プレゼント

助けてくれた皆さんに恩返しをしていきます

私の元気の秘訣

タレント 小堺 一機さん

『ライオンのいただきます』『ライオンのごきげんよう』で、実に31年半という長きにわたってお昼の顔を務めてきた小堺一機さん。長らくハードな芸能生活を送りながら、いつでも底抜けの明るさをお茶の間に届けてくれる小堺さんの元気の秘訣は何でしょう? 芸能界入りしたきっかけや家族のエピソードとともに、その秘密に迫ります。

芸能界入りしたのは南極料理人だった父の生き方がきっかけでした

[こさかい・かずき]——1956年、千葉県出身。1977年5月、『ぎんざNOW!』(TBSテレビ)のしろうとコメディアン道場のチャンピオンとなる。その後、勝アカデミーを経て浅井企画に所属。『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日系列)などで人気を博し、1984年から『ライオンのいただきます(後のごきげんよう)』(フジテレビ系列)の司会に抜擢。現在は『ごごウタ』(NHK総合テレビジョン)などに出演し、バラエティやテレビドラマ、ラジオ、舞台、ライブ、講演会など幅広く活躍中。各界のトップランナーの〝声〟が聴き放題となる音声サービス『NowVoice』に参画。

僕がこうして芸能界で仕事をするようになったのは、実は父の自由な生き方がきっかけなんです。

父は十代の頃に志願兵として戦争を体験し、終戦後は調理師免許を取って飲食業に就いていました。僕がもの心ついたときは(あさ)(くさ)でおにぎり屋さんをやっていて、昼間の仕込みの時間帯はじゃまにならないよう、「映画でも見て来い」とおこづかいをくれるのが常でした。僕の映画好きは、この時期の体験に端を発しているのだと思います。

そんな父がある日、何の前ぶれもなく「南極へ行くことになった」といい出しました。あまりにも突然のことに、僕ら家族はただただあぜんとするばかり。父はいつの間にか審査を受け、(しょう)()()()の調理担当に選ばれていたんです。いわゆる〝南極料理人〟です。スキーがうまくて体が丈夫な人だったので、適任だったのでしょうね。

しかし、当時の南極観測隊といえば、未開の地を行く冒険隊そのものでしたから、無事に帰って来られる保証などありません。それでも、一度決めたことは誰が何をいおうと曲げない人なので、母も心配しつつ送り出したものです。

結局、父は第9次と第15次の2度、南極に行きました。僕が10歳のときと高校生のときのことで、それぞれ1年半ほど家を空けていたと思います。

すしの技術も身につけていた父の料理は、隊員の皆さんに大好評だったようで、あるときなどは氷を削って溝を作り、流しそうめんにチャレンジしたこともあったそうです。ところが、ちょっと風が吹くと瞬く間にそうめんが凍って張りついてしまうので、「流しそうめん」ならぬ「剥がしそうめん」になってしまったと、後に父はぼやいていました。

一方、僕はといえば、「NHK東京放送児童合唱団」に入れられていたご縁で、子どもの頃から同局の『歌はともだち』という歌番組に出演していました。(しお)()(こう)(ぞう)さん、()()(がわ)コッペさん、(やま)()()()()さん、(やま)()(たか)()さんなど、そうそうたる顔ぶれとユニットを組んでいたのですが、後に僕だけが降板させられてしまいます。

譜面も満足に読めなかったので当然といえば当然ですが、父からは「おまえは何ごとも中途半端に取り組むからそういうことになるんだ」といわれました。子ども心にズキンと来たものです。

ただ、共演者の皆さんとはその後もおつきあいを続けていて、特に山尾さんにはよく気にかけてもらっていました。

大学生になってから、山尾さんに「『ぎんざNOW!』に出てみればいいのに」とすすめられたことは、1つの転機だったかもしれません。『ぎんざNOW!』はTBSが当時放送していた(しろ)(うと)参加型の情報番組で、「しろうとコメディアン道場」というオーディションコーナーで、すでに(せき)()(つとむ)さんが人気者になっていました。

