プレゼント

もう少しやれる——この心が生きる原動力です

私の元気の秘訣

俳優 西岡 德馬さん

小児ぜんそくに苦しみながらも6歳の時に子役デビューしました

[にしおか・とくま]——1946年、神奈川県生まれ。1970年、劇団文学座に入座。多くの舞台で主演を務め代表的な役者になるも、1979年に退座。1989年、つかこうへい演出の舞台『幕末純情伝』に主演し、新境地を開拓。1991年、一世を風靡したテレビドラマ『東京ラブストーリー』(フジテレビ系列)でヒロインである赤名リカの不倫相手の上司役に抜擢され、一躍脚光を浴びる。以降、圧倒的な演技力と作品に深みをもたらす存在感で幅広く活躍。近年は、バラエティー番組でお笑い芸人のネタを全力で披露するなど、コミカルでユーモアあふれる人柄も広く知られるようになる。

芸能の仕事を始めたのは意外と早くて、私は小学校1年生から子役として活動しているんです。やはり子役をやっていた従兄弟(いとこ)から、「人が足りないみたいだから、ちょっとやってみない?」と声をかけられたのがきっかけだとは聞いていますが、私自身は覚えていません。

見よう見まねで演技のようなことをやってみたら、周囲の大人たちがやたらと褒めてくれるので、そのままおだてられて木に上りつづけたということだけ、かすかに覚えています(笑)。

当時はまだテレビの仕事なんてありません。ですから、もっぱら映画の端役(はやく)でしたが、東宝(とうほう)日活(にっかつ)東映(とうえい)といった大手の映画会社にはほとんど出させてもらったはずです。

こんな過去の話をすると、さも特別な幼少期だったように思われるかもしれませんが、当時は子役にスポットが当たるようなことはなく、群衆の中の一人として、たまに短いセリフをいただく程度でした。だから、私もクラスメートたちとは、ごく普通な友だち関係でいられましたし、特別な経験をしていたなんて認識はありません。

そんな子役経験の中で、とりわけ印象深いのは、小学校3年生の時に出演させてもらった、農家が舞台の映画です。これは全国農村映画協会という団体が、立ち上がったばかりの全農(全国農業協同組合連合会)について啓発しようという趣旨で制作され映画で、長野県の農村に1ヵ月ほど泊まり込みで撮影する大仕事でした。

ところが、私はこの頃、小児ぜんそくに悩まされていました。特に症状が悪化するのが秋口で、この映画の撮影がまさに小児ぜんそくのタイミングと重なってしまいました。しかも映画の撮影現場というのは、ただでさえホコリっぽくてぜんそく持ちには厳しい環境。おまけに子役の私は、子どもらしく元気に走り回らなければならないシーンが多く、これがとても苦しかったんです。

私の症状が治まるまで、2日間も撮影がストップしてしまうこともあり、これは子ども心にも申し訳なくって、親に「もうやめたい」と直訴したことで、私の子役生活はいったん終わりを迎えました。

よく「こんな幼少期の事情があったからこそ、今こうして役者をしているのだ」といわれますが、それは誤解です。私自身、子役時代のことはすっかり記憶の彼方で、思い返すこともほとんどありませんでした。

演技の世界に戻ることになったきっかけは、高校時代に訪れました。

「小児ぜんそくが悪化して、2日間も撮影をストップさせてしまいました」

高校2年生の頃、日頃のやんちゃがたたって留年が決まり、結果的に退学を選んだ私に、おやじが「高校の代わりにここへ行け」とすすめてくれたのが、芸能学校でした。

これは勝手な想像ですが、きっとおやじは私の子役時代のことをよく覚えてくれていたのでしょう。このまま高校を中退してろくでもない人生を歩むより、多少なりとも適性があった演技の道へ進ませたい——そんな考えがあったのではないかと思います。

とはいっても、私自身はまったく芸能界に興味がなかったので、この提案には驚かされました。通っていた高校にも演劇部がありましたが、男子校だったので正直、『野郎ばかり集まってなにをやってんだ』と、内心小ばかにしていたくらいでしたから。

