プレゼント

ファンの皆さんとの交流——これがなによりの喜びなんです

私の元気の秘訣

俳優 浜田 光夫さん

かつて多くの日活映画に出演し、昭和の銀幕を彩った俳優の浜田光夫はまだみつおさん。傘寿さんじゅを越えた今でも毎年恒例となっているディナーショーを続けるなど、現在も元気な姿でファンとの交流を楽しんでいます。老いを感じさせない活動の原動力とはいったいなにか?元気の秘訣ひけつをお聞きしました。

初めて三越劇場で見た舞台『ピーター・パン』に大きな感銘を受けました

[はまだ・みつお]——1943年、東京都出身。1960年、日活映画『ガラスの中の少女』でデビュー。『キューポラのある街』『愛と死をみつめて』など吉永小百合さんとの日活純愛路線で多くのファンの支持を集め、爆発的な人気を博す。コミカルな役柄から悪役まで幅広く演じ、舞台やテレビ、講演などで活躍。歌手としても人気を集め、近年はディナーショーを開催。受賞歴に第25回日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞(水野晴郎賞)受賞などがある。

私は今でいう新宿区の神楽かぐらざかの生まれなのですが、物心つく前に生家せいかが引っ越して、幼少期の記憶といえばもっぱら代々木上原よよぎうえはらかいわいでのことばかりです。

父は私が乳飲ちのの頃に結核けっかくにかかって亡くなってしまい、母に女手一つで育ててもらいました。だから、小学校の時から学校の先生にかわいがってもらえたのは幸いでしたね。学校は小学校から小田急おだきゅう線に乗って玉川たまがわ学園に通い、そのまま中学部、高等部と進みました。

小学校6年生の時、私の人生にとって非常に大切な出来事がありました。

その日、私はいつものように学校へ行き、授業を受けていたのですが、突然体調を崩して発熱してしまいました。担任の先生は慌てて母に連絡を取って迎えに来させ、学校を早退することに。ところが家に戻ったら、けろりと熱が引いてしまったんです。

もう一度学校に戻るのもなんですし、私は平日の日中から手持ち無沙汰ぶさたになってしまいました。その様子をふびんに思ったのか、母は私を三越日本橋みつこしにほんばし本店の中にある三越劇場へ連れて行ってくれました。そこで上演していたのが『ピーター・パン』です。

この時に初めて間近に見た舞台が子ども心に衝撃的で、役者さんたちの演技にすっかり夢中になりました。そこで母に、「僕もこういうお芝居をやってみたい」と伝えました。それまで、バイオリン教室に通っていたので音楽には多少興味を持っていましたが、演劇の世界に関心を持つなどなかったので、きっと母もびっくりしていたと思います。

日活映画で活躍していた当時の写真。最盛期には毎月新作が封切られるほど多忙だったという

母はすぐに私を杉並区の永福町えいふくちょうにあった劇団東童とうどうというところに連れて行ってくれました。これがこの世界との縁の始まりです。

劇団東童は戦後間もなくからの古い歴史を持っていて、子どもたちに舞台芸術を見せることを目的に設立された劇団です。そこでお会いした主宰者の方に「それではさっそく来週からいらっしゃい」と快く迎え入れてもらえたことから、私は練習生として稽古けいこに通うことになります。

しばらく稽古に励むうちに、たまたま来ていた劇団民藝みんげい若杉光夫わかすぎみつお監督にお会いする機会がありました。劇団民藝もまた、長い歴史と由緒を持つ名門です。

若杉監督は私の演技を見て、「次の作品の主役を探しているんだけど、やってみないか」と声をかけてくれました。いきなり主役をやれといわれても、あまりぴんときませんでしたが、私は劇団民藝の『石合戦いしがっせん』という作品に、主人公の少年役で出演することになります。これも、今にして思えば1つの転機でしたね。

『石合戦』は、古くからの封建的ほうけんてきなしきたりの中で過ごす少年が自分の足で歩みはじめる姿を描く成長の物語です。まだなんの実績もない私にとっては、紛れもない大抜てきでした。

この作品で私の母親役を演じたのは、女優の山田やまだ五十鈴いすずさんでした。少年は病弱な母親の健康を願い、神社で懸命に祈りをささげ、看病に励むのですが、そのかいなく母親はほどなく病死してしまいます。