するとある日、家に突然、TBSから『ぎんざNOW!』のオーディション出演決定の通知が届きました。はがきを見つけた父は、「おまえ、これはいったいどういうことだ?」と僕に詰め寄りましたが、まったく身に覚えはありません。それもそのはず、実はこれ、山尾さんが僕にないしょで番組に応募したものだったんです。

父は芸能界の仕事にまったく理解を示しませんでした。しかし当時は、『プロポーズ大作戦』など素人の大学生が活躍する番組がはやりでもありましたから、僕もなんとなく興味を持ってしまったのでしょう。何より、これだけ自由に生きてきた父なら分かってもらえると思っていました。

結局、僕は『ぎんざNOW!』のオーディションに参加することになり、みごと、「しろうとコメディアン道場」の第17代チャンピオンになるのです。

これをきっかけに、大学卒業後もそのまま芸能界へ進む決意をしますが、父は最後まで反対していました。

「タレントなんてティッシュペーパーと同じで、使い終わったらポイッと捨てられるぞ!」

そう強い口調でいう父に対し、「じゃあ、僕はハンカチになります。そしたら洗ってくれるでしょう?」と返し、どうにか3年間の期限つきで許しをもらうことができました。

長寿番組の司会もスタートした当初は空回りの連続でした

大学卒業後はまず、(かつ)(しん)()(ろう)さん主宰の「勝アカデミー」に入って修業させていただき、その後、現在の(あさ)()()(かく)にお世話になることになりました。

同じ浅井企画に所属する、『ぎんざNOW!』時代から交流があった関根さんといっしょにライブをこなしながら、『ザ・トップテン』のリポーターをやったり、当時の大人気番組『(きん)ちゃんのどこまでやるの!』にレギュラー出演させていただいたりと、まずまず順調な日々だったと思います。

これは関根さんも同様ですが、僕らは東京出身で実家住まいでしたから、いわゆる貧しい下積み時代というのを経験していないんです。

僕などは、特に家業が板前でしたから、稼ぎがなくても家に帰れば食料はあるわけです。いまにして思えば、これは非常に恵まれた環境でしたね。

それでも、テレビにちょこちょこ出させていただくようになってからも、関根さんとの週に一度のライブはずっと続けていました。

そんなある日、事務所の人から電話がかかってきて、「今度、『笑っていいとも!』の後に、おばさま方を相手にするトーク番組が始まるんだけど、やってみるか?」といわれました。

当時の僕からすると、少しは知名度が上がってきていたとはいえ、格的にタモリさんの後の番組なんて、いかにも分不相応。さてはこれは、ドッキリ番組の仕掛けに違いないぞと、内心で確信しました。

それでもとりあえずだまされたフリはしておかなければと、「ほんとうですか? ありがとうございます」と返事をすると、あれよあれよという間にスタジオアルタで制作発表の記者会見が行われました。

「ドッキリと思っていたら、ドッキリではありませんでした」

フラッシュを浴びせる記者さんたちを前に、ずいぶん大がかりなドッキリだなと思いながら質問に答えます。途中、プロデューサーも、「『笑っていいとも!』でも、おばさまのゲストが来るととても辛辣なコメントを口にするので非常に盛り上がります。これを毎日届けたいというのが、新番組の着想でした」などと、実にリアリティのあることをいっています。

ところが、待てど暮らせどドッキリの種明かしがありません。そして、ついにはそのまま会見が最後まで終わってしまい、「ええッ! これ、ほんとうの話だったの?」とびっくりしたものです。こうしてスタートしたのが、『ごきげんよう』に続く前身の番組『ライオンのいただきます』でした。

そんな始まりでしたから、こちらとしては心の準備などまるでできていません。おかげで番組開始当初の僕は、みごとなまでに何もできない司会者でした。

ゲストの方々を前に、自分なりに必死にトークを回そうとがんばってはいるものの、いまひとつ盛り上がらず、お客さんのノリもいまいち。当然、視聴率も振るわず、ついにはプロデューサーから「小堺さん、この番組はいつになったらおもしろくなるの?」などといわれてしまう始末でした。

