりと、ほんとうにいろいろな経験をさせていただきました。

特にグラビア撮影では頻繁にハワイやグアムへ飛んで、朝から晩まで水着でビーチに立つようなハードな毎日でしたが、楽しく過ごしていたのを覚えています。当時は「いつも忙しいのに、どうやってストレスを発散しているの?」とよく聞かれましたが、私はあまりストレスをため込まないタイプなんです。

確かに睡眠時間は不足していたし、遊びに行ったり買い物を楽しんだりする時間はまったくありませんでした。でも、この時期はスケジュール表に「オフ」と書かれるとむしろ不安を感じて、かえってストレスになるくらいでした。自分が休んでいる間にほかの誰かが歌っていると思うと、居ても立っても居られない——そんな気ぜわしい状態だったんです。

そんな性分のおかげか、デビューから40周年を迎えてこれまでを振り返ってみても、やりたいことはすべてやらせてもらえた、充実した半生だったと満足しています。

演歌歌手であることが歌い手としての私の最大の個性なんです

岩崎宏美さんに憧れていた私としては、ほんとうは演歌ではなくポップスをやりたかったという思いはあります。でも、演歌だからこそ世に出ることができ、おかげでさまざまな経験をさせていただくことができたので、事務所の判断には感謝しかありません。

それどころか、演歌は歌い手としての私にとって、最大の個性だと感じています。実際、アメリカのフェスでロックやジャズなどいろいろなジャンルのミュージシャンとコラボレーションできたのも演歌だからこそでしょう。

「〝引退〟の二文字が一瞬頭をよぎりました」

今年、40周年記念の第一弾としての新曲が、これまでリリースしてきた66曲目になります。先日、これまで歌ってきた曲のジャケットを見直してみたのですが、ほんとうにいい時代を経験させてもらってきたのだなと、あらためて実感しています。

最近はステージでもなかなか歌う機会がない曲も多くなったので、40周年記念のコンサートツアーでは、できる限りこれまでのシングル曲を披露するようにしています。

ただ、演歌というジャンルに先細り感やマンネリ感を抱いていることも事実です。演歌というのは、ほんとうはかっこいい音楽なはずなのに、どうしてもカラオケ好きな層にばかり向けて作品が作られているように思えますし、積極的に新しいマーケットを切り開こうとする気運にも欠けているように思えるからです。

私がアメリカで活動を始めたのもそこに理由があります。向こうの人たちに「本気の演歌」を聴いてもらえば、きっと新しいなにかが生まれるはずだ、と。

このもくろみは間違っていなかったようで、「このミュージックはなんだ⁉」と目を白黒させる関係者がおおぜいいました。これがまさに演歌の新しい可能性で、ジャズバーで歌う時にはジャズミュージシャンの演奏で、ロックフェスではロックミュージシャンの演奏で演歌を歌えば、まったく新たな層を取り込むことができるんです。

私としても、海外で「これがジャパニーズ・トラディショナルスタイルよ!」と、誇らしい気持ちになりました。演歌は私にとって、強い武器であり大きな個性なんです。

大手術を受けましたが次の目標を見据えてリハビリに励みました

冒険ばかりの40年間でしたが、まだまだやりたいことは尽きません。そうして意欲を失わずにいられることが、私にとっての元気の源なのだと思います。

でも、世の中にはそうした前向きな気持ちになれずにいる人もおおぜいいることでしょう。ただ、気の持ちようで状況は大きく変わるはずです。先日もある番組でご一緒した若い男性アーティストの方が「なんの趣味もないので退屈だ」といっていましたが、私だって家に一人でいる時はテンション低いですからね(笑)。

不思議なもので、テンションが上がらない時は年相応に「体のここが痛いな」とか、「老眼がひどくなってきたな」などと、体のあちこちに不調を感じはじめます。3年前には頸椎化膿性脊椎炎(けいついかのうせいせきついえん)もやりましたし、その後も左足の大腿骨頭壊死(だいたいこつとうえし)腰椎椎間板(ようついついかんばん)ヘルニアと、立て続けに手術を受けることになりました。そのため、予定していたコンサートを延期せざるをえず、多くのファンや関係者の方々にご迷惑をおかけしてしまいました。

そういう落ち込んだ気分の時は、さすがの私も「もうそろそろ潮時なのかな。やりたいことは全部やってきたし、もういいかな」と、〝引退〟の二文字が一瞬頭をよぎりました。

ファンからの言葉に元気をもらい、気力をみなぎらせながら第一線で活躍する神野美伽さん

でも、そこで大切なのは、その先にある次の目標をしっかりと見据えることなのでしょう。私の場合、「早く体の状態を戻して、ファンの皆さんに元気な姿を見せたい」を目標にして、前向きな気持ちでリハビリに取り組むことができました。そして、体が元気になってくると、「まだまだ末永く歌いつづけたい!」という、強い気持ちが湧いてくるんです。

先日、あるファンの方から「あなたの歌を聴いて、いつも元気をチャージしているの。おかげでその日一日をがんばれるのよ」といっていただきました。この言葉には私自身が元気をもらい、ますます気力をみなぎらせたことはいうまでもありません。こんなふうに自分自身を元気づけることは、年齢を重ねなければできないことで、いい換えればキャリアのなせる業です。

ほんとうに、どんなささいなことでもいいと思います。お孫さんの成長を見守ることでも、植木を育てることでもいいでしょう。自分に少しでも力をくれるなにかを探してみてください。諦めることなく探しつづけていれば、ある日、視点がぱっと切り替わることもあるはずです。前向きになろうとする姿勢の先に、あふれるような喜びが必ずあるものだと私は思っています。