プレゼント

無残な死に方だけはしてはいけないと思うんです

私の元気の秘訣

俳優 奥田 瑛二さん

1970年代に日活映画『もっとしなやかに もっとしたたかに』で頭角を現して以来、長く第一線で活躍しつづけてきた俳優の奥田瑛二さん。50歳を過ぎてから映画監督デビューを果たし、現在は俳優業のかたわら「奥田塾」を主宰して後進の指導にあたっています。

70歳になったいまもエネルギッシュに活躍する奥田さんの、元気の秘訣をお聞きしました。

『丹下左膳』に衝撃を受け俳優を目指して体づくりを始めました

[おくだ・えいじ]——1950年、愛知県出身。幼少の頃より俳優を志し、モデルを経てデビュー。1979年、『もっとしなやかに もっとしたたかに』で主役に抜擢され、頭角を現す。1985年、『海と毒薬』で毎日映画コンクール男優主演賞受賞。1989年、『千利休 本覺坊遺文』で日本アカデミー主演男優賞。1994年、『棒の哀しみ』でキネマ旬報映画賞、ブルーリボン賞など8つの主演男優賞を受賞。2001年、『少女~an adolescent』を初監督し、第17回パリ映画祭、第16回AFI映画祭でグランプリを受賞。2006年、『長い散歩』は第30回モントリオール世界映画祭グランプリ・国際批評家連盟賞・エキュメニック賞の三冠を受賞。

僕が俳優を目指すことになったのは、小学校5年生のときに見た『(たん)()()(ぜん)』がきっかけでした。主演の(おお)(とも)(りゅう)()(ろう)さんがとにかくかっこよくて、子ども心に衝撃を受けたんです。(せき)(がん)(せき)(わん)ながら(すご)(うで)の剣士で、醸し出す豪胆な雰囲気がたまらなく新鮮でどぎもを抜かれました。

それ以来、寝ても覚めても大友柳太朗さんの姿が脳裏から離れなくなり、いつしか自分も丹下左膳のように銀幕の中で活躍したいと思うようになりました。

当時、俳優になるためには背が高くなければならないというイメージがありました。ところが、当時の僕はクラスの中で下から二番目のちびっこ。そこでまず体を大きくしなければならないと考えて、中学校では野球部に、高校ではラグビー部に入りました。

さらに、いま振り返ればなんとも涙ぐましい努力ですが、足元をタイヤのチューブでベッドに固定する〝伸身器〟というのを自作して、毎日頭のほうから引っ張って、無理やり背を伸ばそうとがんばっていました(笑)。

それがどれだけ効果があったのかは定かではありませんが、結果的に高校3年間で20㌢も身長が伸びましたから、あながち無駄ではなかったのかもしれません。親兄弟の中でも僕だけが突出して大きいですから、遺伝を踏まえればこれは快挙といっていいと思います!

おかげで毎晩、眠っている最中に骨がギシギシときしみ、ひどい痛みに悩まされることになりました。いわゆる成長痛というやつで、急激な成長に体がついていかなかったんですね。

僕は愛知県春日(かすが)()市の生まれで、生家は氷の卸問屋さんを営み、父は市議会議員をやっていました。高校卒業が近づいてくると、進路について考えることになりますが、僕としてはどうしても東京へ出て俳優の道を目指したい。しかし、時代も時代でしたから、そんなことは間違っても親にはいえません。父は「どうせ家業を継ぐのだから、名古屋の大学へ行けばいい」と考えているようだったので、なおさらでした。

そこであるとき、「将来は政治家になりたいので、東京で勉強させてほしい」と父に直談判したんです。そして、「25歳で市会議員になり、40歳で県会議員になり、45歳で国会議員を目指したい」と、心にもないプランを語って父を説得しました。

結果的にこれを父は受け入れてくれ、僕は晴れて東京行きを実現させることになります。しかし、誤算だったのは、父が地元出身の国会議員に話をつけ、住み込みの書生として働く算段をつけてしまったことでした。東京に出てさえしまえばなんとかなると考えていただけに、思わず頭を抱えたものです。

ただ、学業と議員秘書を両立する日々は、思っていたよりも有意義なものでした。勉強する気などさらさらなかった僕にしてみれば、ちょうどその頃、学生運動が激化して学校がロックアウトされてしまったのも都合がよかったといえるでしょう。授業は軒並み休講で、課題さえ提出すれば単位がもらえましたから、これはらくでよかったですね。おかげで最初の二年間は、特に秘書として選挙活動の手伝いに専念する毎日でした。

