プレゼント

父親のような存在の永田先生から線維筋痛症との向き合い方を学びました

線維筋痛症

きんつう相談室代表 橋本 裕子さん

4歳の頃から激痛に苦しみ、「痛みとは何か?」というテーマの探究に心血を注ぐのが、線維筋痛症患者の橋本裕子さん。患者の立場から取り組む啓発活動を通じて、永田勝太郎医師との運命的な出会いを果たします。線維筋痛症を患ってからの苦労と永田医師が提唱した治療法、さらに開発した「特別な乳酸菌食品」の効果について伺いました。

4歳から激痛に苦しみ、「両足を切ってほしい」と思う時もありました

[はしもと・ひろこ]——広島県尾道市生まれ。広島大学教育学部附属福山高等学校卒業。獨協大学外国語学部フランス語学科卒業。武蔵大学大学院人文科学研究科修士課程修了現代思想専攻。仕事で多忙を極め、入退院を繰り返す。複数の疾患と線維筋痛症が判明し、2002年10月に線維筋痛症友の会を設立して理事長に就任。2019年、きんつう相談室を開設。日本慢性疼痛学会、日本リウマチ学会、心身医学会、国際全人的医療学会、日本実存療法学会、日本疼痛心身医学会、日本線維筋痛症学会に所属。

私が〝痛み〟を最初に自覚したのは4歳の時でした。幼稚園で友だちと輪ゴムを弾いて遊んでいても、周りのみんなは楽しそうに笑っているのに、私は激痛で一人のたうち回っていました。「どうして自分だけが、こんなに痛い思いをしているのかな……」と幼心で感じた疑問は、この後ずっと抱きつづけることになります。

痛みというのは主観の問題です。実際に自分がどのくらいの痛みを感じているのか、ほかの人の痛みとどのくらい違うのかと思っても、比べることはできません。

私がどれほど痛がっていても、いつも周囲からは「大げさだ」と思われてきました。「自分のこの苦しみを理解してもらうためには、いったい何をどうすればいいのか」と悩みつづけた私にとって、「痛みとは何か?」「なぜ人は痛みを感じるのか?」という疑問は、生涯かけて取り組む大切なテーマとなりました。

線維筋痛症(せんいきんつうしょう)の痛みというのは、体にちょっとでも何か触れただけで、跳び上がるほどの激痛が走ります。幼稚園から小学校に入学しても、体育の授業は見学するしかありません。でも、生来の負けん気から「好きなことをやりたい」と思った私は、中学校と高校ではテニスに打ち込みました。

だからといって、痛みが治まっていたわけではありません。

当時、私はバスと電車を乗り継ぎ、片道2時間かけて通学していました。しかも、乗り換えの時間は全力で走らなければ出発に間に合いません。痛む体でラッシュアワーの電車内でもまれるだけでも地獄の苦しみです。通学するだけで毎日くたくたに疲れ果てていました。

17歳のある日のことです。両ひざからくるぶしまで赤く()れ上がり、少しでも気を抜くと意識が飛んでしまいそうな激痛に襲われました。学校帰りに飛び込んだ整形外科でレントゲン検査を受けましたが、結果は異常なし。医師から「骨膜炎かもしれないので、しばらく様子を見ましょう」といわれて、痛み止めの薬と湿布薬を渡されました。

「両足を切ってほしいと思うほどの激痛でした」

でも、処方された痛み止めはまるで効かず、気休めにもなりません。夜も眠れない激痛が続く中で「いっそ両足を切り離してしまえば、この苦しみから解放されるのではないか」と真剣に考え、実際に「両足を切ってほしい」と医師に頼んだほどです。ただ、先生は「様子を見ながら調べていますから、いうとおりにしなさい」の一点張りでした。

病名すら分からない、まして何の治療も受けられない——そんな過酷な状態が半年間も続きました。医師と医学にすっかり失望していた私に、先生が「もしかすると、新陳代謝の働きに大きく関わる結合組織が炎症を起こす結合織炎(けつごうしきえん)かもしれない」と一つの病名を口にしました。

とはいっても具体的な治療法があるわけでもなく、症状は少しも変わらないのですが、その時の先生の見解は1970年当時としては画期的だったと思います。私の様子を見て「結合織炎」という病名にたどりついた先生は、医療の最先端情報に敏感で、痛みの正体を突き止めようと真剣に取り組んでくださったと思います。

