プレゼント

なっちゃんの存在こそが、僕ががんに打ち勝った秘訣です

有名人が告白

お笑いコンビ はんにゃ 川島 章良さん

プロポーズをしようとした30分前に腎臓がんの可能性があると告げられました

[かわしま・あきよし]——1982年、埼玉県生まれ、東京都中野区育ち。お笑いコンビ・はんにゃのツッコミ担当。独自に考案した「かわだしダイエット」で3ヵ月で12kgの減量に成功し、一躍話題に。だしソムリエ1級、ダイエットインストラクター、食育アドバイザーなど健康や食・育児に関する幅広い資格を持ち、全国で講演活動を行う。2014年、ステージⅠの腎臓がんと判明。2020年、5年再発なしで検診からの卒業を報告。2022年2月から、期間限定で芸名を川島ofレジェンドに改名。

2014年は、僕の人生の大きな転換期となった1年でした。というのも、僕が「なっちゃん」と呼ぶ菜月(なつき)さんにプロポーズしようと思って彼女を温泉旅行に誘ったのですが、いざプロポーズしようとしたその30分前に、僕は腎臓(じんぞう)がんの可能性があると告げられたんです。

なっちゃんは、芸人仲間である「我が家」の坪倉由幸(つぼくらよしゆき)さんから紹介してもらいました。結婚願望がありながら女性に求める条件は厳しかった僕ですが、なっちゃんと会った瞬間にハートを射抜かれました。いわゆる一目ぼれというやつです。残念ながら当のなっちゃんは、僕を「はんにゃの目立たないほう」としか認識していなかったようですが(笑)。

しばらく交際を続けて結婚を意識するようになった頃、彼女が妊娠していることが分かったんです。それを聞いたとき、キチンとプロポーズすることを心に誓いました。ひそかに決意を固めていた頃、なっちゃんから一つの提案がありました。「もうすぐ父親になるのだから」と、健康診断を受けるようすすめられたんです。それまでの僕は「健康診断は40代になってから受けるもの」と勝手に決め込んでいました。これまで体の不調なんか感じたことはなかったので、ずっと健康診断は受けてこなかったんです。

健康診断を受けてから、プロポーズのためになっちゃんを温泉旅行に誘いました。彼女が温泉に入っている間に僕は指輪代わりのプレゼントを用意して、後は部屋に戻ってきた彼女に気持ちを伝えるだけ。すべての準備が整ったそのタイミングで携帯電話が震えました。届いたLINEのメッセージは健康診断をしてくれた先生からで、内容は「結果が出たので、ご両親とマネージャーさんといっしょに来てください」というもの。ただごとじゃないと直感した僕は、即座に先生に電話をしました。「いますぐ検査結果を聞かせてください」とお願いしたら、「腎臓がんの疑いがある」と告げられたんです。

いきなりパニックになりました。電話を切った後にインターネットで腎臓がんについて調べてしまったんですが、これがいけませんでした。転移の可能性が高いがんであることや、5年生存率、余命など、不安をあおるような情報が押し寄せてきます。祖父母をがんで亡くしていたので、「死んでしまうかもしれない」という思いが心の底から湧き上がってきました。ほんの数分前まで幸せの絶頂だったはずなのに、あっという間に深い絶望の底にたたき落されてしまいました。「なんでいまなんだよ」と、ただただ行き場のない怒りがこみあげてきます。

まず最初に考えたのは、なっちゃんと彼女のおなかにいる子どものことでした。「僕が死んだら彼女は未亡人になってしまう」「子どもは父親がいなくなってしまう」と。それからがんには遺伝が関係しているという情報もありました。もし子どもにがんが遺伝してしまう可能性があるなら、「生まれないほうが幸せかもしれない……」と気持ちはどんどん追い詰められていきました。

この間、体感では3時間以上でしたが、実際は30分。ようやくなっちゃんが温泉から部屋に戻ってきました。すると、僕の顔色がひどいものだったのか、笑顔で部屋に入ってきた彼女の表情が一変しました。僕は、隠しきれずにすべてを打ち明けました。絶望の底に沈んでいた僕に向けられた彼女の第一声は、「よかったじゃん」というまったく想定外のものでした。

「生まれてくる赤ちゃんががんを見つけてくれたんだよ! この子がいなかったら病院に行かなかったでしょ⁉ この子は天使なんだよ!」

なっちゃんの言葉は、僕を深海のような絶望の底からすくい上げてくれました。この子は僕を生かしてくれたのに、どうして僕は一瞬でもこの子を諦めようだなんて考えたんだろう。勇気を取り戻した僕は、その場であらためて彼女にプロポーズしました。背負うものが増えてしまったのに、彼女は快諾してくれました。

相方の金田は、がんのことを話した後もいつもと同じ態度で接してくれました

「がんになったことは、相方の重要性を互いに再確認するきっかけになりました」

なっちゃんの次にがんを打ち明けたのは、マネージャーと両親です。当時の僕にとって、「がんという病気を背負ったら、誰からも笑ってもらえなくなるかもしれない——」。これはとても大きな恐怖でした。悩みを聞いてもらえたのが、同じようにがんになった先輩の宮迫博之(みやさこひろゆき)さんでした。僕の立場や考えも理解してくれたうえで、「いわなくてもええんちゃうか」とのこと。同じ病気になった宮迫さんの言葉を聞いて、心がスーッと軽くなったのを覚えています。

