プレゼント

チャレンジ精神を忘れない——それが心の元気につながるはずです

私の元気の秘訣

俳優 佐藤B作さん

数々の舞台や映画、テレビドラマで半世紀にわたって熱演を続け、ファンを魅了してきた俳優の佐藤B作さん。常に気さくで明るいイメージの持ち主ですが、実は過去には大病を経験したことも……。まもなく舞台『陽気な幽霊ゆうれい』の本番を迎えるB作さんに、元気のをお聞きしました!

生まれ育った飯坂温泉は100人の芸者さんでにぎわう大歓楽街でした

[さとう・びーさく]——1949年、福島県生まれ。1973年、劇団東京ヴォードヴィルショー結成。「日本の喜劇」にこだわった公演活動を続けながら、2023年に創立50周年を迎える。結成以来、座長を務める。舞台出演は、劇団本公演のほか、『サンシャイン・ボーイズ』『ヘンリー四世』など多数。第21回紀伊國屋演劇賞個人賞、第29回読売演劇大賞優秀男優賞、第45回松尾芸能賞優秀賞などを受賞。

僕は小学校4年生の時に演劇部に入部しているのですが、だからといって幼い頃から俳優を目指していたわけではないんです。いつも一緒に遊んでいた魚屋さんのケンちゃんが演劇部に入るというので、「じゃあ僕も」とくっついて行っただけなんです。

ケンちゃんは走るのが速くてかっこいいお兄さんだったんですよ。女の子からもすごく人気があって、彼のまねっこをしていれば自分もモテるんじゃないかと思い込んだんです(笑)。なにしろ当時の僕は「演劇」という言葉の意味すら理解していませんでしたからね。

演劇部には6年生まで在籍していましたが、そんなふらちな目的だったからか、毎日怒られてばかりで全然面白いと思えなかったですね。顧問の先生がとにかく厳しい人で、「違う、そうじゃないだろ」と怒鳴られ、居残り練習をさせられた思い出しかありません。

そんな僕が生まれ育ったのは、福島市にある飯坂いいざか温泉という温泉街でした。東北でも指折りの古い歴史を持つ温泉で、今でこそちょっと寂しくなってしまいましたが、当時は芸者さんを100人くらい抱える大歓楽街だったんです。特に秋のお祭りには、芸者さんだけで1つのお神輿みこしを担いだりして、それはもうすごい盛り上がりでした。

幼少期の僕は、勉強が好きな子どもであった反面、友だちをたくさん集めて連れ立って遊びに行くような、活発な一面も持っていました。相撲すもうを取ったり、チャンバラごっこをしたり、缶蹴りをしたり……。

温泉街なので、街のあちこちに温泉の公衆浴場があり、毎朝ひとっ風呂ぷろ浴びてから学校へ行くという、今にして思えばすごくぜいたくな生活を送っていました。でも、当時は自宅に風呂がついている家なんて、ほとんどなかったので、それが当たり前だったんです。

そんな温泉街での生活は楽しかったですが、やっぱり田舎いなかの子どもなので、ずっと都会への憧れがありました。陳腐ちんぷに聞こえるかもしれないけれど、将来は東京でバリバリ働いて、世界を股にかけるビジネスマンになりたいと、本気で考えていました。

幼なじみの中には実際に商社マンになってそういう生活を送るようになった人もいます。でも、高度経済成長期の名残なごりがあった時代ですから、かなり大変だったみたいですね。たまに田舎で顔を合わせると、ひどいチェーンスモーカーになっていて、とてつもないストレスを抱えていることがよく伝わってきました。うっかりあっちの世界へ進まなくてよかったと、ホッとしたものです。

福島市内の高校を卒業すると、上京して早稲田わせだ大学に通うことになりました。この大学時代に再び演劇の世界と関わるようになります。

高校生の頃はとにかく勉強一辺倒で、ろくに遊びもせず、恋愛の1つも経験していなかったものですから、大学に入学すると遊びに夢中になりました。人並みに女の子と遊びたいとか、朝まで酒を飲んだくれたいとか、とにかく勉強から離れたくてしかたがなかったんです。受験勉強をがんばりすぎた反動だったのでしょうね。

毎日朝まで新宿しんじゅく歌舞伎かぶきちょうにあるジャズ喫茶で時間をつぶす生活を楽しみながら、やっぱり根が生真面目きまじめなのか、心のどこか奥のほうに後ろめたさも感じていました。決して裕福ではない両親が毎月3万円も仕送りをしてくれているのに、自分は授業にも出ずになにをやっているのか、と。

