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自分で自分を受け入れることができれば誰にでも〝晴れの日〟がやってくると思います 

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雨野 千晴さん

発達障害の一つであるADHDは、忘れ物や遅刻といった不注意行動が重なることで生きづらさに悩む二次障害を招くおそれがあります。元教員の雨野千晴さんは、みずからを〝うっかり女子〟と称することで、自分らしさを取り戻しました。ADHDの特性を生かして〝多動な活動〟を展開する雨野さんにお話を伺いました。

成績優秀でしっかり者と思われていた幼少時代。徐々にうっかり者の面が現れていきました

[あめの・ちはる]——1981年、北海道札幌市生まれ。北海道教育大学札幌校卒業後、吹きガラス工房に就職。2007年から神奈川県厚木市の公立小学校教員として10年間勤務。産休を経て復職後、2017年7月にADHD(不注意優勢型)の診断を受ける。現在はADHD専門ライフコーチ、セミナー講師、イラストレーター、NPO法人代表理事、福祉事業所スタッフなどパラレルキャリアで多動な複業活動を展開。2018年から神奈川県厚木市で開催している「あつぎごちゃまぜフェス」の実行委員長を務める。2児の母。
https://linktr.ee/amenochiharu

私は37歳の時にADHD(不注意優勢型)と診断されました。10年間の教員生活を経て、現在はライフコーチや文章講座の講師、イラスト作成、イベントの企画・運営、福祉事業所のスタッフなど、幅広いジャンルで活動をしています。「雨野千晴(あめのちはる)」は「雨のち晴れ」から考えたペンネームです。自閉症のある息子を育てる中で抱いた「雨の日もあれば、必ず晴れの日もある」という思いが元になっています。

私の場合、ADHDの中でも「不注意」の面が強いです。注意散漫や優先順位のつけにくさ、時間感覚の弱さといった特性は、幼少時から教員時代、現在に至るまで本質的には変わりません。そんな〝うっかり者〟の私でも、多くの人との大切な出会いによって〝ちゃっかり〟生きられるようになりました。

私の故郷は北海道です。幼い頃に両親が離婚したため、母親と祖父母に育てられました。勉強は得意なほうで、クラスでは自分の意見をハキハキと述べることが多く、うっかりどころかしっかり者と思われていました。

成績は割とよいほうでしたが、身の回りの整理整頓は大の苦手。片づけと呼ばれる作業がとにかくできず、洋服がタンスの前に山積みになっていたり、書類が散らばっていたりと〝汚部屋(おへや)〟状態。カバンや机の中は常にぐちゃぐちゃで、家のカギや財布もよくなくしていました。

片づけだけでなく、時間の管理も苦手な私にとっては遅刻も困りごとでした。朝の準備をしていても、ちょっとしたことに気を取られて、気づけば登校時間が過ぎている。例えば急に服の毛玉が気になると、時間を忘れて取りはじめたり……。慌ただしい朝は、「目の前にある関心事に夢中になる」ADHDの特性には危険な時間帯なのです。

私が通っていた高校(北海道立札幌開成(かいせい)高校)では、私服で自由な雰囲気のある一方で、時間を守るなどの大切なことは厳しく指導されていました。毎朝校門の前には先生が立ち、遅刻した生徒をチェック。遅刻常習犯だった私は毎朝、正門が閉まった後に窓をよじ登って教室に入るありさまでした。

高校卒業後の進路については、祖母から「食いっぱぐれがない」という理由で学校の教員を強くすすめられました。私自身は教員になりたいという思いはそれほどなかったのですが、「教員免許だけは取って、その後は好きな道に進めば?」といわれ、ひとまず大学(北海道教育大学札幌校)に進学しました。

時間を読んで行動するのが苦手な私は、大学でも遅刻どころか約束を忘れることも多かったです。当時は携帯電話が広く普及していませんから遅刻を伝える手段もなく、友人を5時間も待たせてしまった(きょう)(がく)の記録もあるほどです。小学校ではしっかり者と思われていた私でしたが、親の管理から離れるほどにうっかり者であることがさらされていくことになったのです。

