俳優 三浦 浩一さん
いつも変わらない爽やかさで幅広い役柄を演じている、俳優の三浦浩一さん。映画やドラマ、そして舞台にと、縦横無尽に活躍する三浦さんですが、そのエネルギーの源はいったいなにか? 古希を過ぎた現在も、ますます精力的な活動を続ける三浦さんに元気の秘訣を伺いました。
伝説のスターであるジェームズ・ディーンに憧れ、俳優を目指しました
私は一人っ子だったせいか、もともとは大の恥ずかしがり屋なんです。小学生の時も日直が回ってくると、皆の前でなにかをやらなければならないのが憂鬱で、前の晩から緊張して眠れなくなってしまうような子どもでした。だから、こうして人前で演技をする仕事に就くなんて、おそらく周囲は誰一人として想像していなかったと思いますよ(笑)。
ただ、当時からお笑いやコメディが大好きで、クラスメートの前で三遊亭歌奴さんの落語のモノマネをすることもありました。「山のあな、あな、あな」 というフレーズ、記憶に残っている人も多いのでは? 人一倍シャイなくせに、このモノマネで友だちが笑ってくれることに、ちょっとした快感を覚えていたものです。
ちなみに、生まれは九州の鹿児島県。でも、当時の記憶はあまりなくて、3歳の時には父の転勤で東京へ移っています。そして、そのまま中学2年生まで東京で暮らし、3年生から今度は岐阜県へ。
なんだか慌ただしい少年時代ではありますが、多感な年頃を過ごした岐阜で、今にして思えば大きな出合いを得ることになります。駅前の映画館で見た、ジェームズ・ディーンの作品です。
『エデンの東』や『理由なき反抗』といった作品をリバイバル上映で見て、僕も夢中になりました。そして、これが銀幕の世界に憧れを持つきっかけになるのです。
といっても、これは特別なことではなく、僕の世代はジェームズ・ディーンに憧れた子どもがそれこそ山のようにいました。しかし、ジェームズ・ディーンはほんのわずかな作品を残して、すでに24歳の若さでこの世を去ってしまっていました。
具体的には名作『ジャイアンツ』の撮影終了から1週間後、自動車事故で絶命するのですが、そんなあまりにも悲しい運命も含めて、当時の存在感はとにかく圧倒的でした。
とにかく、ジェームズ・ディーンに心酔していた僕は、高校へ進学するつもりはなく、一刻も早く俳優になろうと決意します。しかし当然、親が許すわけもなく、「俳優になんてなれるわけがないだろう」「高校くらいはちゃんと出ておきなさい」とけんもほろろの状態でした。
高校進学の選択肢など微塵も考えていなかった僕としては、まるで勉強をしていなかったので困ってしまいます。そこでせめて、高校というのがどんなところなのか、下見だけでもしてみようと出かけたのが、地元の長良高等学校でした。
実際に訪れてみると、長良高校はその名のとおり長良川のすぐほとりにあって、近くには金華山や岐阜城を望む、素晴らしいロケーションの中に建っていました。ひなびた校舎はボロいけれど、その古さがまた魅力的なたたずまいを醸し出していて、現金なことに、僕はひと目で「よし、この高校へ行こう」とその気になってしまいました。
でも正直なところ、僕の成績では厳しいものがありました。担任の先生からも、「三浦君の実力ではちょっと厳しいんじゃないか。滑り止めの私立校もちゃんと受けなさい」と忠告されてしまいました。しかしそれでも、どの道ほかの高校なら行く気がなかったので、僕は長良高校以外の学校は受けませんでした。
すると、ここで誰もが驚く奇跡が起こって、僕はなぜかすんなり長良高校に合格してしまったんです。自分でもびっくりしましたが、それなりに受験勉強をがんばっていたんでしょうね。
演劇部に入るつもりが剣道部でみっちり鍛えられた3年間
そんな感じでスタートした高校生活なので、僕は俳優になる下地作りとして、演劇部に入るつもりでいました。
