プレゼント

毎日の食事を心から楽しむ——声を大にして伝えたいことです

私の元気の秘訣

俳優 石田 純一さん

テレビドラマ『抱きしめたい』『君の瞳に恋してる!』をはじめ、数多くのトレンディドラマに出演し、一世を風靡(ふうび)してきた石田純一さん。古希(こき)を迎えた今も若々しさは健在で、2023年には千葉県船橋(ふなばし)市で新たに焼肉店をオープンするなど、活躍の幅を広げています。いつまでもエネルギーに満ちあふれる石田さんに、若さと元気の秘訣(ひけつ)をお聞きしました!

アメリカで幼少期を過ごし、日本に戻ってギャップを感じました

[いしだ・じゅんいち]——1954年、東京都出身。1978年、早稲田大学を中退後、「演劇集団 円」の演劇研究所の研究生となる。1979年、『あめりか物語』(NHK)でデビュー。1988年、『抱きしめたい!』(フジテレビ系列)を皮切りに数多くのトレンディドラマに出演し、バブル期を代表する俳優として一世を風靡。タレント活動を続けながら、2023年5月に千葉県船橋市に「炭火焼肉ジュンチャン」をオープンするなど実業家としても活躍。

僕は3歳から6歳までの3年間、父の仕事の都合で、アメリカで暮らしていたんです。物心ついたのがアメリカだったので、小学生になる頃に戻ってきた日本とのギャップには、少なからず戸惑いを感じました。

なにしろ僕は今年70歳ですから、幼少期といえばまだ戦後の名残(なごり)があった時代です。記憶の片隅からあの頃の表参道(おもてさんどう)青山(あおやま)の風景を手繰ってみると、二階建ての建物がたくさん並んでいるだけで、ビルなんて一つも見当たりませんでした。今でこそ多くの人でにぎわうあの界隈(かいわい)も、当時は単なる住宅街。青山通りにしてもただの商店街で、空がとても広く見えたのを覚えています。

それに比べて、アメリカで住んでいたワシントンの街は、当時から見上げるような高層ビルがいくつも林立していました。人々の暮らしぶりもまったく異なっていて、多くのアメリカ人が緑豊かな庭がある豪邸でリッチな暮らしをしていたのに対し、日本では長屋のような家があちこちにありました。

3時のおやつにしても、向こうではミルクやビスケットなどが定番でしたが、日本では駄菓子(だがし)ぐらい。着色料で彩られたゼリーやらキャンディーになじみがなかったので、最初のうちはなんだか不気味に思えたものです。子ども心にも、こんなに国の力に差がありながら、よく戦争なんてやったものだと感心させられました。

そんな幼少期、僕には将来の夢が二つありました。一つはプロ野球選手。そして、もう一つは映画監督です。

当時は毎日のように読売(よみうり)ジャイアンツの試合がテレビで流れていて、東京の小学生ならクラス全員が巨人(きょじん)ファンというのが当たり前。しかし僕は、帰国直後に短期間ながら関西にいた時期があるせいか、一人だけ阪神(はんしん)ファンで、クラスの中で孤軍奮闘(こぐんふんとう)していたんです。

当時の巨人軍はとにかく図抜けて強く、どの球団と戦っても、まるでプロと高校生が試合をしているように見えるくらい、相手を圧倒していました。

「いつか自分が阪神に入団して巨人をやっつけるんだ」などと考えていたかどうか、今となっては定かではありませんが、僕は野球部に入って練習に明け暮れていました。高校時代には東京で唯一野球連盟から表彰を受けたこともあります。そのおかげで、大学野球の名門である慶應義塾(けいおうぎじゅく)大学からもお誘いがありました。

でも、実にくだらないことですが、その頃、慶應のヤツに彼女を取られてしまったことがあり、反骨心から早稲田(わせだ)へ行くことにしたんです(笑)。

もしあの時、慶應や立教(りっきょう)に進んでいたらそのまま野球部に入り、その後はプロとはいわないまでも、社会人野球を経て会社員をやっていたかもしれませんね。

一方、父親が大の映画好きだった影響で、幼い頃から映画をたくさん見てきました。ジョン・フォードやオーソン・ウェルズ、あるいは黒澤明(くろさわあきら)溝口健二(みぞぐちけんじ)といった監督の作品に傾倒し、小学校高学年の頃には、「野球選手になれなかったら、映画の世界へ進もう」などと考えていました。この頃は、制作でも演者でも、映画業界に関われるならなんでもよかったように思います。