先輩方が伝えてくれた言葉にこめられた真意はすべて同じものでした

でも、どれだけ考えても、トーク番組の司会進行としてどう立ち回るのが正解なのか、答えは見つかりません。むしろ、考えれば考えるほど、本番中に空回りしてしまっているようですらありました。

そんな中で光明になったのは、関根さんが「(さかい)(まさ)(あき)さんがいっていたんだけど……」と伝言してくれた、こんなシンプルな言葉でした。

「あの番組見てるけど、あいつはなんでいつも一人でしゃべっているんだ?」

これを聞いた瞬間、頭の中で花火がはじけるような感覚を覚えました。これまでにいろいろな人たちからいただいてきたアドバイスが、瞬時につながったのです。

例えば、大将((はぎ)(もと)(きん)(いち)さん)からいわれたこんな言葉。

『令和に復活!コサキンDEワァオ!です、40周年です!ワァオ』(TBSラジオ)の収録風景

「おまえにピン(単独)の仕事は来ないよ。だっておまえ、全部一人でしゃべっちゃうから、相手は『はい』とか『うん』しかいえないんだもん」

あるいは、勝アカデミー時代に勝新太郎さんが何気なくぼやいた、次の言葉。

「(舞台を)見る側にとって何がつらいっておまえ、素人が必死にがんばっている姿を見せられることほどつらいものはないんだよ」

さらにダメ押しは、海外の著名な演出家の方の、次のような言葉です。

「あなたの100%の力はよく分かりました。だから、次からは70%の力で演技をしてください」

どれもこれも、伝えている真意は同じ。視聴者にとって僕は、ただしゃかりきになっている素人にすぎなかったのです。

スタートから3ヵ月目で得たこの気づきによって、少しずつ番組の様子は変わっていきました。31年半という長きにわたって番組を続けることができたのも、周囲の皆さんのアドバイスのおかげだと、心から感謝しています。

大病を経験することで元気と健康の大切さをあらためて痛感しました

「身近な人から親切に優しくしてやればいい」という大将の言葉をいまも大切にしている

もちろん、こうして帯番組をこなす生活というのは、肉体的にも実はハードでした。毎日しゃべりつづけて負担がかかったせいか、のどにポリープができたこともありますし、2004年にはがんも経験しました。

大病を経験してあらためて痛感したのは、「元気があれば何でもできる」というアントニオ(いの)()さんの言葉は真実なのだな、ということです。逆にいえば、元気と健康さえ保っていれば、楽しく生きていくことができるんですよ。

そのためにはとにかくストレスをためないことが大切。幸い、僕の場合はがんを患ったとはいえ、食事制限を伴うものではありませんでしたから、なるべく食べたいものを食べ、ときには妻とウォーキングに出かけるなど適度な運動でリフレッシュして、気ままな生活を心がけています。

特に食べ物に関しては、「食べ物をケチると心が貧しくなるぞ」という、父の教えによるところが大きいですね。そういえば、我が家は昔から、収入の割には食べ物にはこだわる、エンゲル係数の高い家でした。そのおかげなのか、元気に過ごすことができています。これからも末永く長く元気を保たなければなりませんから、最近、週に2度のパーソナルトレーニングを始めました。

幸い、僕は能天気な性格なので、そう簡単にストレスをためることもないでしょう。だから今後は、少しずつでもこれまで僕を助けてくれた皆さんに、恩返しをしていきたいと思っているんです。

でも、具体的に何をやればいいかというと、よく分かりません。そこで思い出すのが、2011年の東日本大震災のときの大将の言葉です。「僕にも何か、被災者の方々のためにできることはないでしょうか」と相談した人に対して、大将はこんな言葉をかけていました。

「まず、自分の周りからだよ。身近な人から親切に優しくしてやればいいじゃないか。そうすれば、いつか遠くの人まで届くんだよ」

これは胸に響く言葉でしたね。今後も力を抜いて、家族や先輩方、あるいは後輩たちに、少しずつ自分ができることをやっていけたらと思っています。