教員になってもうっかりミスを連発!同僚の信頼を失ってうつ状態になりました

大学を卒業した後は教員にならず、たまたまテレビを見て興味を持った吹きガラス職人を目指しました。教員になると思っていた母と祖母は大反対でしたが、3年間を老舗(しにせ)の工房で過ごしました。その後、教員になることを決めた私は、配属された神奈川県厚木(あつぎ)市の小学校で2年生のクラス担任となりました。

雨野さんが描いた子どもたちの似顔絵

赴任後にまず苦労したのが、子どもたちの名前を覚えられないことです。受け持ちのクラス30人の子どもの名前を覚えることがなかなかできず、似顔絵を描いてみたり、特徴を書き出したり、徹夜で集合写真とにらめっこして暗記するといった状況でした。職員室にいる先生方の名前も覚えられませんでしたが、教員どうしは名前が分からなくても「先生」とだけ呼び、なんとか乗り切っていました。

教員になっても、忘れ物や紛失が多い特性は変わりません。子どもたちに持ち物チェックを促す立場のクラス担任が、毎日のように忘れ物をしているありさまです。遠足の日に集合時間を間違えて、学校から電話がかかってきたこともありました。飛び起きて学校まで大急ぎで向かうと、全校児童と全教員が校庭でズラリと待っていて……そんなうっかりエピソードには事欠きません。

子どもたちの前では素直な自分でいられましたが、職員室ではテキパキと仕事をこなす先生方を横目に自信を失う日々。そのうち、職員室の中にいると、のどが詰まったようになって声がうまく出せず、動悸(どうき)も激しくなりました。人前で話すのが得意だった自分にとって大きな衝撃でした。

教員になって4年目、私はついにうつ状態になりました。得意だった学校の勉強は、仕事ではほとんど役に立ちません。うっかりミスが多い私の特性は、社会人として致命的であると感じるようになりました。

不注意の特性があっても、子どもの頃は親や周囲の大人のフォローがあり、なんとかなる場合もあります。しかし、社会人になると、自分の責任で動かなければなりません。忘れ物が多い、時間に間に合わない、大事なものをなくしてしまう。自分で分かっていてもミスを重ねてしまい、周囲との関係性にも影響が出て、二次障害としてうつ病を発症する方も多いようです。

同僚の信頼も失い、涙が勝手に流れるような状態になってしまった頃、妊娠といううれしい出来事がありました。私にとって産休の期間は、心身をいたわる大切な時間となりました。産休中、私はあることに気づきました。生まれた長男を見ているだけで幸せな気持ちになり、「人は生まれてきただけで周りの人を幸せにする。ほんとうは、誰もがそういう存在なんだ」と思えました。

長男に抱いた、「何かができる・できないじゃない。自分のことを好きと思えるように育ってほしい」という思いは、私自身への問いかけにもなりました。その後、長男の障害が分かって療育に通う中で、できないことを追求するのではなく、ありのままの自分を認め、まずは自分自身が受け入れることの大切さを学びました。「仕事のできる自分」を目指す前に、「うっかりばかりで迷惑をかけている自分」を隠すことなく、周囲にも伝えていこう。「助けて」「手伝って」をいえる自分になろうと決めたのです。

小学校の教員時代は多くの先生に支えられ子どもたちからも大切なことを学びました

教員時代に首から下げていた「大事な物ケース」

産休を経て復職した私は、クラス担任ではなく、特定の教科を教える「教科担任」を担当することになりました。担当したのは、4年生の図工と5年生の書写と理科、6年生の図工という計6クラス。かつて担任として受け持った30人の子どもたちの名前を覚えるのに苦労した私にとって、6クラス合わせて200人以上という数は、徹夜で覚えようとしても不可能でした。ただ、復職前と違っていたのは、うっかりな自分を学校の中でオープンにしたことです。自分自身の特性を職員室でも教室でも最初に伝えて協力を仰ぎました。

例えば、当時の私は忘れ物を防ぐために、「大事な物ケース」と名づけたファスナー付きのケースを首から下げていました。ケースはしょっちゅうなくしていましたが、そのたびに先生方や子どもたちが見つけて声をかけてくれたんです。子どもたちの中で「雨野先生は忘れん坊だから声をかけよう」「あれは雨野先生の大事な物ケースだよ」といった共通認識が広がっていきました。

