プレゼント

がんを経験したことで、家族との絆や人とのご縁、限りある時間のありがたさを実感しました

患者さんインタビュー
ライフカラーカウンセラー 櫻井 本子

真摯に向き合うことで他人様のお役に立てるなら心からうれしく思います

[さくらい・もとこ]——1947年、岡山県生まれ。東京都中野区にある健康ショップ「ハッピーカムカム」店主。2016年、69歳のときに乳がんと診断される。みずからの闘病体験を講演会のゲストスピーカーとして人々と共有しながら、「世話好き母さん」と親しまれる。ライフカラーカウンセラーとして店を訪れる人のさまざまな相談に乗っている。

私は東京都中野区にある住宅街で、小さな健康ショップを営んでいます。こぢんまりとした店ですが、体や心の悩みを抱えているたくさんの人々が足を運んでくださいます。

商いをしたいという気持ちよりも、「少しでも他人様のお役に立つことができたらうれしい」という気持ちのほうがずっと強いんです。店を訪ねてくださったお客様の悩みに真摯に向き合いたいし、何ができるのかをいっしょに考えたい――たとえ初対面であっても、何気ないおしゃべりで心を通わせることができると信じています。心が通い合えば、もっと深くお話をしてストレスの原因を探ったり、よい解決策を見つけたりするお手伝いができるかもしれません。そんな私はいつしか、周りの人から「世話好き母さん」と呼ばれるようになりました。

もともと洋裁の仕事がしたかった私は、高校を卒業後、洋裁を勉強するために故郷の岡山から上京。遠縁に当たる同郷の著名人の自宅に住み込み、家事手伝いの仕事をしながら念願の洋裁学校に通わせてもらえることになったんです。

精米店を営む主人と結婚してからは、店を手伝いながら3人の娘を育てました。洋裁の道に進む夢はかないませんでしたが、店の看板や店内を改装するときに、得意の手仕事を生かすことができました。

お米の配送をしていた関係で、引っ越しや梱包の仕事を請け負うようになりました。細々と始めた運送業でしたが、一つひとつの作業をていねいに行っていたら人伝に評判が広まり、大きな運送会社から仕事を任せてもらえるまでになったんです。

アルバイトの学生さんを雇うだけでなく、私自身も梱包から配達、搬入までのすべての作業を行いました。体を動かすのが好きなので、重い荷物を運ぶのもつらいと感じたことはありません。運送業の仕事では、学生さんと仲よくなったり、同業者と持ちつ持たれつ支え合ったりして、人情のありがたみを実感することばかりでした。

ところが、炎天下で荷物を運んでいたある日、私は突然意識を失って救急搬送されることになったんです。精密検査を受けたものの原因不明で、結局病名は分からずじまい。半年後に再び倒れたときには、「もう一度倒れたら意識が戻らないかもしれない」と怖くなりました。そこで、体に負担がかかる運送業をやめ、いまの商いを始めたんです。

振り返ってみると、生き方が大きく変わるような人生の節目は何度となくありました。がんもその一つです。

家族全員の絆と愛情に支えられ感謝の気持ちを抱きながら治療を続けることができました

お母様からの愛情が詰まった手紙は、いまも櫻井さんの心の支えとなっている

私が乳がんと診断されたのは2016年のことです。車の運転中、腕が右の乳房に当たったときに違和感を覚えました。家へ帰ってから乳房に触ってみると、小さなしこりができていたんです。

近所の医院で診てもらったところ、担当の先生から「もっと大きな病院ですぐに検査を受けてください」といわれました。総合病院で受けた精密検査の結果、乳がんと診断されたんです。主治医の先生からは「初期の乳がんなので手術で切除ができます。抗がん剤治療も行いましょう」といわれました。

先生の話を聞いても、私は手術や抗がん剤治療を受ける決心がつかずに迷っていました。というのも、自分の店で自信を持って販売している健康食品の効果を、みずから確かめるよい機会だと思ったんです。ところが、3人の娘たちからは「他の治療法を試すのは、病院での治療を受けてからにしてほしい」と懇願されました。

私は迷った末、娘たちの希望にこたえ、手術と抗がん剤治療を受けることにしました。難病といわれるがんをどう乗り越えるかということは、私一人の問題ではありません。すぐそばで支えてくれる家族と私が一丸となって向き合わなければならない問題です。家族みんなで力を合わせてがんを乗り越えられたら、学べるものは多いはずだと思いました。