僕はまだ選挙権も持っていない18歳でしたが、街頭演説の際にはマイクを持ってスピーチを任されることもありました。話す内容を即興で考えて先生をアピールし、口調やリズムなど自分なりに工夫しながら改善を重ねる。人前で表現するという意味では、これはその後の俳優業にも生きる経験だったと思います。

妻の安藤和津とはホームレス同然の時代に出会ったんです

しかし、得るものが多い反面、続ければ続けるほど、自分の中で「この生活をこのまま続けていると勘違いしてしまい、いつしか俳優になる夢がおざなりになってしまうのではないか」と危機感が芽生えはじめました。議員会館では、しばしば事務次官や局長クラスの人物が先生を訪ねてやって来るのですが、彼らは年端もいかない自分に対しても丁重な態度で対応してくれます。それも先生の威光があればこそですが、まるで自分が(ひと)(かど)の人物になったように錯覚してしまうのです。

何より、選挙活動が落ち着いている時期には、大学の演劇部の活動に参加することもありましたが、満足に映画を見る時間さえ取れないのは困りものです。これではどちらが本分なのか分かりません。

結局、僕は悩んだ末に秘書の仕事を辞め、受け入れてくれる劇団を探しはじめます。ところが、タイミングが悪かったのか、どこも入団試験すら受けさせてくれず、俳優になる足がかりすらつかめません。

どうしたものかと途方に暮れていたところ、高校の先輩に俳優の(あま)()(しげる)さんがいたことを思い出しました。どうにか弟子入りさせてもらえないかと、何度も天知さんの自宅に通って頼み込み、熱意が認められて付き人になることができました。これは自分にとって大きな足がかりで、実際にこの時期は、端役でいくつかの映画にも出演させてもらうことができました。

それでも、やはり甘い世界ではありません。天知さんのもとにはほかにも数名の弟子がいましたが、いっこうに芽が出る様子のない彼らを見ていると将来が不安になり、僕は夜逃げ同然に飛び出してしまったのです。

その後はしばらく、夜の仕事で食いつなぐことになりました。(ろっ)(ぽん)()のスナックで給仕をしたり、弾き語りをしたりして、日銭を稼ぎながら俳優として仕事のオファーがあるのを待っていたんです。

もちろん、仕事の話などまったくありません。六本木という場所がら、いつも深夜にやって来るホステスさんたちの相手をするのはそれなりに楽しい日々でしたが、1年たっても二年たっても、やっぱり俳優としてのオファーはなく、自分はいったい何のために東京へ来たのかと焦りが募るばかりでした。

そのうち、知人の紹介でモデル事務所に籍を置くようになって1年が過ぎた頃、突然、テレビCMの出演オファーが舞い込みました。当時売り出し中だった(やく)()(まる)ひろ()さんとの共演で、僕は彼女の憧れの男性という役どころでした。

やはりテレビの影響力は絶大で、この仕事を機に、次々に依頼が殺到するようになりました。オーディションも連戦連勝で、僕はそれまでの生活がウソのように、売れっ子モデルになったのです。

しかし、そんな生活も長くは続きませんでした。モデルとして一定の実績を作ったことで自信をつけた僕は、「今後は俳優業に専念します」と事務所を退所することにしたのです。

ほんとうのどん底の時代は、この後です。元モデルですから、幸い自分のポートレートには困りません。僕はかたっぱしから芸能事務所に売り込んで回りました。

そこでご縁のあった事務所に所属し、すぐに子ども向けの特撮ドラマで主役をやらせてもらうことになったのは幸先のいいスタートでしたが、これがその後、思わぬ足かせになります。子どもに人気の役者というイメージが先行してしまい、自分が本来目指している大人向けのドラマや映画のオーディションにはことごとく落ちてしまうのです。

たまに、ちょい役で映画やドラマに出演させてもらうことはあっても、食べていくには程遠い状況が4年ほど続きます。これは僕の人生における最も不遇の時期で、ついにはアパートの家賃を滞納し、追い出されてしまいました。