今振り返っても、結合織炎という病気はそれほど未解明の分野でした。まして線維筋痛症という病名など、まだ影も形もない時代だったのです。

激痛に耐えられずに自宅で倒れ、3日間も意識を失っていました

痛みに苦しみながらも私は東京の大学に入学し、卒業後は大学院へと進みます。大学院で哲学を専攻したのは、激痛と隣り合わせの生活を送る中で、私の中にいる「もう一人の自分」の存在を意識するようになったことがきっかけです。

それまでの私は、「人前で痛みに耐えて平然と振る舞う自分」と「一人になると苦痛で顔をゆがめる自分」という二つの顔を懸命に使い分けているつもりでした。ところがある時、日常生活の中で使い分けの記憶がすっぽり抜け落ちている時間帯があることに気がついたのです。前夜も激しい痛みに苦しんでいたはずなのに、翌朝目が覚めると、まるで症状が治まったかのように元気な自分の姿しか記憶にない——といったことがしばしば起こるようになりました。

「これまでの治療経験から、薬物の効果に限界を感じていました」

さらに、何かしらの目的を持って家を出たはずなのに、途中で行き先が分からなくなったり、道端で顔見知りに話しかけられても、状況が理解できず返事すらできなかったりすることもありました。こうした状態も、多重人格と考えれば説明がつきます。

私はいつしか、「複数の自分」を使い分けながら、日常生活をうまく回すようになっていたのです。おかげで大学を卒業する段階では、規定の2倍の単位を取得していて、奨学金を得て大学院に進むことができました。

本格的に心理学を学んでみると、私のケースはいわゆる多重人格障害(解離性同一性障害)ではなく、私自身がそれに近い心理・精神状態を上手に活用しているのだろうと思うようになりました。激痛と共存しながら生きていくために身につけた、知恵もしくは工夫なのかもしれません。

入退院を繰り返しながらも、どうにか大学院を修了して大手書店に就職した私は、痛みを忘れるために仕事に没頭しました。そのかたわら、いろいろな病院の診察を受けてみましたが、やはり病名も治療法も分からないことに変わりはありませんでした。

40代になってから、私は損害保険会社に転職しました。症状が悪化するばかりだったある日、激痛に耐えかねた私は自宅で倒れ、そのまま3日間も意識を失ってしまったんです。

この時は幸い、「橋本が無断で会社を休むのはおかしい」と心配した同僚が家に来てくれたことで、私は病院へ搬送されて事なきを得ました。もし私が、日頃から遅刻や欠勤を重ねる不真面目社員だったら、そのまま放置されて命を失っていたかもしれません。

当時の私は、激しい痛みのために気を失ってしまうことは日常茶飯事。健常な生活とは無縁の日々を送っていました。

同じ痛みを抱える人を支援するために患者会を設立しました

橋本さんの壮絶な線維筋痛症の実体験を赤裸々につづった『そうまでして生きるわけ』(佐久書房)
興味がある人はこちらからご連絡ください▼
https://mail-to.link/m8/9yvl98

ある時、お世話になっていた先生から、それまでかかっていた神経内科から膠原病(こうげんびょう)内科に転科するようにすすめられました。

膠原病はかつて、罹患(りかん)すれば10年以内に亡くなるといわれた難病ですが、すでに私は10年をずっと超える年月を生きてきたので、あまりピンと来ませんでした。膠原病内科で診察を受けると、難病の「全身性エリテマトーデス(以下、SLEと略す)」という病名を伝えられました。その時は、「難病なんだから治療が難しいのも当然だろう」と、事の道理がようやく明らかになったことで、私の気持ちは少し晴れやかになりました。

ところが、ステロイド剤の投与などの治療を受けても、SLEの症状は改善しません。治療を受けるうちに血液検査の数値はよくなっていきましたが、先生は「SLEの患者に関節痛が起こることはよくある」というばかりで、痛みが和らぐ治療は受けられませんでした。

