プレゼント

〝好い加減〟で笑っている——これがストレスのいなし方です

私の元気の秘訣

俳優 小倉 久寛さん

舞台や映画、ドラマだけではなく、声優やナレーターとしてもおなじみの俳優・小倉久寛さん。三宅裕司(みやけゆうじ)さん率いる劇団スーパー・エキセントリック・シアターでは最古参メンバーとして存在感を発揮するなど、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍ぶりです。まもなく古希(こき)を迎える小倉さんに、元気の秘訣(ひけつ)をお聞きしました。

清流でウナギを獲って弁当のおかずにしていた幼少期の思い出

[おぐら・ひさひろ]——1954年、三重県出身。1979年、三宅裕司さん率いる劇団スーパー・エキセントリック・シアターの旗揚げに参加。舞台を中心に映画・ドラマ・バラエティ出演をはじめ、声優・ナレーターとしても活動。毎年恒例の舞台は劇団本公演と熱海五郎一座。そのほか、主な客演舞台はテレビドラマ「寺内貫太郎一家」(TBS系列)、ミュージカル「狸御殿」「恋と音楽FINAL~時間劇場の奇跡~」、舞台「ローマの休日」「阿呆浪士」など。ギター、空手、小型船舶など多趣味なことでも知られる。

僕は三重県の度会(わたらい)紀勢(きせい)町(現・大紀(たいき)町)という町の生まれなのですが、これが大自然に囲まれた、ほんとうにすばらしい地域なんです。

生家の裏にはすぐ山があって、周りを田畑や清流が囲み、家屋も数10㍍ずつ離れて並んでいるので、非常にゆったりとした空間が広がっていました。都会に慣れた今振り返ってみると、自分は実に恵まれた環境で育ったんだなと実感させられます。

そんな環境だったので、少年時代の遊びといえば、もっぱら野山を駆け回ったり、川で魚を釣ったりといった自然を相手にしたものばかり。正確にいうと、魚を釣るよりもウナギを獲ることが多かったですね。当時の大紀町ではウナギがよく獲れたんです。

ウナギを獲るにはいろいろなやり方があるのですが、僕が得意だったのは、川に仕掛けを作る手法でした。川の中に石を積み、柳の葉っぱなどを重ね合わせてウナギの住処を作るというものです。そのまま一週間ほど放置しておくと、その中でウナギがくつろぎだすので、竹ひごに返しのある針を付け、ひょいと引っ掛けてウナギを引っ張り出すんです。ウナギは夜行性なので昼間のうちはおとなしく、わりとすんなり獲れるんですよ。

そして、ウナギを家に持って帰ると母親が上手にさばいてくれて、それがその日の晩ご飯や翌日の弁当のおかずになる。今のようにウナギが高騰している時代から見ると、なんともぜいたくで豪勢な話ですよね。

20年ほど前に一度、劇団の仲間を連れて大紀町に帰ったことがありました。その際、久しぶりにウナギを捕まえようと試みたものの、残念ながらもう影も形も見当たらず……。昔と比べて特に川が汚れたようには見えませんでしたが、これはちょっと寂しかったですね。

ちなみに、幼少の頃は俳優になりたいなんて考えは、まだ微塵(みじん)もありませんでした。僕の幼い頃は、力道山(りきどうざん)が活躍していた時代でしたから、実は将来はプロレスラーになりたいと大真面目に考えていたんです。

当時のプロレスは外国人レスラーがヒール(悪役)で、主役である力道山が最初はさんざんやられまくって、最後の最後に相手をやっつけるのが常でした。外国人レスラーはいつも反則三昧で、レフリーの目を盗んで凶器を使って力道山を痛めつけるのですが、それが子ども心に悔しくて悔しくて……。泣きながら「僕が大人になったらおまえたちをやっつけてやる!」と、本気で思っていたわけです。

そのため、小学生の頃から毎日欠かさず腹筋と腕立て伏せを続けていて、中学校に上がる頃にはおなかはパックリと六つに割れていました。一つのことを地道にコツコツ続けるのは、今も昔も得意なんです。

そんな僕が演技の世界を目指すことになったのは、完全に成り行きでしかありませんでした。というのも、そろそろ就職活動をしなければと考えはじめたタイミングで、オイルショックがあり、世の中はとてつもない不況に襲われたからです。