『抱きしめたい!』や『同・級・生』など数々の人気作品に出演しました

大学で野球の道を断念したことで、僕の中でがぜん、芝居の世界への興味が高まりました。在学中、親に無理をいって、演出を学ぶために再びアメリカにも渡りました。

ところが、いざ卒業後の進路を考える頃になると、父親は芸能の世界へ進むことに猛反対。「そんなに甘いものじゃないぞ」と、取り付く島もありません。しかし、ほかにやりたい仕事は思いつかず、僕は一瞬、途方に暮れてしまいました。

僕にとって追い風だったのは、オイルショックが起こったことです。世の中が一気に不況に陥り、就職しようにもほとんど求人がない状況が続きました。そのため、どうせ就職先がないのであれば、自分の好きなことをやるだけだ、と開き直るしかなかったんです。

せっかちな僕は、父の苦言も顧みずに、残りわずかな大学生活を投げ出して早稲田を中退。「演劇集団 (えん)」という劇団の演劇研究所の研究生になりました。ここで勉強して演出家になり、ひとまずCM制作でもなんでもこなしていれば、将来的には映画を撮る機会が巡ってくるかもしれない——という目論見(もくろみ)でした。

そこからは夜な夜な皿洗いや道路工事のアルバイトをこなしながら、劇場に寝泊まりして稽古を重ねる日々。これが僕にとっての、いわゆる下積み時代に当たるのでしょう。

それでも、新人時代から自分で戯曲を書いて積極的に小公演をやっていたので、我ながら出世は早かったように思います。ほどなく研究生から劇団員に上がるぐらいのところまできました。さらに、黒澤明監督の黒澤組のオーディションに行くようになると、状況が少しずつ変わりはじめます。

NHKが秋の特番として制作する四夜連続放送のドラマ『あめりか物語』で、僕は日系三世の役に収まりました。英語を話せることが条件だったので、アメリカ育ちの僕は有利だったわけです。

果たして、このドラマが放映されるとすぐに、木下惠介(きのしたけいすけ)監督から声がかかり、翌年には『父よ母よ!』という映画への出演が決まります。ほかにも順調に仕事が舞い込みはじめ、アルバイトをしなくてもなんとかご飯が食べられるようになりました。

トレンディ俳優として一世を風靡した石田さん

もっとも、ほんとうの意味で売れるまでには、まだここから10年ほどの辛抱が必要でした。一般的に僕の出世作とされるドラマ『抱きしめたい!』(フジテレビ系列)に出演した時、僕は34歳になっていましたからね。意外に思われるかもしれませんが、けっこう遅咲きの部類なんです。

ともあれ、これ以降、ほんとうに多くの作品に出させていただきました。例えば、安田成美(やすだなるみ)さんと共演した『同・級・生』(フジテレビ系列)や、今井美樹(いまいみき)さんと共演した『想い出にかわるまで』(TBS系列)などは、今でも多くの人たちから「見ていましたよ」と声をかけてもらえるのだからありがたいことです。

俳優という仕事の面白いところは、自分の演技に対する世間の評価がリアルに感じられる点にあると僕は考えています。自分の演じた役が、見た人にウケたのか、それともウケなかったのか、一挙手一投足に関してその場で答えが出ます。

もちろん、作品や演技が批判されるのはつらいです。その代わり、褒められたり高い評価が得られたりすると、ものすごくうれしいんですよ。そして、高評価が続いていくと、いつの間にか予想もしなかったポジションにいることがある——これはハイリスク・ハイリターンといっていいかもしれません。30代半ば以降の僕が、まさにそれでした。

多忙を極めていたので、ブレイクしてからは当然、眠る時間も満足にありませんでした。今日まであまり大病することがなかったのは、たまたまのラッキーにすぎません。

「夢さえ持っていれば、それが原動力になり、エネルギーになるんです」

また、こうして人前に出る仕事ですから、めちゃくちゃにたたかれたり、悪意にさらされたりするようなことだってあります。僕の場合は人一倍そういうのを経験してきました(笑)。

それでも俳優という仕事に夢も希望も持っていたし、その先に未来があるから、心が折れることはありませんでした。ちょっとキザないい方をすると、夢さえ持っていれば、それが原動力になり、エネルギーになるということを、これまで身をもって経験してきました。