そこで横たわる母の亡きがらの前でわんわん泣く私の演技が迫真だったようで、ありがたいことに関係者の方からこの作品を高く評価していただきました。

私としてはまだまだ技術的に未熟な時期ですから、ただただその状況に感情移入しながら精いっぱい役柄を演じたにすぎなかったのですが、この1本の映画をきっかけに、引き続き若杉監督にかわいがってもらうようになります。

日活純愛路線を確立し吉永小百合さんと44作品に出演しました

中学生になると、そうした私の活動を知った学校の先生からの誘いで、演劇部に入ることになりました。劇団での活動と並行しながら、『ピノキオ』や『青い鳥』など、さまざまな舞台をやりましたが、すごく楽しかったですね。やはり、根本的にお芝居の世界が性に合っていたのでしょう。

私が通っていた玉川学園というのは、幼稚園から大学までずっと演劇をやる機会がある学校なんです。私はいつも主役をやらせてもらい、それを毎回、夢中になって演じていました。

毎日の稽古に加えて、夏休みには演劇部のみんなで地方へ出かけて舞台をやる機会がありました。とにかく場数を踏みなさいという、学校の方針によるものですね。私にとって、そういう環境がよかったのだと思います。自分が楽しみながらめきめきと演技のコツを身につけていくのを感じました。

その賜物たまものか、私は引き続き大きな作品に抜てきされることになりました。中学3年生の時に、劇団四季しきの『永遠の処女』やNHKの『メリイクリスマス』といった作品で、重要な役どころを任せてもらったことは、今でも思い出深いキャリアです。

そして高校生の時、やはり若杉監督の作品で、『ガラスの中の少女』という日活にっかつ映画に出演することになります。

主演はあの吉永小百合よしながさゆりさんで、私はその相手役でした。こういう重要な配役のオファーをいただけるのですから、ほんとうに運がよかったですよね。学校の先生や若杉監督に目いっぱいかわいがってもらえて、それに応えようとがんばってきたからこそ、こうしたチャンスに恵まれたのかもしれません。私は大学進学後もそのまま俳優業を続け、最終的には中退して俳優業1本に絞って活動することとなりました。

なお、吉永小百合さんとはこの映画『ガラスの中の少女』を皮切りに、日活映画で長く共演することになります。時代背景として、アクション路線が中心だった当時の日活映画の中で、私たちが演じた純愛路線が新鮮だったこともあるでしょう。

吉永さんと私は「純愛コンビ」と呼ばれて人気を博し、最盛期には毎月新作が封切られるほどハイペースで撮影に臨みました。『キューポラのある街』『泥だらけの純情』『愛と死をみつめて』など、吉永さんとご一緒した作品数は、実に44本に上ります。もちろん、これは役者としての私にとっても非常に得がたいキャリアの1つでもあります。

ところが、好事魔多こうじまおおしというやつでしょうか。私はある時、酒場のもめ事に巻き込まれ、右目を負傷してしまいます。酔客が投げた電気スタンドが割れ、その破片が目を直撃したのです。

眼球破裂がんきゅうはれつ、さらに水晶体すいしょうたいを保護する房水ぼうすいが漏れ出てしまう重症で、救急搬送されたものの、失明は免れない状況でした。

8時間に及ぶ手術の末、奇跡的にどうにか視力を維持し、8ヵ月の入院生活を経て俳優業に戻ることができました。

ところが、問題が残っていました。眼球に傷痕きずあとができてしまったことと、後遺症で光に弱くなってサングラスが必需品となったことです。そのため、目の演技が重要な純愛路線を、以前のように演じることができなくなってしまいました。

復帰作で名だたる俳優が友情出演してくれてとても励みになりました

「目の演技が重要な純愛路線を、以前のように演じられなくなってしまったんです」

いやが応でもイメージチェンジが必要となり、以前のような演技を続けられないことに落ち込みましたが、そうした窮地を救ってくれたのもまた、周囲の皆さんでした。

私にとっての復帰作であり、1年3ヵ月ぶりの出演となった『君は恋人』という映画作品では、石原裕次郎いしはらゆうじろうさんや小林旭こばやしあきらさん、浅丘あさおかルリさんといった名だたる日活俳優が友情出演してくれて、それが大きな励みになりました。やっぱり自分は、周囲からたくさん愛され、支えられて生きているのだなと、この時ほど強く実感したことはありません。

