tantore株式会社 代表取締役社長 中河原 毅さん
新型コロナウイルス感染症の流行以降、生活の一部となったマスクの存在。国内外の各メーカーが最新技術を競い合う中〝世界最密〟のマスクを作り上げたのが中河原毅さんです。細菌やウイルスの防御のみならず、コロナ禍の新たな問題となっている後遺症に対する研究も進んでいます。
「手ぶらでは帰れない」と、極寒の欧州で商談に挑みつづけた
「一般的にメッシュ(網)といえば、ガーゼや衣服といった繊維製品を思い浮かべることでしょう。実はメッシュの用途は幅広く、自動車や工作機械などにも使われています。機械の駆動部分は熱がたまりやすいので、風を送って冷やす必要がありますが、ホコリの侵入を防ぐためのフィルターとしてメッシュが使用されているのです。私の人生は、そんなメッシュとの出合いによって大きく変わりました」
そう話すのは、メッシュを専門に取り扱うtantore株式会社代表の中河原毅さんです。20代の頃に大手工具メーカーに勤務していた中河原さんは、機械を製造する際、ほかのパーツと比べてメッシュの費用が高いことを不思議に思ったといいます。
「調べてみると、高品質のメッシュはすべてヨーロッパで作られていました。当時は、ヨーロッパからメッシュを仕入れている国内の企業が一社しかなく、価格競争が起こっていなかったことも、メッシュが高額だった理由の一つです」
その後、メッシュが中河原さんの人生に影響を与えたのは、30代の頃です。中河原さんは、工具メーカーから作業着の縫製を担う中小企業に転職しました。転職先は、中国やベトナムなど海外企業による市場参入によって経営が傾いていることが分かったそうです。
「会社の厳しい状況をなんとかしたいと思った時に、メッシュのことを思い出したんです。ヨーロッパのメッシュを取り扱う国内第二の企業になることができれば、会社を大きく変えられるかもしれないと考えました。早速、英会話教室に通いながら、インターネットの翻訳機能を使って、イタリアやドイツ、フランスにあるメッシュの製造企業に新規取引の打診をしてみたんです」
幸いにも取引に関する話を聞いてくれる企業が現れたため、1週間の滞在期間を設けてヨーロッパへと向かった中河原さん。ところが、いざ現地に到着すると、訪問予定だったドイツとフランスの企業から「急用ができて会うことができなくなった」という連絡があったのです。唯一残ったイタリアの企業も面会は困難な状況でした。中河原さんが担当者への取り次ぎを頼んだところ、「急用が立て込んでいるので、今日は会えないから帰ってほしい」と断られてしまったそうです。
「当時のことは忘れもしません。その日は朝から雪が降っていて、夜には吹雪になりました。気温はマイナス5℃。体が芯から冷え切って唇が青くなっている私を心配した守衛さんが、『あなたはどうしてそこまでするんだ?』と尋ねてきました。私は守衛さんの目を見ながら、『会社を立て直すために来たので、手ぶらでは帰れません。明日の朝までいさせてください』と懇願しました。守衛さんは仕事を終えて帰る時間だったようですが、気の毒に思ったのでしょう、担当者に連絡をして私と引き合わせてくれたんです」
現れた担当者に精いっぱいの熱意を伝えた結果、なんとかメッシュの取引にこぎつけることができた中河原さん。国内で二社目となるメッシュを専門に扱う企業として、マスクを開発することにしたそうです。
ギニア大統領からの感謝状を機に人生をマスクに賭けると決意
「新しい開発商品としてマスクを選んだのは、以前から一般的なマスクの構造に疑問を持っていたからです。マスクには細菌などの侵入や飛沫を防ぐ働きがあるといっても、それは布の部分だけです。口や鼻の周囲にできる隙間からの侵入については考えられていません。そこで私は、隙間が極力生まれないように、防御機能を強化したマスクを開発したんです」
新しく開発したマスクの売れ行きは好調で、業績が傾いていた会社の立て直しに一役買えたことがうれしかったという中河原さん。さらに、ある出来事がきっかけとなり、世界を舞台にしたマスクの開発を目指すようになります。当時、エボラ出血熱の流行によって大きな被害が出ていたギニア共和国にマスクを寄付したことで、当時大統領を務めていたアルファ・コンデ氏から感謝状を授与されたのです。大きな手応えを得た中河原さんは起業し、マスクに人生を賭けることにしたのです。