幸いにも、手術は無事に終了。2017年の春から、4回の抗がん剤治療を3週間ごとに受けました。最初の5日間だけは、副作用を抑えるさまざまな薬が処方されましたが、その後は倦怠感に苦しむようになりました。さらに、髪の毛がバサバサと抜けただけでなく、ひどい口内炎で口の中がただれて何も食べられなくなってしまったんです。ただ、副作用がどんなにつらくても、3週目が過ぎて次の治療が始まる頃には元気を取り戻していたので、3ヵ月余りの抗がん剤治療を前向きな気持ちで終えることができました。

私がいちばん悩んだのは、治療法の選択でも抗がん剤の副作用でもありません。それは、岡山で暮らす年老いた母に、自分ががんになったことをどう伝えればよいかということでした。がんと診断されてから岡山へは2度帰省したのですが、1度目の帰省ではどうしてもいい出せませんでした。2度目の帰省のとき、抗がん剤治療の副作用で髪の毛が抜けていた私は、がんの治療中だということを母にようやく打ち明けることができたんです。

母は慌てるそぶりもなく、「つらい思いをしたね。もう大丈夫だよ」といってほほえんでくれました。母の笑顔を見たとたん、気持ちがすーっと軽くなりました。いつも前向きな母の姿に、どれだけ勇気づけられたか分かりません。

母は、2019年5月23日に95九十五歳で息を引き取りました。母が亡くなる前、弟から知らせを受けた私は、岡山へ飛んで帰りました。私が感謝の気持ちを伝えると、病床の母は「遠いのだから、もう無理に来なくていいよ」と私を気遣ってくれました。気丈な言葉とはうらはらに涙を一筋流した母の顔を、私は生涯忘れることはないでしょう。

母だけでなく、亡くなった父も私を支えてくれました。抗がん剤治療を受けるために入院していたとき、意識がもうろうとしてベッドに倒れ込んだことがありました。すると、耳元で「まだ死ぬ時期ではない。生きてするべきことがあるのだから」と、もう亡くなったはずの父の声がはっきりと聞こえたんです。

がんになったからこそ、何歳になっても父や母に守られて生きているということを実感できました。がんの治療を乗り越えられたのは、家族全員の絆と愛情に支えられたからに他なりません。

がんを経験して限りある時間の尊さに気づき、悔いのない生き方をしようと決めました

「がんという難病には、 支えてくれる 家族と私が一丸となって 向き合わなければならないんです」

2019年1月、今度は脳梗塞で3週間入院しました。虫の知らせとでもいうのでしょうか、違和感を覚えたので、病院ですぐに検査を受けたところ、初期の脳梗塞と診断されたんです。

さらに、2月に受けたレントゲン検査の結果、肺に小指くらいの大きさの影が見つかり、がんが肺に転移していると告げられました。ところが、3ヵ月後にCTスキャン(コンピューター断層撮影装置)による検査を受けたら、肺の影はきれいに消えていたんです。私はもちろん、主治医の先生も首をかしげていました。

脳梗塞が起こっても、がんの転移のおそれがあると分かっても、不思議なくらい不安を感じませんでした。70年以上がんばってくれた体なんだから、どこかに不調が出てくるのはあたりまえです。どんなものでも長年使っていると、しだいに劣化して壊れやすくなるものです。でも、「壊れたところを修理して、また大事に使えばいい」と考えれば、心配することはありません。

病気への不安が消えるのと同時に、さまざまなしがらみやこだわりも消えていきました。束縛されて生きてきたというわけではありませんでしたが、「働かないといけない」「健康でないといけない」と、知らず知らずのうちに自分で自分を縛っていたんです。

私はがんを経験したことによって、限りある時間の中で、不安やしがらみにとらわれずに自分のしたいことは何でもしようと決めることができました。とにかく人のお世話をするのが大好きなので、いつも誰かと会って楽しく動き回るようにしているんです。数年前からは、東日本大震災の被災地の復興を支援する「雨にも負けずプロジェクト」という活動に参加し、福島の子どもたちに笑顔になってもらえるような取り組みを始めました。

2018年に多発性骨髄腫になって抗がん剤治療を受けている主人も、「好きなようにしていいよ」と私を応援してくれます。家族の支えやさまざまな人とのご縁に感謝の気持ちを忘れることなく、悔いのないよう、いまを懸命に生きようと思っています。