プレゼント

私の直腸がんの経験を生かし、「保険人」として、お客様に寄り添って生きていきます

患者さんインタビュー

株式会社ソル・ハート代表取締役 松尾 元さん

手術の話まで出ていたのですが、どうしても現実感が追いついてきませんでした

[まつお・はじめ]——1962年、長崎県生まれ。1989年、モリシタホケン株式会社(現、株式会社ソル・ハート)に入社。2015年8月に代表取締役に就任し、同年9月に直腸がんと判明。治療後に発症した関節リウマチに苦しむ。治療後は社員の健康維持を重視し、さまざまな施策を行う。

私は、30年以上にわたって保険会社の営業として働いています。がん保険の説明をさせていただく際には、がんの怖さ、治療の大変さをお客様にお話ししてきました。ところが、実際に自分が直腸がんと診断された時は、現実として受け止めることができなかったんです——。

私が勤務する株式会社ソル・ハートは、(とう)(きょう)(かい)(じょう)日動火災保険(にちどうかさいほけん)株式会社(以下、東京海上日動と略す)の保険を取り扱っている専属代理店です。妻の父が代表で、娘婿の立場の私は、入社以来ずっと仕事に没頭してきました。現役当時は1日に車で100㌔を移動し、毎日10人以上のお客様に会っていました。朝七時から夜8時まで働き、当然のように毎日残業——そんな働き方ですから、食事の時間は不規則ですし、ついつい暴飲暴食に走りぎみでした。自分の健康管理など、はなから頭になかったわけですが、何より問題だったのは、病院が苦手だったことです。多忙を理由に、社会人になってからほとんど健康診断を受けていませんでした。

まさに粉骨砕身(ふんこつさいしん)で仕事に励んでいた2014年のはじめ、突然血便が出るようになったんです。当初は不安に感じましたが、サラサラした血便は量が多いわけでもなく、出たり治まったりを繰り返していたので、「大したことないだろう」と一人合点で放置していました。

2015年8月、代表取締役に就任——ますます仕事に励まなければならないと意気込む一方で、脳裏(のうり)には血便のことが引っかかっていました。「とりあえず念のため」のつもりで病院で検査を受けると、結果を見た先生が「あらっ」と声を出したんです。

次いで先生の口から「直腸がんです」という想像もしていなかった病名が……。これは、がんを告知された人でないと分からないと思うのですが、ほんとうにショックで頭の中が真っ白になりました。

ショックを受けながらも、その場では手術を含めた具体的な話をしていたわけですが、どうしても現実感が追いついてきません。どこか他人事(ひとごと)のように感じ、自分のこととしての危機感はありませんでした。病院から妻や長男に連絡した時も、詳細は分かっていないにもかかわらず、「大したことはない」と言葉にしていました。心配させたくなかったというのもありますが、自分でそう信じたかったのでしょう。

がんについては、妻や長男以外には内密にしました。そして、知り合いの医師に、「親戚(しんせき)が直腸がんになったのだけど」と前置きして相談しました。すると、その医師は「親戚ならいいけど、松尾君だったら病院を替えることをすすめるね」といいます。直腸は神経が多くて手術が難しいと説明を受けた私は、治療実績が豊富な別の病院を探し出しました。

次の病院で検査を受けるまでの時間、「がん」という病気の重みがじわじわとのしかかってきました。予定をキャンセルできなかった名古屋での講演に出たのですが、登壇してから話す内容がすっ飛んで思考停止状態になりました。登壇後に話す内容を忘れた経験は、これまで一度もありません。「大したことない」とは思いながらも、心の底では不安で気もそぞろだったのだと思います。

東京海上日動の支社長にも連絡し、「自分に何かあった時に、自分の代わりを出向してもらえるだろうか」と相談しました。出向は可能との回答にひと息つけましたが、がん患者としての具体的な生活を想定する比重が増え、じわじわと不安が募ってきました。

治療に取り組む前にゴルフの大会で優勝したことで治療に集中できたと松尾さんは話す

私の趣味はゴルフですが、がんと判明した9月はゴルフ大会のシーズンです。「もう一生ゴルフができなくなるかもしれない」と考えた私は、入院の時期を少しだけ遅らせてクラブ選手権に出場。すると、なんと優勝することができたんです。このおかげで、思い残すことなく治療に専念することができました。

新たな病院で行われた検査の結果、リンパ節が()れていることが判明。病期はⅢ期の可能性が高く、3年間余り放置されてしまっていたがんは4.5㌢ほどに大きくなっており、直腸に穴をあけてもおかしくない状態だと説明を受けました。

映画やテレビでしか聞いたことがなかった「5年生存率50%」という言葉が先生の口から飛び出し、「Ⅳ期だった場合は5割に満たない」と宣告までされました。あまりに縁のなかった言葉が立てつづけに出てきたことで戸惑い、ぼうぜんとし、「たいへんなことになった……」という思いにとらわれました。

手術を行う前、さらなる壁が立ちはだかりました。血液検査でヘモグロビンA1c(過去1~2ヵ月間の血糖値の状態を示す指標。基準値は4.6~6.2、6.5以上は糖尿病。以下、HbA1cと表記)が8.0を超え、糖尿病と診断されたんです。このままでは手術ができないといわれました。

幸いインスリンの働きに異常がなかったので、薬物療法と野菜を中心とした食事療法とあわせて、必死にウォーキングに取り組むことで、HbA1cは2週間で7.2まで下がり、無事に手術を受けることができました。