「立ち上げた自分の会社の強みを持つために〝世界一細かいメッシュ〟の開発に取り組むことにしました。世界中のメッシュを研究してきた私は、当時最も細かいとされていたメッシュの構造と製造技術を理解していました。そのメッシュを超える細かさを実現できれば、堂々と〝世界一細かいメッシュを作る企業〟と名乗れると思ったんです」
細かいメッシュを作るには、当然のことながら繊維を細くして網の目を小さくする必要があります。中河原さんの技術は、メッシュの上から圧力をかけて繊維を押しつぶすというもので、繊維の幅を広げることで網目を小さくしています。繊維が細すぎると圧力をかける段階で破れてしまうため、製造法の調整は繊細そのもの。中河原さんは試行錯誤を重ねることで、ついに世界一細かいメッシュの開発に成功したのです。その細かさは、0.1㍃㍍のウイルスをも遮断するほどで〝最密メッシュ〟と呼ばれるにふさわしいものです。
「最密メッシュの開発を完成させてから、細菌や飛沫を防ぐだけでなく、この技術を新たな方面でも役立てたいと思うようになりました。その一つが、さまざまな疾患の合併症や後遺症として起こる嗅覚障害の対策です。きっかけは以前、ギニア共和国でマスクを寄付した時にコンデ氏から聞いた話でした。当時のギニアでは、医療機関がエボラ出血熱の治療をするだけで手いっぱいで、その後に起こっていた後遺症の嗅覚障害まで対応が追いついていなかったそうです」
嗅覚障害の改善方法を探す中で、中河原さんがたどり着いたのがアロマオイル(精油)の活用。アロマオイルの芳香は脳の嗅覚を刺激し、機能の回復を促すとされています。以後、アロマオイルの研究を進めている時に、世界中で新型コロナウイルス感染症が流行したといいます。「新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、日本でも嗅覚障害に悩まされる人が増えてしまうかもしれない」と考えた中河原さんは、嗅覚障害の改善を目的としたマスクの開発を急いだそうです。
「マスクの開発が進んだのは、北海道で開催された日本機能性香料医学会で大会理事長を務めていた、医学博士の神保太樹先生の存在です。アロマオイルと認知症の関係に精通している神保先生に新しいマスクの構想について相談すると、『アロマオイルをマスクに組み込むのは効果的かもしれません』とおっしゃられて、協力をいただけることになったんです」
世界中で新型コロナウイルス感染症が蔓延するとともに、後遺症に関する問題が取り上げられるようになっていきます。程度の違いはあるものの、感染者の85.6%が嗅覚障害を合併し、嗅覚障害が完全に回復するのは3割程度という報告がされるようになる中、中河原さんは神保博士とともに嗅覚障害対策のマスクの開発に取り組むようになりました。
「あまりにも多くのアロマオイルを嗅ぎすぎたせいか、私が嗅覚に異常を感じるようになってしまったんです。実際に自分が嗅覚に異常を感じるようになったことで、現実に困っている方々の気持ちが少し理解できるようになりました。『困っている人のためにも、中途半端なものは作りたくない』という気持ちが強くなって、アロマオイルの最適な組み合わせの研究に没頭しました」
神保博士とさまざまなアロマオイルについて調査を重ねた中河原さん。完成したマスクは、医療機関と共同で行った試験で嗅覚障害に対する効果が証明され、2022年4月に「高性能フレグランスマスク」として発表しました。
「高性能フレグランスマスクが完成した時、すぐにギニアに連絡して寄付しました。マスクを完成させることができたのは、ギニアのコンデ氏の言葉があったから。なんとしても感謝の気持ちを伝えたかったんです。ギニアのほかには、過酷な状況にあるウクライナにも支援の一環として寄付しました」
中河原さんが開発した高性能フレグランスマスクは、神保博士との研究によって考案したアロマオイルの組み合わせをマイクロカプセルに閉じ込め、メッシュに浸透させています。マスクを着けて呼吸すると、空気中の水分に反応してマイクロカプセルから微量のアロマオイルの香りが出てくるため、嗅覚が刺激されて機能の回復が見込めるそうです。
「起業する時に考えていたのが『困っている人の役に立ちたい』という思いです。高性能フレグランスマスクを開発したことで、会社としてほんとうの一歩を踏み出せたと思います。今後もメイド・イン・ジャパンの最密メッシュ技術を生かして、世界中の医療・健康問題を解決する製品を開発していきます」