大学生活を無駄にしないため、なにかやらなければいけない! そう焦るなかで、なぜか心を引かれたのが演劇でした。

理由は今でもまったく思い出すことができません。なにか影響を受けた映画があるわけではないし、まして舞台なんて一度も見たことがありませんでした。

なにかに導かれるように早稲田の劇団『木霊こだま』に飛び込んでみると、これが小学生の時とは打って変わって、すごく楽しかったんです。

「かっこいいお兄さんのまねっこをしていれば自分もモテるんじゃないかと思い込んだんです」

朝、みんなのたまり場になっている喫茶店にふらりと集まって、コーヒーを飲んだら稽古場けいこばへ向かい、先輩から大道具や小道具の作り方を教わります。そして、夕方になると先輩方の稽古を見学して、その後は高田馬場たかだのばばの街へ飲みに行く。相変わらず授業に出ない毎日でしたが、高校時代に経験できなかった青春を、一気に取り返している気分でした。カラオケスナックで先輩がえげつない春歌しゅんかを歌うのを聞きながら、みんなでゲラゲラ笑っていたのを、昨日のことのように思い出します。

僕はやはり東北の人間ですから、東京出身の連中と比べると、どこかうぶな大学生でした。一方、同じ1年生でも東京出身の人は、高校時代から遊んでいるからなのか、女性の扱い1つを見ていてもすごく洗練されている印象がありました。彼らが上手に女の子をエスコートして飲んでいる店から消えていくのを、いつも指をくわえて眺めていたものです。

演技を将来の職業として意識するようになったのは、大学一年生の時に劇団で開かれたオーディションがきっかけでした。小山祐士こやまゆうしさんの『泰山木たいざんぼくの木の下で』という戯曲ぎきょくを公演するにあたり、ある役柄について30人ほどいる同期の中から選ばれたんです。

演技を認められて褒めてもらえることがうれしかったんです

1年生とはいえかなり達者な劇団員がたくさんいましたから、まったく自信がなかったのですが、なぜか僕が選ばれました。これには本人もびっくりです。逆に、いつもうらやましく見ていた遊び慣れた東京出身の同期が、ほんのひと言だけの端役はやくでしたから、ちょっと溜飲りゅういんを下げる思いでしたよね(笑)。

あとで先輩に聞いてみると、「佐藤の演技はナイーブでよかった」のだそうです。もっとも、当時はその「ナイーブ」という言葉の意味すら分かっていませんでしたけど……。

でも、この体験は僕にとって非常に大きくて、こうして人に認められ、褒めてもらえることが、すごくうれしかったのを覚えています。

僕ら団塊だんかいの世代は子どもの数が多いので、勉強でもスポーツでも競争させられるばかりでした。だからこそ、こうして頭ひとつ抜けられたことが、人一倍うれしかったのかもしれません。大げさかもしれませんが、自分が生まれてきた価値を確認できたような、そんな気分でした。

ただし、言葉にどうしても東北なまりがあるので、その後の稽古ではとても苦労しました。自分では標準語で話しているつもりなのに、微妙にアクセントが違っているようで、なかなかスムーズに演技ができません。

NHKが出していたアクセント辞典を買ってきて必死に勉強したものの、言葉というのはつながってフレーズになるとアクセントの位置が変わることがあります。こうなるともう、田舎者にはお手上げで、しかたがないので東京出身の遊び上手な同期に頭を下げて、教えてもらうしかありませんでした。

でも結局、こういう染みついたものはどうやっても直らないですね。最後はもう嫌になってしまい、自分らしくこのままの話し方でいいやと開き直りました。

すると、逆にそこからいろいろな役をもらえるようになり、どんどん芝居の世界にのめり込んでいきます。あれが役者としての個性を認めてもらえた瞬間だったのかもしれません。

まもなく本番を迎える舞台『陽気な幽霊』では女房と夫婦役を演じます

そうして演技の勉強を続けながら、結局、大学は中退することになりました。その後は、他所の劇団の裏方をやったり、自分たちで『東京ヴォードヴィルショー』という劇団を立ち上げたり、いろいろなことに取り組んでいるうちに出会ったのが、萩本欽一はぎもときんいちさんです。

きっかけは東京ヴォードヴィルショーの団員だった山口良一やまぐちりょういちが『きんドン!』(フジテレビ系列)という当時の人気番組のレギュラーに抜擢ばってきされたことでした。

その山口が「萩本欽一さんにあいさつしてほしい」というので、萩本さんに会いにテレビ局へ行ったら、どういうわけか気に入ってもらえて、「今度、TBSで新しい番組が始まるから、リハーサルにおいで」と呼んでいただいたんです。

