漫談家 綾小路 きみまろさん
〝中高年のアイドル〟としておなじみの漫談家・綾小路きみまろさん。50歳を過ぎてからブレイクを果たし、74歳になった今も元気に舞台に立ちつづけています。中高年世代の悲哀をモチーフにした「あれから40年……」の毒舌漫談で全国に爆笑を届けるきみまろさんに、これまでのキャリアと元気のをお聞きしました!
憧れていた司会者になりたい気持ちで東京に出てきました

学生時代から富士山が大好きで、40歳の時、河口湖のそばに土地を買いました。きっかけは体育の授業でした。私の通っていた大学では、体育の単位をもらうのにスケートが必修科目で、富士急ハイランドまで泊まりがけで行って滑らなければならなかったんです。
今にして思えば富士急と大学の癒着なんじゃないかという気もしますけど、それでもその時に見た富士山の雄大な景色がとてつもなく美しくて、いつかここに家を建てて暮らしたいと心に決めたんです。
40歳といえば、私はまだブレイク前の無名時代です。売れるためにがんばらなければならない時期なのに、河口湖に入り浸っていたものだから、キャリアとしては〝ブレイク〟というより〝ブレーキ〟ですよね。
今でこそ、河口湖でカフェをやったり農園をやったりして、うまい具合に東京との2拠点生活を送っていいバランスが取れていますけど、当時の私にとっては一大決心でした。
芸能人というのは、売れる人はたいてい若い時に売れるものです。同世代を見渡してみても、志村けんさんや細川たかしさん、和田アキ子さんなど、一流の人はみんな早いうちからテレビで活躍していました。
その点、私はほんとうに遅かった。なにしろ売れ出したのが52歳の時なんだから。長い間、潜伏しているウイルスみたいなもんですよ。
それでも、こうして世に出ることは、子どもの頃からの夢でした。私は鹿児島県の現・志布志市の生まれなんですが、いつかテレビに出て売れっ子になって、故郷に錦を飾るぞとずっと考えていましたからね。
初めて上京したのは18歳の時でした。気分はもう、西郷隆盛さんですよ。まず上野駅で降りて西郷さんの銅像を拝んでから、生活の拠点を置くことになった足立区北千住へ向かったのを覚えています。そこで私は、新聞配達のアルバイトをしながら大学生活を送ったんです。いわゆる苦学生というやつですよね。

当時は漫談家ではなく、テレビ番組などで活躍する司会者になりたいという夢を持っていました。というのも、子どもの頃にTBS系列でやっていた『ロッテ 歌のアルバム』という歌番組を毎週楽しみに見ていて、玉置宏さんの司会っぷりに憧れていたからです。
玉置さんのトークは流れるような軽快なおしゃべりで、それがあの頃はすごく興味があり、かっこよく見えました。私も昔からしゃべることが好きだったから、どうすれば玉置さんみたいな司会者になれるかと考えながら、いつも食い入るようにテレビに張りついてはものまねをしていたものです。
司会者になりたいといっても、もちろん簡単になれるものではありません。もうちょっと歌がうまければ、とりあえず歌手を目指して芸能界へ入る道もあったのでしょうけど、なにしろ音楽の成績はずっと「2」という体たらくでしたから、それもできません。
1つのきっかけになったのは、ある日の新聞配達でした。配達先の人がたまたま同じ鹿児島県出身で気に入ってもらえて、「俺は足立区の梅島でキャバレーの営業部長をやっているから、よかったらそっちで働かないか」と誘われたんです。
梅島のキャバレーでボーイとして働き司会の腕を見込まれました
私としても毎朝早起きしなければならない新聞配達がつらくなってきていたので、これは渡りに船でした。
ボーイとして雇われた立場でしたけど、当時のキャバレーというのはステージがあって、ショーの合間にちょっとしたMCをやる機会があるんです。そこで玉置宏さんのものまねをしていた経験が生きました。オーナーから「おまえ、司会うまいな。専属でやってくれよ」といってもらえて、ボーイから念願の司会者に格上げされたんです。
こうなるとやりがいも出てくるもので、少しでもお客さんに楽しんでもらうために、自分なりにいろんな工夫を凝らすようになりました。単に進行をするだけではなく、落語でいう枕のようなトークを必ず添えて、笑いを取って場の空気を温めるんです。
いろいろなネタを試すうちに、どういうトークがウケるのかという勘所が分かってきますから、それをノートに書き留めてさらに面白いトークを考えようと毎日がんばりました。
そんな私の司会ぶりが少しずつかいわいで評判を呼び、大学卒業後は江戸川区小岩にあった別のキャバレーからスカウトを受け、そのまま司会者として食べていくことになりました。
玉置宏さんの影響もあり、この時点でわりと今の芸風に近い毒舌調の話ばかりをやっていたものですから、時には真に受けて怒り出したお客さんから、おしんこの入った皿や灰皿を投げつけられることもありました。それでも気にせずそのままわが道を行けたのは、単に若気の至りであり、怖いもの知らずだったからなのでしょう。
その後、さらに新宿歌舞伎町のキャバレーに引っ張られて活動の場を移し、私は司会者として着々とキャリアを積むことになります。
この時代、キャバレーというのはある種の登竜門で、例えば私より少し年上の大木凡人さんなども、港区赤坂のキャバレーで働いていたところを見出され、芸能界へ進んだ人でした。つまり、さらに上の世界へ進むために、たくさんの司会者たちが毎夜しのぎを削っていたわけです。私もそんな日を夢見ながら、いくつかのナイトクラブを転々としながら司会業を続け、いつかテレビに出たいという一心でがんばっていました。
ところが、ある時期を境に、キャバレーという業態が衰退し、あれほど活況を呈していた大箱の店舗が、次々に閉鎖に追い込まれてしまったんです。私としてはホームステージを失う大ピンチです。
しかし、捨てる神あれば拾う神ありというやつで、たまたまご縁があった芸能関係者のツテで、同じ鹿児島県出身である森進一さんのコンサートの司会者に収まることになりました。
森進一さんは、その後10年にわたってツアーのたびに私を起用してくれて、これによって芸能界で少しずつ私の存在が知られるようになりました。結果的に桜田淳子さんや都はるみさん、小林幸子さんといった人たちの司会者として使ってもらうことになり、どうにか食いつなぐことができたんです。
明確に今の芸風が固まりはじめたのは、伍代夏子さんの舞台で司会者ではなく漫談をやるようになった頃でした。キャリアにして、すでに30年がたっていました。
伍代さんはステージ上で洋服も着物もお召しになるので、衣装を着替えるタイミングがあります。そこで、その間のつなぎが必要になり、私が漫談で時間を埋めるわけですが、これが毎回すごくウケていたんです。
この頃には、私はさらにトークに磨きをかけていて、司会者ではなく漫談家になりたいという思いが強くなっていました。自分が考えたトークで笑いを取り、お客さんを笑顔にさせる。そういう仕事で世に出たいという気持ちが、明確になっていたんです。
ただ、当時は人生50年といわれていた時代です。40代後半に差しかかっていた私は、そろそろ限界を感じはじめていたのも事実です。
かつて夜の舞台で活動していた仲間たちは、みんな華々しく売れていくか、あるいは消えてしまったかのどちらかで、だらだらとしがみつくように続けているのは私くらいのもの。自分はもう、世に出ることのない星の下に生まれてきたのだなと、諦めの気持ちが強くなっていたんです。
その一方で、自分の漫談を分かってくれる人たちは世の中に必ずいるはずだという、信念めいた思いも持っていました。自分でいうのもなんですが、ステージではすごくウケていたので、諦めがつかないところがあったんです。
自作の漫談テープを配って回ったことが起爆剤になったんです