さらに診断を受けるうちに、この先生から「Fibromyalgia(ファイブロマイアルジア)かもしれない」という言葉を聞くようになりました。当時、相当する和訳がまだ存在していませんでしたが、これが線維筋痛症です。2003年になってようやく、国による研究が本格化し、少しずつ線維筋痛症の症例に対する関心が高まりつつあった時期です。

しかし、患者にとっては、治療法が確立されなければ苦しみの解決にはなりません。医学がどんなに進歩しても、現実に線維筋痛症のガイドラインには「原因不明」と記され、有効な治療法も書かれていません。原因不明の痛みに苦しめられているのが日本中で私だけということはありえません。人知れず悩み、苦しんでいる人たちが、きっとほかにもおおぜいいるはずと思いました。

そこで私は、国が本腰を入れて取り組みを始める前の2002年に日本初の線維筋痛症の患者会「線維筋痛症友の会」を立ち上げ、研究・啓発活動を始めました。この取り組みはメディアでも大きく取り上げられ、友の会は2004年にNPO法人化しています。

友の会の活動に取り組んでいたある時、永田勝太郎(ながたかつたろう)先生の講演を聞く機会に巡り合いました。永田先生との出会いは私にとって衝撃的で、運命を感じずにはいられないほど強烈なものでした。

現代医学は人体の不調な部分(パーツ)に着目して治療を行う傾向がありますが、「人体の不調は人間全体を通して()ながら改善すべき」というのが永田先生の治療方針でした。長年の治療経験から、治療薬に期待できる効果に限界を感じていた私にとって、永田先生が提唱する「全人的医療」の考え方は、とても納得できる理論でした。

新しい線維筋痛症の治療法を見つけた時、少年のように目を輝かせていたという永田勝太郎医師

すべての人間には過去があります。そして、過去の積み重ねが未来を作ります。例えば、過度な飲酒を続けてきた人に肝炎を患うリスクが高まるのは明らかです。そして、いざ肝炎を患った際には、傷んだ肝臓だけを治療すれば健康を取り戻せるというわけでもありません。

永田先生の教えは、それまで出会った医師とはまるで異なる考え方に基づいていました。私は「永田先生のもとですべてを学びたい」と、探究者のごとく永田先生のもとに通うようになりました。

ある時、線維筋痛症の実体験をつづった私の著書『そうまでして生きるわけ︱線維筋痛症だからといって、絶望はしない』を永田先生が知っていることが分かりました。永田先生から「いいタイトルだね」といわれた時は筆舌しがたいほどの感動を覚えました。線維筋痛症の苦労と前向きに生きる意欲、そして何より、「何が何でも生きる!」という気概を永田先生がくみ取ってくださったのだと思います。私にとって永田先生は、まさに父親のような頼れる存在だったのです。

永田先生は常々、「線維筋痛症の患者さんは、橋本さんの本を必ず読むべきです」と、私の著書をすすめてくださいました。私と同じような激痛に悩んでいる方が、私の本を読んで線維筋痛症の正しい理解を深めていただけたらうれしいです。そして、つらい日々の中、少しでも前向きになっていただけたらと思います。ぜひ一度、手に取ってみてください。

特別な乳酸菌食品を開発した時の先生の顔を忘れることができません

永田先生のもとに〝線維筋痛症の探究者〟として通っていた私は、先生の教えを日々学んでいたものの、実際の治療は受けていませんでした。当時の私は睡眠薬を服用していて、別の病院で処方してもらっていましたが、2018年に永田先生から睡眠薬を処方してもらおうと相談したことが治療の始まりです。

永田勝太郎医師を「父親のような存在」と語る橋本さん

その年、永田先生はお正月を返上して、新しい線維筋痛症の治療法の研究に明け暮れていました。200~300本もの学術論文を徹底的に精査し、ついに見つけ出したのが「LAB4(ラブフオー)乳酸菌」です。LAB4乳酸菌を見つけた時の永田先生は、まるで少年のように目をキラキラと輝かせていました。「この出合いは運命だね」と私に熱く語ってくれたことを、今でも鮮明に覚えています。

血糖値の上限値を抑えながら下限値を低下させないというLAB4乳酸菌の特性は、線維筋痛症の改善にうってつけ。なぜなら、線維筋痛症の患者は総じて、空腹時に血糖値が下がりすぎてしまう傾向があり、その乱高下(らんこうげ)(血糖値スパイク)が線維筋痛症の痛みを悪化させていると考えられているからです。