勤めたくても求人自体がほとんどない状況が続き、多くの学生が途方に暮れていました。まして、真面目に学業にいそしんでいなかった僕などは、入れてくれる会社は皆無(かいむ)といっていい状況でした。

卒業後の身の振り方に思い悩んでいたその頃、僕は中村雅俊(なかむらまさとし)さん主演の『俺たちの祭』(日本テレビ系列)というテレビドラマに夢中になっていました。これは沖縄で育った主人公が上京して劇団に入り、仲間たちと夢を追う様子を描いた青春群像劇です。

テレビで目にした青春群像劇にあこがれて劇団への入団を決意

まだ何者でもない若者たちが、稽古を終えて近くの酒場でわいわいやっている姿が印象的で、「どうせ就職活動もうまくいかないし、劇団に入ってみようかな」と考えたのがすべての始まりでした。

たまたま手にした雑誌で、「大江戸新喜劇(おおえどしんきげき)」という劇団の団員募集の告知を見た僕は、喜劇だったら自分にもやれるのではないかと、非常になめたことを考えます。にこにこしながらみんなで騒いでいればいいだろう、などと高をくくっていたのですから、無知とは恐ろしいものです。

ともあれ、まずはこの劇団の公演を実際に観てみることに。劇場は20人も入ればいっぱいになるような小さな小屋で、観客は履物をビニール袋に入れて持ち、地べたに座るスタイルでした。この時に主役を張っていたのが、後に僕の人生を大きく左右することになる三宅裕司(みやけゆうじ)さんです。

当然はまだ三宅さんも無名でしたが、すでにその演技力は出色で、観客はその一挙手一投足に大笑い。僕自身も一瞬で引き込まれてしまい、これはぜひともこの劇団に入れてもらいたいと、観劇後すぐに受付へ行って、「入団させてください」と直談判(じかだんぱん)しました。

しかし、小さな劇団とはいえ、それほど甘いものではありません。オーディションがあるから出直すようにといわれた僕は、オーディションというのがなんなのかも分からないまま、指定された日時にあらためて出直すことになります。

果たして、三宅さんを含む複数の審査員の前に立ち、「喜怒哀楽の感情表現をやってみて」とか、「これから流れる音楽に合わせてリズムを取ってみて」などと、いろいろなことをやらされることになるのですが、なにしろこちらはずぶの素人(しろうと)。悲しみを表現してみてといわれても、なにをどうしていいのかさっぱり分かりません。

無我夢中だったせいか、それとも軽くパニック状態に陥っていたせいなのか、その時自分がどのような演技をやって見せたのかは、まったく記憶にありません。

それでも合格することができたのは、おそらく受験者が僕を含めて二人しかいなかったからなのでしょう。僕が合格するくらいですから、当然もう一人の彼も合格していました。だったら公演の時にすんなり入れてくれればよかったのに……と思いましたよね(笑)。

そんな適当なスタートだったにもかかわらず、こうして半世紀近くも演技の世界で食べているわけですから、人生とは分からないものです。

なお、大江戸新喜劇に入団してから少しして、三宅さんが独立して「スーパー・エキセントリック・シアター」を立ち上げることになり、僕も大半のメンバーと一緒に移籍することにしました。その仲間というのが、先輩を含めて非常にいい人たちばかりで、おかげで僕は苦しい下積み時代というのを経験していないんです。

「仲間に恵まれていたおかげで、なにも苦になりませんでした」

もっとも、30歳くらいまではお芝居だけでは食べていけず、ずっとアルバイトをやっていたので、それが下積み期間といえばそうだったのかもしれません。でも、仲間に恵まれていたおかげで、なにも苦にならなかったですね。

これがもし、僕が小栗旬(おぐりしゅん)くんのような美貌に恵まれていたなら、早く演技の世界で身を立てたいとじれていたかもしれません。でも、現実はこの見てくれですからね(笑)。毎日楽しく仲間とお芝居がやれて、しかもバイト生活とはいえちゃんとご飯が食べられるのですから、これで文句をいっていては罰が当たると、本気で考えていました。特に20代の頃は、一時が万事、そうやって気楽に考えていました。

ただ、なんの下地もなかったので、演技の面ではやはり苦労しました。いや、僕よりも指導してくれる先輩方が大変だったはずです。なにしろ演技どころか人前でしゃべった経験すらないわけですから。まず視線がおぼつかないし、大きな声も出せません。