だから逆に、夢や希望を失ってしまうと人は、まるでスイッチが切れたように意気消沈してしまうんです。結果、心身を病むことにもつながります。

その点、僕は根が楽天的だったので、なかなか日の目を見ることができずにいた最初の10年も、「このまま売れなかったらどうしよう」とはまったく考えませんでした。もちろん、学生時代の同級生たちが名のある大企業に就職してバリバリ働いているのを見て、焦ることはありました。でも、一生懸命やっていればたいていのことはいつかかなえられるはずだと、根拠なく信じていられたのは大きかったと思います。だからこそ、その時、その時の目の前のことに楽しみながら取り組めたし、途中でくじけることもなかったんです。

そもそも、売れようが売れまいがほんとうに一生懸命やっていれば、落ち込んでいる暇などないですからね。細かいことはあまり気にしすぎずに、「そのうちになんとかなるさ」と心をらくにしてやることも大切ではないでしょうか。

70歳目前で船橋に焼肉店を開業する挑戦をした理由とは?

だから僕自身、70歳手前で新たに焼肉店を始めることにも、なんの迷いもありませんでした。多くの人はそこで、「この年齢になって立ち仕事なんてできるわけがない」とか、「いつまで体が動くか分からないから」とか、先のことを考えて新たなチャレンジを諦めてしまいますよね。でも、それでは楽しくないし、なにも生まれないじゃないですか。

今、目の前にあること、今、この生活を全力で楽しむことが、なによりのアンチエイジングに通じるのだと僕は確信しています。

「なぜその歳で焼肉店を始めようと思ったんですか」と、ありとあらゆる人から聞かれました。理由はシンプルで、いろいろあって仕事が減って、貯蓄がどんどん減っていく状況に置かれて、このままジリ貧のまま耐えつづけるのではなく、自分から打って出るしかないと感じたからです。計算上、1年後には資産のすべてがなくなってしまうところまで追い込まれていましたからね。だったら、座して待つより残りのお金で新しいことをやったほうがいいと考えたわけです。

なぜ千葉県船橋(ふなばし)市で焼肉店をやろうと思ったのかといえば、お酒を楽しむ人がおおぜいいる印象が強い街だったからです。飲食店はフードよりもドリンクのもうけが大きいということはよく知られていますが、このあたりはもう直感ですよね。船橋の街って昼間から酒を飲んで酔っ払っている人もおおぜいいて、楽しいムードがあったので、ここで新しいお店を開けばまたいろいろな出会いがありそうだなと感じたんです。

「今日はどんなお客さんにお会いできるかなとワクワクしています」

それに、僕は大の焼肉好きですから、肉に関しては良し悪しが多少分かります。そういう下地を生かしながら、いい生産者さんからいい肉を仕入れて、それを楽しみながら食べてもらう場を作る——そうイメージしてみたら、なんとなく勝ち筋が見えたんです。

実際、オープンからそろそろ1年になりますけど、連日ほんとうに多くのお客さんに来ていただいています。僕も毎日のように店に立っていますけど、これが心から楽しいんですよ。これまで一度も「今日は店に行くのがおっくうだな」と思ったことはなく、むしろ「今日はどんなお客さんにお会いできるかな」とワクワクしています。

(なんじ)とは汝の食べた物なり」なんていわれたりしますが、人間は自分の食べた物で構成されています。それだけ食べ物というのは美容や健康を作るうえで重要。自分もそこにはかなりこだわりを持ってきましたから、今こうして食に携わる仕事ができているのも、なんだか運命的だと感じています。

病気や体調不良に関しては、僕は医者ではありませんから、どんな薬や治療法がいい、なんてことはいえません。でも、毎日の食事を心から楽しむ経験が、健康の(みなもと)になるということをぜひ声を大にしていっておきたいです。

なにもうちへ来て焼肉を食べてほしいというわけではないですよ(笑)。せっかく日本に生まれたのだから、四季折々の旬の物を和食で楽しむのでも十分だと思います。

すべての食材は、旬の時期に最も高い栄養価を持っています。僕が普段、ほとんど風邪をひくことがないのも、口から摂取する物を大切にし、また、それを楽しんでいるからだと思います。

それになにより、おいしい物を食べていれば、ささいなストレスなど吹っ飛んでしまいます。人生なんて、そのくらいお気楽に構えていていいのではないでしょうか。少なくとも僕はそう信じています。

『炭火焼肉 ジュンチャン』

●OPEN:17:00~22:30(L.O.21:45)
●CLOSED:月曜日・第2第4日曜日
●住所:千葉県船橋市本町5-6-10 アミティエ船橋駅前1階
●アクセス:JR船橋駅から徒歩2分
●問い合わせ先:☎050-5593-2988