永田先生はLAB4乳酸菌に加えて、血糖値を安定させる目的で水溶性食物繊維であるグルコマンナンを適切な比率で加えた「特別な乳酸菌食品」を開発しました。永田先生が提唱した線維筋痛症の治療法は、「食事」「呼吸」「運動」「患者力」の四つの軸がありますが、ジグソーパズルのようにどれも重要なピースです。その中でも、特別な乳酸菌食品は特に重要なピースで、低血糖や血糖値スパイクを改善させるために不可欠な存在といっても過言ではありません。

永田先生が提唱された食事療法の一つに、1日の中で6時間以上の空腹状態を作らないように、朝・昼・晩の食事とともに、午前・午後の間食、就寝前に軽食をとる食習慣があります。食事内容や食べる順番にも配慮が必要ですが、1日6食とりながら、朝・昼・晩の食直前と就寝前に特別な乳酸菌食品を飲むことで、線維筋痛症の患者に顕著な低血糖や血糖値スパイクを抑えることができるのです。

特別な乳酸菌食品を3食前と就寝前に飲んだら体がらくになりました

永田先生に特別な乳酸菌食品の働きについて教えてもらってから、私も朝・昼・晩の食事の直前と就寝前に特別な乳酸菌食品を1粒ずつ飲むようになりました。夜間就寝中は糖を摂取しない時間が長くて低血糖になりやすいので、就寝前の夜食としてホットミルクを飲んでいます。特別な乳酸菌食品を飲みはじめてから、少しずつ体がスッキリとしてらくになっています。

今も線維筋痛症の症状がなくなったわけではなく、痛みとともに日々の生活を送っていることに変わりはありません。痛みがまったくない状態を「0(ゼロ)」とし、耐えられない痛みを「10」とした場合、以前の私はひどい時には「12」ほどの状態だったんです。10までしかないのに12は変かもしれませんが、我慢の限界をすごく超えていて、寝たきりの生活を強いられるほどでした。今の私は、体調がよければ「4」前後で安定していると感じています。これまで何の治療効果も得られなかったことを考えれば、劇的な改善といえるのではないでしょうか。

「適切な治療法を実践すれば、線維筋痛症は絶対によくなります」

私と同様に特別な乳酸菌食品を飲んでいる人の中には、1~2ヵ月後に改善した実感を得た方もいます。私の知り合いでは、飲んでから1ヵ月未満で月経前症候群(げっけいぜんしょうこうぐん)(PMS)が治った人もいます。永田先生が苦心の末にたどりついた世紀の大発見が、線維筋痛症を患う人たちに大きな希望の光をともしたことは間違いありません。

線維筋痛症という病気がなぜこれほど難しいのかといえば、人それぞれに複数の原因があり、一つの理由だけで発症するものではないからです。永田先生が実践されていたように、線維筋痛症の治療には、一人ひとりに合った方法とアプローチが欠かせません。永田先生の発見によって一つ明らかになったことは、線維筋痛症の患者さんは血糖値や血圧、体温、心拍が低くなっている場合が多いため、それぞれを高めて体力や活力を取り戻すということです。

永田先生が提唱された治療法をきちんと実行に移せば、線維筋痛症の症状は大なり小なり「絶対に改善」します。ただし、それ以前に、患者さん本人が「治したい」という前向きな気持ちを持たないと、今後どんなに優れた治療薬が登場しても線維筋痛症がよくなることは難しいといえるのではないでしょうか。前向きな気持ちの中には、自分の人生について考え、生きる意味を模索することで、実存的な、人として一歩踏み出せることが大切なのではないかと考えています。

特別な乳酸菌食品についても同じことがいえます。特別な乳酸菌食品を飲むだけではなく、生活習慣をどのように積極的に変えていけるかが非常に大切です。そういった健康の本質を理解したうえで実践すれば、特別な乳酸菌食品ほど頼もしい味方はありません。

橋本裕子さんからのお知らせ

『きんつう相談室』
18年間で約4万人の線維筋痛症や慢性疼痛の患者さんと電話相談を行った経験を生かし、一人ひとりに合った相談やカウンセリングを行っている。また、SNSやブログで線維筋痛症に関する情報を発信中。