プレゼント

身の回りのさまざまなことに好奇心を持つことが大切です

私の元気の秘訣

俳優 原田 大二郎さん

数々の映画やドラマに出演するかたわら、母校・明治(めいじ)大学の特別(しょう)(へい)教授として朗読を指導するなど、多彩な才能を発揮する原田大二郎さん。現在も旺盛(おうせい)なチャレンジ精神は健在で、年齢を感じさせない活躍を見せつづけています。そんな原田さんの原動力はいったい何か? 健康と元気の秘訣(ひけつ)をお聞きしました!

高校生になって知った生みの親と育ての親が異なる衝撃の事実

[はらだ・だいじろう]——1944年生まれ。神奈川県横浜市出身。明治大学法学部卒業後、劇団文学座へ入座。1970年に映画『裸の十九才』でデビューし、エランドール新人賞を受賞。以降、舞台や映画、テレビを中心に、大らかな人柄と演技で実力派俳優として活躍。俳優のみならずタレントとしても数多くの番組に出演している。拉致劇『めぐみへの誓い』で、毎年地方公演を続けながら、朗読指導や演出にも着手し、後進の育成に尽力。朗読会、講演、さし絵、エッセイスト、書籍の執筆など、現在も多彩な才能を発揮している。

僕は1944年4月、横浜の生まれなのですが、まだ物心もついていない頃に見た鶴見(つるみ)の空襲を、実像として記憶しているんです。

正確には20年前、イラク戦争の報道で、バクダッドの高射砲が光を放射している光景をニュースで見ていて、突然脳裏(のうり)によみがえったのです。「ああ、自分はこの風景を見たことがあるぞ」と。

鶴見の海が文字通り火の海となって、高射砲の曳光弾(えいこうだん)が美しく打ち上がる。その上空を戦略爆撃機のB‐29が、地上からのサーチライトに機体を輝かせながら何機も何機も不気味に飛ぶ。その時、そばにいた女性から「大ちゃん、危ないから防空壕(ぼうくうごう)に入りなさい!」と腕を取られて真っ暗な壕内に引っ張り込まれた。子ども心に迫力満点の光景が珍しくて、もう少し見ていたかったなと、のんきなことを考えていたのを思い出したんです。

記憶の光景は、1945年の東京大空襲なんですね。1歳の誕生日の頃の記憶ですから、いい加減なものです。それでも間違いなく戦時中の体験として覚えている。終戦直後に米軍が、まず横浜に上陸してね。ブルドーザーで根岸(ねぎし)競馬場(横浜競馬場)をぶっ壊して、住宅地区を作った。その時の米兵とのやり取りも鮮明に記憶に残っている。1歳と4ヵ月。記憶ってものは、すごいね。

2歳になると終戦の翌年です。僕は山口県の伯父に引き取られることになります。伯父は子宝に恵まれませんでしたが、疎開した僕の兄姉の面倒を見た経験があり、どうしても子育てがしたい、と僕の父に相談したんだそうです。おふくろは「義兄さんのことは、尊敬していますが、そればかりは!」と大反対。

それなのに、あろうことか、「いいですよ、兄さん。どれでも好きなの、連れて行ってください」と、僕の直上の姉を含む4人の子どもたちを差し出したのです。そして選ばれたのが僕。いわゆる養子縁組ですが、今では考えられないことですよね。

「一歳の頃の記憶ですが、間違いなく戦時中の体験として覚えているんです」

ただしこの時、うちの両親は伯父に条件を付けたんだそうです。1年後、僕が3歳になった頃に山口へ会いに行きましょう。本人が「横浜へ帰りたい」といったら連れ戻します、というものでした。ところが、1年たって再会してみると、生みの親を捕まえて「おじちゃん、おじちゃん」と呼ぶんだそうです。義父、義母がその1年、筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたく、僕のわがままを許したのだといいます。記憶の不思議ですね。

そんな僕が真相を知ることになるのは、高校進学の時でした。持たされた戸籍謄本(こせきとうほん)の封がなぜか開いていたので、何げなく中をのぞいたら、思いもよらぬ事実に直面したわけです。これはびっくりしましたよね。完全にほんとうの両親だと思っていたから。

一体どういうことなのか問い詰めなきゃと、帰宅して親父(おやじ)のところへすっ飛んで行ったのですが、穏やかに背中を丸めて釣りざおの手入れをしている親父を見た瞬間、何もいえなくなってしまいました。親には親の事情があったのだろうし、ここまで育ててもらったことに感謝しなければいけないな、と。おかげで非行に走ることもありませんでした。