しかし、僕は中学時代、剣道部に所属していました。実は長良高校の剣道部の顧問は、全国大会で2位になったこともある有名な先生で、僕自身も中学時代にテレビで見たことのある実力者でした。そこで、僕は「あの人に指導してもらえるなら、このチャンスを逃す手はない」とあっさり翻意し、剣道部を選ぶことに……。
でも、これは長い目で見れば正解だったのだと思います。尊敬する先生、そして先輩方に心技体をみっちり鍛えてもらったことは、その後、俳優としてやっていくにあたって、間違いなく礎になっていると感じます。
それだけ高校時代はしっかり剣道に打ち込んでいて、正直なところほかの思い出はほとんど記憶にないほどです。
高校3年生になってからは、実家が名古屋へ引っ越すことになりましたが、僕は岐阜まで長い時間をかけて通学しました。剣道部では主将になっていたので責任感が芽生えたのか、皆勤賞でした。
そして、高校を卒業したら、今度こそ東京へ出て本格的に俳優を目指してがんばるつもりでいたのですが、またしても親の猛反対に合い、僕は大学進学を目指さざるをえなくなります。
しかし、このままでは堂々巡りで、いつまでも自分の夢に近づくことはできません。そこで、いろいろ調べてみたところ、日本大学芸術学部には、映画学科や演劇学科が存在することを知りました。
高校選びの時とまったく同じシチュエーションですが、「行くならここしかない」と直感で思いました。狙いを定めて受験勉強をして、僕はどうにか、日本大学芸術学部の映画学科に進むことになります。
そして、ダンスや日舞などの授業に明け暮れているうちに2年生に上がり、少なくとも高校時代よりは目標である俳優の世界に近づくことができたかなと思いはじめた頃、名古屋の父親からこんな電話がかかってきました。
「いいか、驚かずに聞きなさい。お母さんは胃がんが進行していて、今日、医者にあと2ヵ月の命だといわれたよ」
これはまさに晴天の霹靂で、とにかく唖然とするばかり。兎にも角にも、母親のもとに駆けつけようとしたところ、父はダメだといいます。母にはがんだと知らせていないため、「急に帰ってきたら、本人に気づかれてしまうかもしれない」というのがその理由でした。
それでも居ても立っても居られなかった僕は、「ちょっと時間があったから帰ってきたよ」と、できるだけ平静を装いながら、たびたび母のもとを訪ねるようにしました。
結局、母が逝ったのは医者の宣告どおり、父の電話からちょうど2ヵ月後のことでした。最期は病床の母の手を握りながら、「僕は絶対に夢をかなえて俳優になるから」と約束したのを覚えています。
これは自分に対する決意表明でもありました。しかし、このまま4年生まで過ごして卒業しても、俳優になれる保証などありません。だったら、今すぐすべてをなげうって俳優になる努力をすべきではないか——そう気持ちを新たにしました。
ふとしたきっかけでミュージカル俳優の道に進みました
大学を中退してからは、ひたすらアルバイトをして食いぶちを稼ぎながら、いくつかの俳優養成所に通って勉強する日々が続きました。
しかし、養成所でいくらか学んだところで、俳優としてのデビューが約束されるわけではありません。むしろ、バイトに精を出していても、お金がたまるたびにそれを養成所に費やすことを繰り返すばかりの日々に、少々疑問を感じるようにもなりました。そのため、ひと頃は虚無感から養成所に行くことすらせず、単なるフリーターのように生きていました。
転機が訪れたのは、新宿でバーテンダーとして働いていた時のことでした。
当時の日本はバーボンブームで、猫も杓子もバーボンばかり飲んでいて、僕が働いていた店も連日大忙し。ある日、開店準備を終えて一息つきながら、おもむろに『毎日新聞』の夕刊を広げたところ、そこに東京キッドブラザースという劇団のオーディションの告知記事が載っているのを見つけました。
東京キッドブラザースという劇団の名は、聞き及んでいました。僕が高校生の頃、ニューヨークのオフ・オフ・ブロードウェイで『ゴールデン・バット』というミュージカルを上演し、大きな話題になったことがあるからです。