子どもたちの名前をなかなか覚えられない私に、ある男の子から冗談で「名前当てクイズ」を出されたことがありました。私は目の前にいるお子さんの名前を間違えてしまい、申し訳なさと自分への情けなさで心がいっぱいになりました。そんな私を見た別の子が、「先生、大丈夫だよ! 名前を覚えたいって思ってるんでしょ? それでいいじゃない」といってくれたんです。

私は名前を覚えるのは苦手ですが、一人ひとりのお子さんのよさ、がんばっている姿などのエピソードは細かく覚えています。子どもたちへの感謝の気持ちと「あなたのことを覚えているよ」という想いを自分の得意なことで伝えようと思った私は、学年末に受け持った子どもたち全員分の似顔絵を描いてプレゼントしました。子どもたちが似顔絵を喜んでくれたことは大切な思い出です。

うっかりも「私らしさ」。得意を生かしながら苦手を工夫して自分らしく生きていきたい

「どんな特性でも見方を変えれば自分らしい生き方につなげられると思います」

ADHDには「不注意優勢型」「多動性・衝動性優勢型」「混合型」があります。私は診断をしてくださった医師から「不注意優勢型」といわれました。ボーッとしているから注意力が散漫になるというよりは、むしろ頭の中は常にフル稼働。脳内で次々と連想ゲームが行われている状態で、物事の優先順位が曖昧になり、大事なことへの注意力が低下してしまうのです。

その特性を「頭の中が多動」と表現して発信したところ、ADHD傾向の女性から多くの共感が寄せられました。行動に多動が現れやすいタイプは周囲からADHDと認識されやすいのですが、脳内が多動の場合は多動性が伝わりにくいんです。そのため、周囲の無理解や誤解を招きやすく、自信喪失や自己否定といった二次障害が現れやすくなってしまいます。

2017年に小学校教員を退職した後は、ライフコーチ、インタビュアー、イラストレーター、セミナーや文章講座の講師、福祉事業所のスタッフなど、七つの肩書を持って活動をしています。多動という言葉はマイナスの印象を受ける方もいるかもしれませんが、「多動に活動中!」というと感心されることも多いです。どんな特性も見方を変えれば自分らしい生き方につなげることができると思います。

主宰している「想いが伝わる文章講座」では、SNSやブログで共感を呼ぶ文章作りのアドバイスをしています。「想いが伝わる」ためのポイントは、「ほんとうに思っていることを書く」「継続する」ことだと思います。私はうっかりな特性をオープンにして発信することで、多くの共感が寄せられるようになりました。ありのままの自分を出して本音を書くと、相手に想いが届きやすくなります。私の文章講座は、自分自身を見つめ直して受け入れることから始まります。ADHD傾向の方からの依頼も多く、文章指導というより人生相談のようになることもあり、ライフコーチとしても活動を始めたところです。

私のような〝うっかりさん〟たちから大きな支持をいただいているのが、7年前から開催している「うっかり女子会」です。SNSの非公開コミュニティでうっかりネタや工夫を共有したり、リアルで集まってその年最大のうっかりな出来事を披露したりするユニークな会です。現在の会員は約200人。コロナ()はオンラインの開催でしたが、(しん)宿(じゅく)渋谷(しぶや)のイベントスペース、私が住む神奈川県厚木市のカフェなどで開催しています。

2018年からは「あつぎごちゃまぜフェス」というイベントを主催しています。2022年6月には、障害の有無にかかわらず、皆で楽しみながら生きる〝ごちゃまぜ〟な世界を作るために、NPO法人ごちゃまぜを設立しました。そのほか、障害のある方の音楽やアート制作など表現活動を行っているNPO法人ハイテンションという福祉事業所のスタッフとしても働いています。音楽やアートを通して、分野を超えたさまざまな出会いとご縁をつないでいます。

大好評の「うっかり女子会」
「あつぎごちゃまぜフェス」の様子

今、世界中が先の見えない情勢です。今までの価値観に頼った「普通」を目指す時代は終わりつつあると感じます。これからの時代は、みんなが自分らしさを生かしながら、臆することなく新しいことに取り組んでいく姿勢が求められると思います。自分の特性をまずは自分が受け入れる勇気を持てば、世界は優しく応えてくれる。そうすれば、一人ひとりが最大限の力を発揮できると信じています。