大学で演じた英語劇で演技の快感に目覚め役者の道を目指すことに

そんな僕ですが、高校を卒業すると明治大学法学部へ進むことになり、再び横浜の家で暮らすようになります。

大学では高校時代から所属していたESS(英会話クラブ)への入会を決めました。すると2年生の頃、大学対抗の英語劇のキャストとして僕に白羽の矢が立ちます。これが演劇との出合いでした。

しかし、当時はまさか役者の道へ進むとはみじんも思わず、英語力を生かして石油の元売り会社か商社へ進み、世界を股にかけたビジネスマンになりたいと真剣に考えていました。

だから、先輩から英語劇に出ろといわれた際は、絶対に嫌だと拒否したのですが、「おまえしかいない」と5時間もかけて口説(くど)かれ、渋々引き受けたんです。背が高く、適度にバタ臭い顔をして声の大きい僕が、演出をする彼には舞台映えするように見えたんでしょうね。

この時に演じることになったのは、エウリピデスという、古代ギリシアの悲劇詩人が作った『メディア』という戯曲の英語版でした。本番まで半年近くもひたすら台本を読み込み、自分の役柄やセリフを頭にたたき込み、出演者全員で稽古(けいこ)をする日々が続きます。夏休みも、毎日。朝から、晩まで。

するとある日突然、役のほうで、すっと降りてくるのが感じられました。いうなれば、もう一人の自分が、演技指導者として自分の後ろについているような感覚で、「もっと手を伸ばせ!」「ここは観客に伝わりやすいように、ゆっくり話しなさい」「それ、ここで畳み込め!」などと、逐一演技指導してくるのです。これは今思い返しても不思議な感覚でした。

そして、その自分の内部の演出家の指図通りに動くと、僕の所作によって周囲に作品の世界観が生まれる——これは得もいわれぬ快感でした。

それは見ていた人にも伝わるものがあったようで、稽古が終わると、舞台上にいる僕のところに先輩がすっ飛んできて、泣きながら握手を求めてくるのです。

この時、僕は演技によって人を感動させることのすばらしさをはっきりと自覚しました。芝居を見ている人にとっては、事実の上に現れてくる真実よりも、虚構の積み重ねによって作られた真実のほうが、強い説得力を持つのです。

演劇というものは生涯を賭して研究するに値する人生のテーマだと痛感しました。本腰を入れて役者を目指す決意が固まったのです。

山口の両親は、せっかく大学まで行ったのにと、この選択には猛反対でした。盆暮れなどに僕が帰省するのに合わせて、子どもの頃から付き合いのある先輩連中に「どうにか思い直すよう説得してほしい」と頼んで回っていたほどです。

それでも僕の決意は固くてねぇ。大学卒業後には劇団の文学座に入座しました。正直、自分は入座してすぐに頭角を現し、トントン拍子に売れっ子俳優になれるものと、自信満々でした。しかしもちろん、これは大きな勘違い。

人気ドラマに出演するもみずからの意向で降板し一転不遇の時期へ……

文学座に入ったからといって、すぐに稼げるわけではありません。演技だけで食べていけるのはごく一部の俳優だけ。大半がアルバイトで生計を立てるか、親のすねをかじるしかないのが実情でした。

僕の場合はというと、大学時代から付き合っていた今の奥さんが、ずいぶん助けてくれました。彼女は東京で実家暮らしをしていたので、生活費がそれほどかからなかったのでね。

だからといってアルバイトをするのは、当時の俳優希望者には、当たり前のことでね。みんな、働いていましたよ。僕も、すし屋さん、ウナギ屋さん、キャバレーのボーイ、ボウリング場のピン洗い、証券会社・建設会社のタイピスト、鉄道の給水係など、ありとあらゆる仕事を経験しました。

三畳のアパートに3000円の家賃で暮らし、生活費は月に1万5000円ほどでしたね。本もよく読みました。映画も見た。芝居もね。

役者として大きな転機を迎えたのは、入座から3年後のことでした。実際に起こった連続射殺事件の犯人を描いた映画『裸の十九才』の主役の座が回ってきたんです。幸い、この時の演技が高く評価され、新人賞をいただいたことから、僕はほどなく演技だけで食べていけるようになりました。

仕事は順調そのもの。1975年にはテレビドラマ『Gメン’75』に関屋一郎(せきやいちろう)という警部補の役で出演し、僕の名前はいよいよ全国区になります。

「当時は役者の道へ進むとはみじんも思っていませんでした」

この作品をやって、あまりの過酷な労働条件で、ついに肉体より精神が参って僕はノイローゼ(神経症)になります。結局、僕自身の意向によって自ら降板を申し出たんだけど、「おまえの(じゅん)(しょく)シーンを撮るから、台本できるまで待っていてくれ」といわれて、北海道旅行に出かけます。