それが『欽ちゃんの週刊欽曜日』(TBS系列)という番組で、これがきっかけで顔と名前が売れて、ようやくアルバイトをせずに食べていけるようになりました。

萩本さんからはほんとうに多くのことを教わりましたが、とりわけ印象的なのが、「自分が持っている運は、すべて仕事のために使いなさい」という言葉です。いわく、人が持っている運の総量は同じだから、それをなにに使うかで人生は大きく変わる、というんです。

そういう人だから、たまの休みにゴルフに誘われて、当日雨が降ってしまっても、喜ぶんですよ。「よし、運を使わずにすんだ」ってね。逆に晴れると怒っていましたから、ほんとうにユニークですよね。

そんな影響もあってか、その後の役者人生はおおむね楽しくやれています。

今はまもなく本番を迎える『陽気な幽霊ゆうれい』という舞台の準備をしているところです。劇作家のノエル・カワードの戯曲で、これまで世界各国で何度も上演されてきた名作です。僕は演出の熊林弘高くまばやしひろたかさんが大好きなので、こうして呼んでいただけてうれしいですね。

ちなみに、僕は医師のブラッドマン博士という役柄で、僕の実際の女房である、あめくみちこと夫婦役で出演します。なんだか照れくさいキャスティングですが、主演の田中圭たなかけいさんをはじめ、若村わかむら麻由美まゆみさんや門脇麦かどわきむぎさんなど、とにかく任せておけばまず大丈夫だろうという安心感がありますよ。

脚本を覚えたり、役作りをしたりといった作業は何年やっても大変ですが、いつも楽しみにしているのは、すべての芝居を終えて緞帳どんちょうが降りた瞬間です。こちらがいい演技さえできれば、その瞬間に劇場が大きな満足感で満たされたというのが肌身で感じられるんです。これは役者としてたまらないひと時で、そのためにがんばっているといってもいいでしょう。

こちらが不出来な時は、お客さんというのは正直ですから、緞帳が降りた瞬間になんとなく釈然としないムードが伝わってくるものです。そうならないよう、全力を尽くすのでぜひ楽しみにしていただきたいですね。

18年前に胃がんが見つかって体が資本であると痛感しています

「舞台を中途半端に投げ出すくらいなら死んだほうがマシだと思っていました」

今でこそこうして元気にやっていますが、2007年に胃がんが見つかって、翌年に手術を受けました。ほんとうはすぐに手術が必要だと医師からはいわれていたのですが、劇団の地方公演が1ヵ月残っていたので、無理をいって待ってもらったんです。

その時は、舞台を中途半端に投げ出すくらいなら死んだほうがマシだと思っていましたが、これは完全に若気の至りでした。結果、胃の3分の2を切除することになりましたが、すぐに手術をしていれば3分の1ですんだかもしれません。

抗がん剤治療も体へのダメージが大きく、つらいものでした。つくづく体をいちばんに考えなければいけないということを身をもって思い知りました。特に、がん細胞というやつは隠れ上手ですからね。絶対に油断してはいけません。

しかし、そんな大病もどうにか乗り越え、こうして健康体を取り戻したおかげで、今は毎日の晩酌が楽しみでなりません。東北人の血だからでしょう、僕は毎晩おいしい日本酒をいただくのがなによりの楽しみなんです。

日の明るいうちから「この仕事が終わったら飲むぞ!」と気合を入れて働き、帰宅して最初の1杯を口にした時の幸せは、ほかのなにものにも代えられません。

逆にいえば、こうして酒をおいしく飲めるのも、仕事をがんばっていればこそでしょう。だから、76歳になりましたが、まだまだがんばりますよ。

むしろ、最近は意欲が増していて、近いうちに1人芝居に挑戦したいと考えているんです。たった1人で舞台に立つという、ある意味、退路を絶った状況で演技に挑むことで、若い頃のようなギラギラした感覚を取り戻せるのではないかと期待しています。このままおとなしく年を取って死んでいくのはつまらないですから。

皆さんも、そういうチャレンジ精神を、いつまでも忘れないでほしいですね。それがきっと、心の元気につながるはずですよ。

佐藤B作さんからのお知らせ

『陽気な幽霊』

●作  ノエル・カワード
●翻訳 早船歌江子
●演出 熊林弘高
●出演 田中 圭、若村麻由美、門脇 麦、天野はな、あめくみちこ、佐藤B作、高畑淳子
●製作 東宝
●日程 2025年5月3日(土)〜5月29日(木)
●場所 日比谷シアタークリエ(東京都千代田区有楽町)
●問い合わせ先 東宝テレザーブ ☎0570-00-7777