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ゲームを通してコミュニケーションが生まれる——これがなによりの健康法だと思います

私の元気の秘訣

ゲームプレゼンター 高橋名人

家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」の黎明期(れいめいき)にメディアに登場した高橋名人。脅威の「16連射」を武器にゲームの腕前を披露(ひろう)する姿は、1980年代から90年代にかけての子どもたちを夢中にさせました。当時勤務していたゲーム会社を離れた今も、ゲームに関わるさまざまな領域で活躍中の高橋名人に、元気の秘訣(ひけつ)をお聞きしました!

札幌の少年時代はスーパーのアルバイトに明け暮れていました

[たかはし・めいじん]——1959年、北海道生まれ。本名・高橋利幸(たかはしとしゆき)。1982年、株式会社ハドソン入社。1985年、第1回全国ファミコンキャラバンで高橋名人の称号を確立。以後ハドソン全国キャラバンを中心に各種イベント、TVなどでゲーム名人として活躍。高橋名人ブームを巻き起こし、「16連射」「ゲームは1日1時間」などの流行語も生む。著書に『高橋名人のゲームは1日1時間』(エンターブレイン)などがある。

私は1959年の生まれですから、小学生の頃はまだ、テレビゲームなんて影も形もありませんでした。

覚えていらっしゃる方もいるかもしれませんが、日本で初めて登場した家庭用テレビゲーム機は1975年にエポック社から発売された「テレビテニス」で、これは私が高校生の時のこと。だから、小学校時代は、ゲームらしいゲームといえば、デパートの屋上やスーパーマーケットの片隅に置かれているピンボールくらい。後は夏祭りの出店でパチンコをして少し遊んだ程度の記憶しかありません。今のように家庭のテレビで遊べるゲームなんて、遠い未来の存在だったんです。

そんな環境でしたから、休みの日になにをして遊んでいたのかといえば、もっぱら山登りや川遊びばかり。生まれ育った札幌市郊外の三角山(さんかくやま)というきれいな三角の稜線(りょうせん)を描く山には、多い時は週に4日くらい登っているほどでした。だから、まさか将来こうしてゲームに関わる仕事をするなんて、想像もしていなかったですね。

意外に思われるかもしれませんが、そんな否が応でも足腰が鍛えられる生活をしていたおかげで、私は学校の中でもスポーツの得意な子どもで、中学時代は陸上部に入っていました。それから、北海道出身の松山千春(まつやまちはる)さんの影響でフォークソング部に入ったりもして、それなりに活発な少年時代を送っていたんです。

勉強はあまり好きではなかったので、高校卒業後は地元の短大に進んだものの、スーパーマーケットでのアルバイトに明け暮れていました。

担当は青果部。毎日朝8時に出勤して、そのまま夜の20時までぶっ通して働く日々でしたが、それがまったく苦にならなかったのは、野菜を取り扱うのがすごく新鮮な体験だったからでしょう。

初めはホウレンソウとコマツナの区別すらつかなかった私ですが、アルバイトを通して少しずつ野菜のことを知るようになり、「野菜って一生付き合っていく大切なものだ!」と気づかされたんです。それからは、野菜に対する関心が高まって、青果部の仕事にのめり込みました。もともと生家が金物店でしたから、客商売に慣れていたのも大きかったでしょう。

そんなある日のこと、日本初のコンビニエンスストア「セブン‒イレブン」が近所に出店し、大きな話題を集めます。それまでは20時にはたいていの店が閉店するのが普通でしたから、23時まで買い物ができるというのは画期的だったんです。

このインパクトを受けて、うちのスーパーも営業時間を22時まで延長することになりました。おかげで、私もさらに長時間働かなければならなくなりましたが、これはさほど悪い話ではありませんでした。というのも、当時の昼間の時給が260円だったのに対し、18時以降は500円に倍増、さらに21時から22時の間は700円にまで上がったからです。これは働くしかありません。

お金欲しさに、というわけではないのですが、あまりによく働くので、月収が17万円に達したこともありました。大卒初任給が8万円とか9万円の時代ですから、これはなかなかの収入です。