実際に東京キッドブラザースの舞台を見た経験があったわけではないのですが、もしこの劇団に入ることができたら、自分も世界を股にかける俳優になれるかもしれない——そんな期待感がありました。
矢も盾もたまらずこの募集に飛びついた僕は、果たしてこのオーディションに合格し、晴れて劇団の一員として舞台で活動を始めることになります。
ほんとうは映画の世界を目指していたはずなのに、まさかミュージカルの世界へ進むことになるとは、夢にも思っていませんでした。でも、おかげで劇団主宰の東由多加さんと出会うことができ、さまざまな経験を積ませてもらいながら、こうして俳優として生きていく道につながっていたのですから、運命とは分からないものですよね。
実際、東京キッドブラザースは僕にとって、非常に居心地のいい場所でした。東由多加さんの「アメリカのように、役者が毎日芝居をやって、ちゃんと演技で食べていける場所を作りたい」という思いから、新宿区新大久保に「シアター365」という小さな劇場を作ったのが、1978年のこと。もとは居酒屋だった小さな地下のテナントを、柴田恭兵さんなど当時のメンバーみんなで作ったちょっとおしゃれな小屋でしたが、僕らはそこで毎日芝居をやることができました。
演目は3ヵ月ごとに変わるので、上演と次の作品の稽古を同時進行しなければならず、それなりに大変ではありましたが、とても充実した日々でした。
そのうち、僕らの舞台が話題になり、テレビ業界の人の目にも触れるようになり、そこから御縁が生まれて僕はNHKドラマに抜擢されることになりました。こうしてメジャーデビューにつながったのも、東京キッドブラザースという居場所があったからこそですよね。
代表作を聞かれても答えられる作品がないのが僕の悩みでした
東京キッドブラザースに所属したおかげで、どうにか俳優として生計を立てられるようになってから、まもなく半世紀がたとうとしています。しかし、これまでのキャリアにおいて、自分にとっての代表作はなにかと聞かれても、答えられる作品がないのが僕の悩みでした。
もちろん、一つひとつの仕事には真摯に全力で向き合ってきましたが、いまだにどれがほんとうに僕らしい役柄なのか、心の奥底からピンとくるものが見つけられずにいたんです。
ところが、70歳を迎えた今になって、映画『ぴっぱらん‼』でちょっと面白い役をいただきました。
非常にテンポのいいヒューマンバイオレンス映画で、僕は元ヤクザの政治家役を演じています。エンディングも爽やかで、誰もが続編を期待したくなるような仕上がりになっているので、ぜひ劇場に足を運んでみてください。もしかすると、僕にとってこれが代表作というべき作品になるのかもしれません。
それにしても、70歳になってもこの仕事を続けていられるのは、ほんとうにありがたいことです。幸い体も健康で、これは日頃からたくさん歩くことを意識してきた賜物だと思います。
人間というのはたいてい怠け者で、サボろうと思えばいくらでもサボれてしまうものです。そうなると、体を動かすことも栄養面に配慮することも、いつのまにかおろそかになってしまいます。
最近、特に感じるのは、体だけではなく心も元気でなければいけないということです。ちょっと前にテレビで、百歳でまだ商売をやっていて、趣味の麻雀や絵画をばんばんやるおばあちゃんが紹介されていましたが、いくつになってもたくさん趣味があるからこそ、心も体も元気でいられるのでしょうね。
かくいう僕自身も、新たにタップダンスを始めてみようかと思っているんです。こうして新たにやりたいことが尽きないうちは、僕もまだまだ大丈夫でしょう(笑)。
こういう心の糧は、なんでもいいのだと思います。好きなものを食べるのでも、米国メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手のホームランを楽しみにするのでも、とにかく生き生きとした気持ちでいられるものをこれからも大切にしていきたいですね。