10月の手術当日、私は手術室まで自分で歩き、自分で手術台に上って横になりました。てっきりストレッチャーで運ばれるものと思っていたので「テレビドラマとは違うな」などと考えていましたが、麻酔が入ると一瞬で意識はなくなりました。

手術後、麻酔が覚める私の意識の中に家族や親戚の耳慣れた声が聞こえてきた時は「生きている」ことを実感しました。当時は身長170㌢に対して体重が83㌔というひどい肥満体だったため、脂肪がじゃまをして、7時間の予定だった手術が九時間もかかったそうです。けれど、病室に集まっていた皆の笑い顔から、手術が成功したことが感じられてホッとしました。

手術後に関節リウマチになり、いまだに手の指を動かす時に違和感を覚えています

手術から2週間後の検査の結果、幸い病期はⅠ期と判明しました。抗がん剤治療をする必要もなく、その後、3ヵ月に一度の定期検査でも再発の可能性は指摘されていません。がんが重度でなかったことには安心しましたが、私の困難はがん治療の後から始まったんです。

事前に可能性が指摘されていた人工肛門(じんこうこうもん)は避けられましたが、腸に圧力がかからないように複数の管が縫い付けられたため、絶飲絶食が続き、やっと4日目で水が飲めるようになり、食事がとれるようになったのは9日目でした。

しかし、食事をすると腸の動きが悪いようで、すぐ下痢(げり)になってしまいました。退院後に仕事で車を運転して10㌔走るだけの間に、なんと4回もトイレに立ち寄るほどで、1日に30回はトイレに行かなければならない状態。間に合わなかったことも一度や二度ではありません。1年半が経過した頃から、ようやく自己管理ができるようになりましたが、今でもまだ万全ではなく、食事の量はできるだけ控えるようにしています。当然ですが、体重は71㌔まで減少しました。

まったく想定外だったのは、手術後に関節リウマチを発症したことです。手術直後は、背伸びをすることもできないほど体がガチガチに硬くなったのですが、退院して1ヵ月経っても手を動かすことができません。でも、その時は「手術の後遺症だろう」程度に考えていましたが、どうしても全身のこわばりは解けません。リハビリに通っても動くことはなく、涙が出るほど痛いリンパマッサージを受けても変化がありません。これは異常だと、12月に大学病院で検査を受けたところ、なんと関節リウマチと診断されたんです。病名が分からず、3ヵ月近く苦しみ、不安な毎日を過ごしていました。

「実は愛猫のおかげで退院を早めることができたんです」

こんな私が苦難を乗り越えられているのは、周囲の支えがあったからです。固まってしまった私の体を、夕方から30分以上かけて1カ月間ずっとマッサージしてくれた妻にはほんとうに感謝しています。おかげで、なんとか体が動かせるようになりました。また、入院していた時に、代わる代わる社員が見舞いに来てくれたのは涙が出るほどうれしかったですね。

退院が早まったのは、実は(あい)(びょう)の存在があったからです。2匹いるのですが、どちらも子ネコのうちから一緒に暮らし、今でも就寝時は私の横で寝ています。入院している時は、妻がネコたちの動画を撮って送ってくれました。

術後はほとんど体を動かせなかったので、日中はつい昼寝をしてしまいます。すると、深夜に眠れなくなり、また昼に寝てしまうという悪循環に陥ります。何もできない時間に思い出すのは、愛猫たちのこと。会いたい気持ちが日に日に募り、ついに我慢できなくなって、「退院したい」と先生に相談したんです。まだ体に管がつながっている状態でしたが、何とか退院させてもらいました。愛猫に再会した時の気持ちは「かわいい」なんて言葉だけではとてもいい表せません。

会社がすすめた検診で社員のがんが見つかり、先にがんになってよかったと心から思いました

松尾さんは、がんの経験を生かし、社員の健康管理の見直しを徹底した

がんを経験してから、私の人生観が大きく変わりました。人は仕事だけのために生きてはいません。それを言葉としては、以前から理解していたのですが、今は心からそう感じています。喜んで残業していた私ですが、現在は「残業しない会社」を実現させています。

何より社員の健康に対して、人一倍敏感になったと自負しています。社員には健康診断だけではなく、がん検診も受けてもらっています。おかげで、社員の中で早期発見が難しい難治のスキルス胃がんが見つかったこともあります。この時は「私が先にがんになっていてよかった」と、心から思いました。

がんになって強く感じたのは、がん保険の重要性です。私は、最初に受診した病院とは別の病院で治療を受けました。最初の病院で受けた1ヵ月間の検査代だけで約9万円、転院のために再検査が必要になっています。この金額は、高額療養費制度の対象外です。

術後は治療の副作用で下痢を抑えられなかったので、周囲を気にせず治療に専念できる個室病床を使い、そのありがたさを実感しました。いうまでもなく、個室は大部屋とは比べ物にならないほどの金額がかかります。

関節リウマチの治療も保険で賄えたのが、大きな助けになりました。そもそも関節リウマチの治療費は高額で、自己負担だけでも年間約75万円かかります。関節リウマチと判明するまでは原因が分からず、さまざまな方法を試し、おそらく400万円ほど使ったと思います。

私は病院嫌いだったためか、昔から体力や健康に根拠のない自信があり、健康診断を受けてきませんでした。ですから、保険の仕事をしていなかったら、きっとがん保険には入っていなかったでしょう。

がんを経験した後は、営業時はもちろん、仕事以外でも会った人すべてに定期健診とがん検診の重要性を力説するとともに、がん保険をすすめています。がんを経験した後、「役割があって生かされた」と感じています。私の直腸がんの経験を生かし、「保険人(ほけんびと)」として、お客様に寄り添って生きていきます。