ステージⅠの腎臓がんの可能性が高いと病院から診断を受け、僕は手術を受けることになりました。診断を受けてから1週間後、手術を受ける前に相方の金田(かなだ)に打ち明けました。それまで金田とはたくさん話をしてきましたが、このときほど緊張したことはありません。

結婚の報告もしていなかったので、まずは子どもができたことを報告しました。さすがに相方だけあって結婚や子どものことは察していたようでしたが、がんのことは完全に想定外だったようで、とても驚いていました。ひとしきり驚いた後、金田は仕事を休んで治療に集中するよう助言してくれました。

がんのような大病を患った人にしか分からないと思いますが、当の患者さんは「自分を病人扱いしてほしくない」と思っています。()れ物扱いされて過剰に優しくされたりすると、かえって病人なんだという事実を突きつけられているように感じてしまうんです。だから、がんになったことを僕以上に悲しんでくれた両親の姿が、実は僕には少しつらかったですね。

ところが、金田は、がんのことを話した後も、手術を受けた後も、いつもと同じ態度でいてくれました。いまあらためて彼に確認すると、意識してそういった姿勢を貫いていてくれたそうです。実は、その頃は多忙のせいもあって、金田との関係が最悪の時期でした。がんになったことで、相方の重要性を互いに再確認するきっかけになったんです。当時はもちろん、別々に仕事をすることが増えたいまも、金田は僕にとって大きな支えになってくれています。

治療中、なによりの支えになったのはなっちゃんの存在です。なっちゃんは、ずっと変わらず、いつでも前向きな言葉しか口にしませんでした。そして彼女の笑顔があったからこそ、僕はがんと闘うことができたといっても過言ではありません。

奥さんである菜月さんの存在が、がん克服には不可欠だったと川島さんは話す

入院生活の苦しみも、なっちゃんの存在があったから乗り越えることができました。彼女は朝から晩まで、面会時間いっぱい僕の付き添いをしてくれて、さらに病院食が口に合わない僕のために、好みの食事を差し入れてくれました。この間、彼女自身に熱が出たこともあったと後で聞きましたが、おなかがだいぶ大きくなっても、ずっと献身的に支えてくれました。

がんになる前は、毎日の忙しさに追われていて、なっちゃんとゆっくり過ごす時間はほとんどありませんでした。それが入院したことで、かえって彼女との仲を深められる充実したひとときになりました。入院期間を楽しめたことで、僕の悲壮感は軽減されましたね。

退院後、僕の生活は大きく変わりました。小さなことからいえば、まず健康に気を遣うようになりました。タバコは吸う量を減らしていき、現在は完全に禁煙できています。ダイエットにも挑戦し、書籍を出せるほどおなかが引っ込みました。

おなかと関係が深いのが、仕事の中身です。僕はおなかが出ているのが「売り」だったので、がんだと知らせていない人たちから「おなかを出す芸」を振られることが多いんです。でも、手術の傷跡を見られたくなくて、理由を説明せずに断り、周囲に迷惑をかけてしまったこともありました。やはり仕事に関わる人には、がんのことを話したほうがよかったかもしれません。

がんを公表してからは、講演の依頼がたくさん入ってくるようになりました。芸人には珍しいかもしれませんが、僕は人前で話をするのが苦手なんです。講演をするようになった当初は、1時間用意されたのに30分で話が終わってしまうこともありました。でも、いまでは90分話すことだって平気です。

がんになってから、がんサバイバーさんに声をかけてもらうことが増えました。僕が宮迫さんの言葉に支えられたように、僕の話も誰かの支えになるかもしれません。大げさにいうと、講演活動を始めた理由も、2022年2月に自分の体験談の書籍を出版できたのも、僕の話が誰かの助けになることを祈ってのことです。

なっちゃんと子どもたちに精いっぱいの恩返しをしなくてはいけないと思っています

僕のいちばん大きな変化は、手術から半年後のこと。娘の希天(きあ)が生まれたことです。なんと、自宅出産でした。深夜にトイレで破水したなっちゃんは、必死に寝室まで来て僕を起こしたんです。救急車を呼んだのですが、その間に赤ちゃんは生まれてしまい、なっちゃんは意識を失うわ、赤ちゃんも泣きやんでしまうわで……。当時の無力感と恐怖心はいまでも忘れられません。

赤ちゃんの無事が確認できたときになってようやく父親としての実感が湧き上がってきました。名前の「希天」は、なっちゃん(なつ〝き〟)と僕(〝あ〟きよし)の名前から取っています。

いまでは二児の父親になりました。長男の吉平(きっぺい)は、難病の「(とっ)発性血(ぱつせいけっ)(しょう)板減(ばんげん)(しょう)性紫斑(せいしはん)( びょう)」と判明しましたが、治療を受けながらすくすくと成長しています。これから僕は、命の恩人であるなっちゃんと子どもたちに、精いっぱいの恩返しをしなくてはいけないと思っています。

まずは、新婚旅行で行く予定だったハワイに行きたいですね。退院してすぐに結婚式を挙げることはできたのですが、新婚旅行の費用は全部治療費に回さざるをえませんでした。

いま思うと、治療が始まった直後から、「結婚式を挙げたい」「新婚旅行に行きたい」と考えていました。治った後の目標があったからこそ、治療に前向きになれたのだと思います。なっちゃんの存在こそが、僕ががんに打ち勝った秘訣(ひけつ)です。

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プロポーズ直前のがん告知、病気を隠しての芸人生活。夫婦二人三脚で乗り越えた、笑いあり涙ありのがん克服物語。