81歳になった今、昔の作品を見返すことがしばしばあります。フィルムに若かりし自分の姿が残されているというのは、なんとも幸せなことですよね。時には苦学生の役、時には漁師の役など、思えばほんとうにいろいろなお芝居をさせていただきました。

1つの新しい映画を撮りはじめる際、脚本を一生懸命読み込みながら少しずつその役を理解し、自分の中で咀嚼そしゃくしていく作業が、私はすごく好きなんです。例えば、本来の自分の人柄とは程遠い、チンピラ役を与えられた時など、別人に成り切ることができるのもまた、この仕事ならではの楽しさだと実感します。

私は演者として日活映画に出演するほか、歌手としてこれまで主題歌や挿入歌も多く歌わせてもらいました。これもまた、楽しい経験です。

ディナーショーも毎年催しています。今年も開催が決定していて、ゲストに舟木一夫ふなきかずおさんが来てくれるんですよ。舟木さんは私より少しだけ年下ですけれど、同じ時代を生きた仲間です。これから一緒にディナーショーの内容を考えるところなのですが、こうしたゲストの方、そして足を運んでくれるお客さんと一体になって、今回はどのような空間が生まれるのか、今から楽しみでなりません。もちろん私も歌いますよ。

こういう大仕事が控えているわけですから、やはり健康管理、体調管理は万全でなければなりません。

私にとってのいちばんの健康法は、歩くこと。日常生活のちょっとした隙間すきま時間を見つけては、30分ほど散歩に出かけるよう心がけています。今暮らしている南箱根みなみはこねの街は起伏が多いので、これがいい運動になるんです。最近は足が悪いので、ほどほどにしなければとも思いますが……。

実際、つい先日、愛犬の散歩中に引っ張られて転倒し、左肩を骨折してしまったんです。どうにか日常生活を送っていますけれど、左右のバランスが取れなくて難儀しています。

だから今は、毎日リハビリに励んでいるんです。ロープを使った体操を、1日30分から1時間くらいやるのですが、これがいい運動になっています。やはり、少しでも体を動かすよう意識することは大切だと思います。

これまで演じたことのない役をやってみたいと思っています

「ディナーショーでのファンの皆さんとの交流がエネルギー源です」

20代の頃には、お酒を飲みすぎて体を壊したこともありました。日活映画の全盛期で、私も非常に多忙な毎日を送っていましたから、お酒が数少ないストレス発散法だったんです。でも、それで体調を崩してしまえば、元も子もないですよね。これもいい経験です。

最近の悩みは、年齢を重ねるとともに睡眠が今1つ取れなくなってきていること。なかなかぐっすり深く眠ることができず、寝ては起き、起きては寝ることを一晩中繰り返しているんです。そのせいで生活リズムが安定しなくなるのには困っています。同じ悩みを抱えている人も多いのではないでしょうか。

最近は、こんな時は無理に寝ようとがんばるのではなく、横になりながらテレビを見て、気楽に眠気がやってくるのを待つようにしています。人間、何事も無理をしないのがいちばんですからね。

私がこうして健康に気を遣っているのも、「これまで演じたことのない役をやってみたい」という思いに尽きます。もっとも、さすがにこれだけのキャリアを経てきましたから、演じていない役がどれだけ残っているのか疑問ですが……(笑)。それでも、元気に役者を続けていればきっと未知の世界が待っているのではないかと感じています。

そして、今の楽しみは、なんといってもディナーショーです。多くのファンの皆さんと間近で交流できる喜びが、私の元気の秘訣ひけつ。ぜひご一緒に楽しい時間を過ごしましょう。それがお互いのエネルギーの源になれば、これほどうれしいことはありません。

浜田光夫さんからのお知らせ

『Summer Dinner Show 2025』

●日程 2025年8月17日(日)
●受付 16:30
●お食事 17:00
●開演 18:30
●場所 KKRホテル東京 大宴会場「瑞宝」(東京都千代田区大手町)
●司会 村野武範
●特別ゲスト 舟木一夫
●問い合わせ先 浜田光夫事務局 ☎050-7103-7136(12:00〜17:00)

⬇︎⬇︎お申し込みはこちらから⬇︎⬇︎
https://ws.formzu.net/sfgen/S622654544/