しかし、三宅さんはスパルタとは対極にある人で、僕のあまりのダメな演技に参ってしまった時でも、叱るのではなくギュッと抱き締めるのが常でした。「おまえ、もっと感情を高めてみろよ」とか、「気持ちを上げていこうぜ」などといいながら、包み込むように抱き締めてくれるんです。おかげで人並みに上達するまで、特に腐ることなく続けることができましたから、ほんとうにありがたいですよね。

いつか劇場を満員にしてお客さんに整理券を配るのが夢でした

「優れたお芝居というのは、お客さんの呼吸を一つにしてしまう力があるんです」

一方で、スーパー・エキセントリック・シアターは旗揚げからずっと、緩やかに右肩上がりで集客を伸ばしていきました。これも三宅さんという座長の実力とカリスマ性のなせる(わざ)でしょう。

旗揚げ当時の僕らの夢の一つに、劇場に足を運んでくれるお客さんに整理券を配る、というのがありました。そのくらいチケットが売れる人気劇団を目指そう、ということです。

実際には満員御礼なんてほど遠い時から勝手に整理券を作って配っていたんですけど、1年もするとほんとうに開演前から行列ができるようになり、その様子をかたわらから眺めるのは幸せなひと時でした。

ある時などは、定員100人の劇場に200人のお客さんが詰めかけてくれて、係員の人が「もうこれ以上入れません」と案内したら、「せめて音だけでも聞かせてほしい」と、扉を開けたままお芝居を始めたこともあったほどです。

そうした若かりし日を思い出しつつ、まもなく本番を迎える『熱海(あたみ)五郎一座(ごろういちざ)』では、三宅さんだけではなく伊東四朗(いとうしろう)さんという国宝級のレジェンドとご一緒できるわけですから、役者としてこれほど幸せなことはありません。いまだに本番前は緊張しますけど、それ以上に今年も楽しみでなりません。

伊東さんといえば、一つ今でも忘れられない思い出があります。

満員の客席から爆風のような笑いが……伊東さんとの貴重な体験

以前、ある舞台で伊東さんと二人だけのシーンを演じた時のことです。伊東さんがギャグを飛ばした瞬間、それまでおとなしかった満員の客席から、とてつもない爆風が舞台に向かって飛んできたのです。

最初はなにが起こったのか分からず戸惑いましたが、まるで示し合わせたかのようなタイミングで、一斉にどっと大きな笑いが起こったわけです。優れたお芝居というのは、お客さんの呼吸を一つにしてしまうのだということを、身をもって学んだ貴重な体験でした。

なので、今回の『熱海五郎一座』ではいったいどんな体験が待っているのか、想像すると年がいもなくワクワクしてしまいます。

だからもちろん、健康管理にも細心の注意を払わなければなりません。ありがたいことに僕はこれまで、大病や大ケガとは比較的無縁でやってきました。もしかすると、子どもの頃にプロレスラーを目指して体作りに励んだのが奏功しているのかもしれません(笑)。

「もともと冒険をしない性格なので、ストレスにさらされにくいのかもしれません」

でも、この年齢になってそれ以上に感じているのは、ストレスのいなし方が大切なのではないかということです。僕の場合でいうと、もともと冒険をしない性格なので、リスクやストレスにさらされる機会が少ないのが健康の秘訣なのではないかと思っているんです。

僕は自分のことをたいへんにいい加減な性格の持ち主だと解釈していますが、いい加減に生きるのって、時には重要なんですよ。実際、がんばりすぎないから、ストレスが少ないですね。

つまりは「いい加減」が「好い加減」というわけで、あまり自分を追い込むようなことはしないほうがいいと思います。

例えば、三宅さんなどはすごく責任感の強い人ですから、劇団員のことや次の公演のことを常に考え、思考を巡らせているはずです。でも、僕にはそういうことはできません。もし、そんな重責を背負わされたら、すぐにプレッシャーに押しつぶされてストレスを抱えてしまうでしょう。

だから僕は、三宅さんをはじめとする頼りになる仲間の隣で、〝好い加減〟で笑っているんで
す。こういう居場所が見つけられると、人生もらくですよ。皆さんもぜひ参考にしてみてください。