けれど、差し当たってほかにやりたいこともありません。自分がぜんそくで苦しんだ経験から、将来は医者になりたいなどと口にしていた時期もありますが、もちろんそんなおつむは持ち合わせていません。結局、おやじにいわれるまま、芸能学校へ進むほかなかったのです。

芸能学校に進んで「いい役者」とはなにか?と自問自答の日々でした

芸能学校は2年制。今でもよく覚えているのは、しょっぱなの授業の際に、いわれたお題のとおりに演技をしてみせたら、クラスで私だけが「あんた、いい役者になるよ」と講師の先生に褒められたことです。これは特に役者志望なんかでなくても、やはり気分がよかったのでしょうね。これを機に、「いい役者ってなんだろう?」と自問自答の日々が始まりました。

不思議なもので、こうなると気持ちがどんどん前向きになり、結局、もう一度別の高校に入り直して大学進学を目指すことになりました。それが「いい役者になるために必要な道」だと思えたからです。

ずっと悩まされていたぜんそくは、高校、大学まではしばしば苦しい思いをさせられたものの、少しずつ治まっていきました。

決定的に治ったと自覚したのは、おやじが亡くなった30歳の時でした。それまでいくら体を鍛えても、どうしても治らなかったのが、おやじが()って、いろいろな肩の荷が降りた瞬間、潮が引くように症状が消えたのです。

「プロは台本にないことをやろうとするんです」

思えば、長らく苦しめられていたアレルギー性鼻炎も、舞台の本番が始まる直前にはぴたりと治まっていました。「心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば火もまた涼し」がおやじの口癖でしたけど、人の体は精神に牛耳られているのだなと、あらためて実感させられたものです。

演技が少し面白く感じはじめたのは、大学時代に劇団文学座(ぶんがくざ)に入ってからのことでした。

それまでは役者志望の連中に囲まれて演技の稽古(けいこ)をしていたわけですが、文学座で私は、アマチュアとプロの決定的な違いをまざまざと見せつけられます。それはなにか? アマチュアは台本に書かれたとおりにやろうとするのに対し、プロは台本にないことをやろうとする、ということです。そこに書かれていない表現を、どうすればより正確に、そして自分らしく伝えることができるのかを、プロは徹底的に考えるのです。

これはすなわち、どうすれば目の前のお客さんに伝わるか?どうすればお客さんをもっと喜ばせられるか?という探求と同義です。お金を払って観に来てくれる人たちのために、最大限のパフォーマンスを演じたい!というプロ役者の意識の高さに触れ、芝居の奥深さを痛感させられる思いでした。

一つの転機になった『東京ラブストーリー』で一躍、全国区の知名度に

こうした体験を重ねながら、私は大学を卒業してからは、どっぷりと演技の世界で生きていくことになります。なかなか芽が出ず厳しい時代もありましたが、それでもお客さんにどんな演技を見せられるか、自分と向き合いながら研鑽(けんさん)に励む日々は悪くないものでした。

役者のキャリアとして一つの転機となったのは、おそらく40代の序盤で出演させてもらった、つかこうへいさんが演出した舞台『幕末純情伝(ばくまつじゅんじょうでん)』でしょう。そして、この時に坂本(さかもと)龍馬(りょうま)役を演じる私を見たフジテレビのプロデューサーが持ってきたのが『東京ラブストーリー』(フジテレビ系列)の部長役でした。

フジテレビとしては社運をかけた企画だったようで、「このドラマに出たら、もう電車には乗れませんよ」などと、自信たっぷりに語られていて、その時は「なにを大げさなことを」と思っていましたが、同作の大ヒットはご存じのとおり。ほんとうに、うかつに街を歩くこともできない生活が始まりました。

日頃からお世話になっていた方から、「役者は全国区にならなきゃいかん」とよくいわれていたので、ようやく一端(いっ ぱし)の俳優になれた気がしたものです。それまでは舞台中心だった私のキャリアに、映像の仕事が急増するのもこの頃からでした。

おのずと生活は多忙を極めるようになりましたが、昔から睡眠だけはなるべくちゃんと取るように心がけているんです。年を取るにつれて、寝つきが悪くなっているのも事実ですが、暴飲暴食することもなく、今のところ毎日を健康に過ごせています。