北海道にある()(しゅう)()を訪れ、霧が晴れていくのを見ながら、さっきまで自分がノイローゼだったと分かるんです。おかげで、それからはどんなことが起こってもあわてることがありません。かなり、平然と状況を受け入れることができるようになりましたね。

あれほどの人気ドラマをみずから降りたのだから、しばらくはどこも相手にしてくれないだろうと覚悟はしていましたが、幸いにして次々に出演オファーが舞い込みました。1978年に『()(ぎゅう)(じゅう)兵衛(べい)』で主役をやった後から、来る話がいずれも二番手、三番手の役どころ。すっかり調子に乗っていた僕は、「もう少し待てば主演の話が来るだろう」と、これらのオファーを断りつづけました。立てつづけに6件の企画を断ったところ、それ以降、ぱたりとオファーがなくなってしまいました。

次に来た話には是が非でも飛びつきたいと思っていましたが、待てど暮らせど仕事の話はありません。『Gメン’75』を自分から降りて5年目。結局、1年間、まったく仕事はできませんでした。それを気の毒に思ってか、当時の担当マネージャーが毎晩やってきて、囲碁(いご)を教えてくれました。

その結果、1年の間にアマチュア初段に到達。「今までそんな人はいません」と日本棋院(にほんきいん)の人が驚いていました。「輝いていれば、仕事はいずれ来る」と思っているから、「輝け、輝け」と自分にいい聞かせながら、碁盤とにらめっこ。自分が物に驚かなくなったのも、囲碁のおかげが非常にあります。

僕の元気の秘訣は挑戦する気持ちを忘れないことです

その後は幸い、少しずつオファーが舞い込みはじめ、一つひとつの仕事を堅実にこなしたのもよかったのでしょう。役者としての生活が戻ってきました。

そして『蒲田行進(かまたこうしん)(きょく)』『敦煌(とんこう)』など、節目節目の作品からも、多くのことを学ばせてもらいました。今振り返ってみると、ほんとうの意味で演技のことが少し理解できるようになったのは、還暦を過ぎてからでしょうね。

その過程では、たくさんケガもしました。両太ももの(けん)(しょう)(えん)も大変だったし、演技中のアクシデントでひざの皿が割れたり、肋骨(ろつ こつ)を骨折して息ができなくなったりしたこともあります。

演技中に落馬して脛骨(けいこつ)(すねの骨)を粉砕骨折した時には、その後の3年は飛んだり走ったりすることができず、仕事をこなすうえで非常に苦心しました。ケガ自体は治っていても、心のどこかでストッパーがかかり、どうしても高台から飛び降りるシーンがこなせなかったんです。これは人間の体がいかに心に支配されているかを思い知らされる出来事でしたね。

それでも、こうして後期高齢者と呼ばれる年齢になっても、どうにか元気にやっています。いえ、元気どころか、まだまだ新しいことにもどんどんチャレンジしていきたいと思っているんです。

具体的には、今度、自分で訳した脚本をベースに、初めて舞台の演出を務めることが決まっています。ESS仕込みの語学と、これまでの舞台経験を存分に生かすことができるはずですから、すごく楽しみにしているんです。

夜型で不規則な毎日を送っている割に元気な僕ですが、数年前にはCOPD(シーオーピーディー)慢性閉塞性肺疾患(まんせいへいそくせいはいしっかん))と判明し、肺が6割くらいしか機能していないことが分かりました。おそらくタバコの吸いすぎが原因で、60歳でタバコはやめたのに70歳になって障害が出てくるんです。当時は毎日、当たり前のように3箱以上も吸っていましたから。

医師からは「原田さん、あなたは6割の肺で生きています。すでに3割は壊死(えし)してしまった。残る1割をどうにか回復させようとがんばっていますが……」といわれています。ま、6割でも、一応人並みの肺活量はあるでしょう。

基本的には楽天的な性格なので、肺のことも昨今の新型コロナウイルス感染症も、過度に不安視はしていません。いろいろなことにあまり目くじらを立てすぎず、嫌なことがあってもさっさと忘れてしまうのがいちばんの健康の秘訣でしょう。実際、やたらめったら健康に気を使いすぎている人ほど病気になるというのは、この世代にありがちなことじゃないですか。

そして、身の回りのさまざまなことに好奇心を持ち、新しい体験にも積極的にチャレンジしつづけることが大切です。何かに熱中していれば、不安要素なんて視界には入りませんから。

僕もまだまだやりたいことがたくさんありますから、この先しばらくはチャレンジしつづけるつもりです。繰り返しになりますが、人の体は心が支配していますから、そんな心持ちを忘れずにがんばっていきたいと思います。