どの道、将来は金物店を継ぐことになるのだろうと高をくくっていたので、気兼ねなくアルバイトに精を出していたものですから(笑)、短大のほうは結局、3ヵ月ほどで中退しました。

そのうち、スーパーのほうから「正社員にならないか」とお声がかかります。深く考えることなく、いわれるままに登用された私ですが、すぐに「だまされた!」と気づきます。なぜなら、それまでアルバイト代で15万円以上もらっていたのが、月給8万9000円にまで下がってしまったからです。会社にうまいことしてやられたわけです(笑)。

パソコン業界に縁がありファミコンの登場でゲーム黎明期に立ち会う

「近未来的なコンピューターに強い憧れを持っていたんです」

さて、ゲームとの接点がどこで生まれるのかというと、きっかけはパソコンでした。

正社員となって青果部の主任に昇格した1980年。私は毎日の煩わしい伝票整理や在庫管理を効率化しようと、シャープから発売されたばかりの「MZ-80B」というパソコンを個人で購入する決意をします。

当時のパソコンは今のように分かりやすいものではなく、操作するにはかなり専門的な知識が必要でした。それでも、ウルトラマンの科学特捜隊が使っていた近未来的なコンピューターに強い憧れを持っていた私は、「MZ-80B」にちゅうちょなく飛びつきました。

価格は近所のマイコンショップで28万8000円。実に給料3ヵ月分以上です。さらに、伝票を打ち出すためのプリンターがおよそ10万円。21歳の私はトータルでけっこうな金額のローンを抱えることになりました。

大枚をはたいてパソコンを購入してみたものの、実はどこをどういじればいいのかさえ分かりません。身近にパソコンについて教えてくれるような人は皆無(かいむ)で、このままでは無用の長物になりかねず、「これではいけない」と札幌市内のパソコンショップに相談に行くことにしました。この時に訪ねたのが、後にゲーム会社として有名になるハドソンでした。

札幌発祥のハドソンはもともと、アマチュア無線やパソコンソフトを取り扱っていて、プログラミング言語をカセットで売り出した、日本で初めての会社でもあります。

店頭にはパソコンに詳しいスタッフがそろっていたので、自然と私も出入りする機会が多くなり、そのうちゲームを購入して自宅のパソコンで遊ぶようになりました。ゲームが身近になったのがこの時期です。

やがて、知人がハドソンの入社試験を受けに行くというので、興味本位で私も一緒に面接を受けることになりました。このあたりはまったく深い意図もなく、興味本位の行動としかいいようがありません。

結果、知人は落ちて私が合格。これを機に私はスーパーマーケットを辞め、まだゲーム業界というよりはパソコン業界の一角だったハドソンに入社することになりました。これが1982年の夏のことです。

なお、任天堂(にんてんどう)からファミリーコンピュータが発売されたのは、その翌年の1983年7月。ほぼ同時期にハドソンはファミコンへの参入を決め、1984年には「ロードランナー」や「ナッツ&ミルク」といった後の人気タイトルをリリースし、これがファミコンそのものの隆盛に伴って、いずれも爆発的なヒットを記録します。

会社もファミコン市場に重点を置くようになり、第三弾、第四弾と次々に新たなゲームを開発。中にはユーザーから酷評されたタイトルもありましたが、それでも50万本近く売れているのですから、売上的には大成功です。

おかげで、あれよあれよという間に売り上げが増えていき、会社はどんどん大きくなっていきましたが、この時期は正直、なにが起こっているのか、よく理解できていませんでした。なにしろ入社当時の売上は16億円ほどだったのが、3年後の1985年には200億円を優に超えていましたから、そのダイナミズムがお分かりいただけるでしょう。

リリースするゲームが片っ端から社会現象的なブームを生んでいたので、それも当然かもしれません。

ゲームイベントのステージプログラムの一環で「高橋名人」が誕生

また、『月刊コロコロコミック』(小学館)という漫画雑誌と連携することで、さらに多くの子どもたちの支持を受けるようになります。

『月刊コロコロコミック』と組んだイベントで、上司から突然、「おい高橋(たかはし)、会場で1時間だけステージをやれることになったから、なにか考えてみろ」と命じられました。