しかし、私の毒舌漫談はどう考えてもテレビ向きではありません。だからといって、テレビ向けにソフトなネタに変えるようなこともしたくない。だったらこの仕事に見切りをつける前に、自分のネタを喜んでくれる人にもっとアプローチする手段を考えるべきじゃないか。そう思うようになりました。
では、どのような手段があるのか。大がかりな宣伝をするにはお金がかかります。いろいろ熟考した結果、漫談を吹き込んだ音源を作ることにしました。家内とに手伝ってもらいながら、カセットテープのA面とB面にそれぞれ20分ほどのネタを吹き込んで、パッケージを印刷する——まさに家内制手工業ですよ。
問題は、その音源をどこに持っていくかです。

美容室なんか、お客さんがまとまった時間を過ごす場所なのでいいかもしれないと考えましたが、世の中にはもうMDが登場していましたから、再生するカセットデッキがあるかどうかが分かりません。
だったら、観光バスはどうか。観光バスならまだ車載デッキがあるでしょうし、シニア向けのツアーバスなら、ネタ的にも喜んでもらえるにちがいありません。
早速、私は高速道路のサービスエリアにテープの在庫をトランクケースに入れて持って行き、バスガイドさんを見つけるたびにそれを渡し、「面白かったらラベルの連絡先に注文してください」と営業して回りました。
すると、全国の観光バス会社から、連絡が殺到したんです。いずれも「お客さんが欲しいといっているのですが……」と数十本単位で飛ぶように売れていく。1本2000円のテープが、多い時は1日で400本売れることもありましたから、作戦は大成功ですよ。
52歳でブレイクして多忙な生活になっても規則正しい暮らしです

そうやって私の漫談を聞いてくれる人を地道に増やしていったおかげで、やがてレコード会社から「CDを出しませんか」というオファーをいただいたり、「テレビでネタをやりませんか」と出演依頼をいただいたりするようになり、私は52歳でようやくブレイクするに至ったんです。
長かったけど、こうして振り返ってみると、いつも誰かが助けてくれる、他力本願な道のりだったように感じます。だって、そうでしょう? 新聞の配達先でキャバレーの仕事をもらい、森進一さんをはじめ多くの歌手の方に漫談の機会をもらい、家族にテープの作成を手伝ってもらったおかげで今があるんです。
50代になってから忙しくなったので、健康面を心配してくれる人は多いですけど、幸い私は酒もタバコもやらないし、夜遊びもしません。友だちがいないので、意外と規則正しい生活を送っているんです。
それに加えて、50代の頃は走ったりジムへ行ったりもしていましたし、70代の今も暇さえあれば散歩をしてストレス発散に努めています。
今もこうして河口湖で農園をやっているおかげで、体を動かす機会は多いです。それに、農作物というのは、手間をかければちゃんと応えてくれるものだから、育てていて楽しいんですよ。寒い時期は大変なこともあるけど、そういうシーズンにしか栽培できない野菜もあります。
おまけに農園ではカツラをかぶらなくていいですからね。舞台上で頭皮を蒸らしながらかく汗とは、快適さが段違いなんですよ。今の私は、畑からエネルギーをもらっているといっていいでしょう。
もちろん、まだまだ舞台もがんばっていますよ。今も年間に60本くらい公演をこなしています。
生涯現役とまではいいませんけど、このまま80歳くらいまではやっていけるのではないでしょうか。まだまだもう少し、皆さんに毒の利いた笑いを届けるために、舞台で汗をかきたいですね。