今でも年に50回ほどラウンドするという西岡德馬さん

趣味のゴルフもきっといい効果を出しているのでしょう。ゴルフというのはけっこうな距離を歩くスポーツですし、空気の澄んだ場所でいいプレーができた時には、日々のストレスなどすべて吹き飛んでしまいますからね。逆に、思いどおりにプレーできない時は、かえってストレスをため込んで帰ることもありますが、今でも平均して年に50回ほどはラウンドするようにしています。

「心技体」という言葉がありますが、ゴルフで心を整え、技術を磨き、そして足腰(体)の健康を維持するというのは、実に理にかなっているのではないかと感じます。

今年の秋には『塔の外のランウェイダンス』というミュージカルに出演します。

この作品は本来、昨年の夏に上演されるはずでした。ところが、本番の1週間前に演者の一人が新型コロナウイルスに感染してしまい、中止を余儀なくされた経緯があります。

ウイルスのしわざなのでしかたのないこととはいえ、それまで全員一丸となって稽古に励んできたのですから、なんとも残念でした。まして、感染した当人の気持ちを考えるといたたまれません。だからこそ、今回こうして無事に振替公演が決まったことは、非常にうれしく思います。

この『塔の外のランウェイダンス』という作品は、日本で唯一の、知的障害者専門の芸能プロダクションが企画制作したもので、物語内の知的障害者の役を、実際に障害のある俳優たちが演じるミュージカルです。

障害の程度は人それぞれで、それに応じて稽古の負担も異なります。でも、障害者も健常者も一緒になって一つの作品を仕上げていく過程は、いつもの舞台となんら変わらないものでした。あたかもベテラン俳優と新人が同じ舞台に上がるように、いろいろな背景を持つ演者がともに力を合わせて作品を創っていくのは、私にとっても有意義で楽しいひと時でした。

少し時間があいてしまったので、セリフはもう一度覚え直しですが、大きなやりがいを感じています。個性的な俳優陣の演技を、ぜひ一人でも多くの方にお楽しみいただきたいですね。

失敗や挫折を尊い経験としていかに肥やしにするかが大切なんです

思えば、10代の頃はトラブルにまみれていた私の人生ですが、俳優になってからは挫折(ざせつ)らしい挫折とは無縁の生き方をしています。

もちろん、手痛いミスや困ったことがなかったわけではありません。けれど挫折を挫折としてとらえず、バネにして発奮するよう、いつも心がけています。

失敗や敗北を、傷にするか肥やしにするかは、すべて本人しだいです。一つの失敗でがっくりと落ち込み、くよくよしつづけても、そこから生まれるものなどなにもありません。夏の甲子園(こう し えん)大会を見ていても、勝ったチームが喜びを爆発させているかたわらで、負けたチームの面々も実にいい顔をしていますよね。それはきっと、敗戦を尊い経験として肥やしにできる人の顔なのでしょう。

これは私の座右の(めい)のようなものですが、失敗に対して「悔しい!」という気持ちさえ失わなければ、人はいつまでも成長しつづけられるはずです。若い頃に比べると、ついつい「もうダメだ」と諦める気持ちが湧いてくることもありますが、どうにかそこで踏ん張って、「なぜ失敗したのか?」と考えてみるんです。ぜひ、皆さんも日頃から意識してみてください。

こんな負けん気の賜物(たま もの)なのか、76歳になった今も、私はやりたいことが次々に出てきます。

今年、『画狂人(がきょうじん) 北斎(ほくさい)』という舞台で(かつ)(しか)北斎役を演じた際、「70歳を超えてもまだまだ。80歳を超えてようやく、物事の道理が少し見えてきた。願わくは、90歳を超えたらその奥義を極めたい」というセリフがありました。これはいい言葉だと思います。人間、いくつになっても「もう少しやれる」と思いつづけているくらいがちょうどよく、結果としてそれが日々を元気に生きていく原動力になります。

本誌をご覧の皆さんにも、時には失敗体験を()み締めながら、「もう少しやれる」の心を大切にしていただきたいですね。