当初は友達の家を転々としてしのいでいましたが、いつまでも他人の家にやっかいになるわけにもいかず、ついには()()()公園の片隅で寝泊まりする、ホームレス同然の生活を送るはめに……。

このとき、僕の全財産はポケットに入っていた50円玉が1つだけ。この50円が自分にとって最後のよりどころで、これを使ってしまったらいよいよ浮浪者になってしまうと、最後の一線を引いていたのです。

そんな生活の中で出会ったのが、いまの妻である(あん)(どう)()()でした。友人に「会費は出してやるから」と連れて行かれたパーティーで彼女と出会い、トントン拍子に結婚に至るのですから、人のご縁というのは分からないものですよね。もっとも、彼女のほうは、「この青年をどうにかしてあげなければ」と救い出すような心境だったそうですが。

やりたいことは山積みで50歳になってから映画監督になりました

50歳で映画監督を始め、第30回モントリオール世界映画祭グランプリ・国際批評家連盟賞・エキュメニック賞の三冠を受賞

その後もしばらくは俳優としては鳴かず飛ばずの状態が続きましたが、転機となったのはある日、事務所でたまたま目にした1冊の台本でした。なんとなくぱらぱらと目を通しはじめたところ、そこに描かれている主人公がどうしても他人とは思えず、「これは自分が演じるべき役柄だ」と強く感じたのです。

そこで監督宛に「この主人公はまさしく僕です。ぜひ自分に演じさせてください」と手紙を書いたのがきっかけで、僕はなんと、主役に(ばっ)(てき)されることに。これが(にっ)(かつ)の『もっとしなやかに もっとしたたかに』という作品でした。

幸い、この作品での演技が評価されてからは、順調に仕事のオファーをいただけるようになりました。時間はかかりましたが、それ以降、こうしていまも仕事をさせてもらえているのは、ほんとうにありがたいことだと身にしみています。

もう70歳ですから、年齢のことを考えないわけではありません。でも、やりたいことはまだまだ山積みで、例えば50歳を過ぎてから映画監督にチャレンジしたり、若い世代に芝居の魅力を伝えるために「(おく)()(じゅく)」を主宰したりといった活動もその1つでした。

そうして新しいことを始めるときというのは、46歳の頃の自分に戻ってしまっている感覚があります。なぜ46歳なのかというと、僕にとってはブルーリボン賞をはじめ、合計8つもの賞をいただいた、最も勢いがある時期だからなんです。やりたいことを見つけ、それに向けて夢中になっていると、いつの間にか46歳のときの自分に戻ってしまっているんです。もっとも、常に鏡を見ているわけではないですし、年齢なんて忘れてしまうくらいがちょうどいいのかもしれませんね。

生への執着は十人十色で自分なりの答えを見つけてほしいですね

一方で、作品を通して自分の死に際について考えさせられることだってあります。まもなく公開される映画『痛くない死に方』では、僕は原作者がモデルの在宅医を演じているのですが、これも「生きるとは何か?」を熟考するいいきっかけでした。

末期のがん患者にとって、病院のベッドで体中に管をつけながらギリギリまで延命するのが、果たしてベストな選択なのか。逆に、延命治療を拒否し、病にあらがうことなく自宅でみとられることがベストなのか。もちろん、答えは人それぞれ異なるに違いありません。

ただ、僕の場合はこの撮影を通して、「無残な死に方だけはしてはいけない」という、1つの結論にたどりつきました。

「生きるとは食べることで、人生を捨てていない証です」

生物にとって、生きるというのは食べることです。なぜなら、食べることはエネルギーを摂取することで、つまりは人生を捨てていない証です。点滴で受動的に栄養をとりつづけるのは、ただ臓器を生かしているのにすぎず、人が人として生きることとは異なるでしょう。単に心臓を動かすための治療になってしまうなら、それはやっぱり無残であるというのが僕の考え方です。

もっとも、生への執着の形は(じゅう)(にん)()(いろ)ですから、異論もたくさんあるはずです。でも、大切なのは一人ひとりがちゃんと考え、自分なりの答えを持つことであり、今回の『痛くない死に方』が、それを考えるきっかけになればうれしいですね。家族とも、いまのうちから大いに話し合っておくべきでしょう。

そして若い人たちにはぜひ、「自分の人生の始末をどうつけるか」という視点を、いまのうちから持っておいてほしい。今回の作品に、僕はそんなメッセージをこめたつもりです。