あまりに唐突な指名で、なにをやればいいのか悩みましたが、今やゲーム会社として認知されたハドソンとしては、自社ゲームのデモンストレーションをやるのが無難です。当時人気だったゲームタイトルのデモをステージで行ったところ、これが大盛況。

ちょっとした異変が起こったのは、その後です。会場に集まっていた1000人のうち、およそ200人がイベント終了後も帰らず会場に居残って、私に「サインをしてほしい」とねだるんです。

私は単なる会社員ですから、当然サインなんてしたことがありません。しかたなく「高橋利幸(としゆき)」と自分の名前を書いてその場をしのいだのですが、この盛況ぶりに気をよくした会社役員たちの意向で、「ハドソン全国キャラバン」が決まります。これは全国を巡業するゲーム大会で、おのずと私の出番も増えることになり、「高橋名人」と呼ばれるようになったのもこの頃からです。

「ハドソン全国キャラバン」の当時の写真。大盛況で高橋名人と呼ばれるようになる

子どもたちの前で実際にゲームをプレイして見せるのが私の役割だったので、初期の「高橋名人」とは、ゲームの達人というよりも、新作タイトルの道先案内人の色合いが強かったように思います。

ただ、集まった子どもたちよりは高い点数を出さなければ格好がつきませんから、それなりに練習しておかなければなりません。その成果としてある日、イベントの壇上でシューティングゲームの早撃ち連打を披露(ひろう)したところ、それが1秒間に16連射もしていると話題になり、そのまま私の代名詞になりました。

定期的に手のストレッチをすればゲームは老化防止にうってつけです

「独立という選択を取らなかったのは、心身の健康を守る、私なりの自衛策でした」

これ以降、タレントのようにテレビ番組に出たりCMに出たり、生活は一変。多忙な毎日を送ることになりますが、立場としてはあくまで会社員のまま。あまりの人気ぶりから、ゲームタレントとして独立をすすめる声もありましたが、私は結局、ハドソンが他社に吸収合併されるまで、会社員の立場を守りつづけました。

なぜなら、1980年代後半には年間で200本ものファミコンソフトがリリースされていましたから、もしフリーの立場になったら、少なくとも数十本、あるいは100本以上のゲームに常時精通していなければなりません。それではとても体が持たないでしょう。

その点、ハドソンの社員でいるうちは、ハドソンのゲームだけ特訓しておけばいいので、自分のペースをある程度守ることができます。つまり、独立という選択を取らなかったのは、心身の健康を守る、私なりの自衛策だったわけです。

そんな私もはや、65歳になりました。幸い、幼い頃に野山で鍛えられたおかげなのか、今日まであまり病気などすることなく、元気に過ごすことができています。

一つだけ気になるのは、脂肪肝です。かれこれ20年近く医師から「()せなさい」といわれていますが、体質的なものなのか、どうにもなりません。

でも、タバコはもう30年も前にやめていますし、今ではお酒もほどほど。大好きな激辛料理にしても、塩分が多くて血圧を上げてしまうタバスコは避け、一味トウガラシを使うといったように気をつけています。

ゲームというとどうしても、インドアで不健康な印象を持つ人が多いと思います。実際、長時間にわたってゲームのコントローラーを握りつづけることは、私もおすすめしません。パソコンやスマートフォンも同様ですが、人は同じ姿勢を長く維持すると、その形にこり固まってしまいます。読者の皆さんは、ぜひゲーム好きなお孫さんに、「30分に一度は手のストレッチをするように」とアドバイスしてあげてください。

その点にさえ気をつけていれば、指を小刻みに動かすゲームは、老化防止にうってつけです。なにより、ゲームを通してお孫さんや家族とコミュニケーションが生まれるなら、それがなによりの健康法につながるのではないでしょうか。

人生もゲームも健やかに、そして末永く楽しんでいただきたいですね。