プレゼント

家を出る前に「今日も一日、素直に素直に」と唱えるようにしているんです

私の元気の秘訣

お笑いタレント 間 寛平さん

日本を代表するお笑いタレントの一人である間寛平さん。テレビや舞台を通して笑いを届ける一方で、ヨットとマラソンによる地球一周「アースマラソン」に挑戦するなどスポーツマンとしてのイメージも強い寛平さんの原動力とはなにか? 意外と知られていない幼少期の思い出とともに、元気の秘訣をお聞きしました!

少年時代は自作のわなを作ってウナギや鳥を獲っていたんです

[はざま・かんぺい]——1949年7月20日生まれ。高知県出身。1970年、吉本新喜劇の研究生になり、1974年に座長に就任。1978年、新喜劇の座員だった光代さんと結婚。1989年、東京に進出して島田洋七とのコンビ結成などでも話題になる。35歳の頃からマラソンを本格的に始め、246キロを走破するギリシャのスパルタスロンや24時間テレビ(日本テレビ系列)のマラソン企画にも挑戦。2008年12月から2011年1月にかけてヨットとランだけで地球一周するアースマラソンを完遂する。「ア~メマ」「かい~の」などヒットギャグ多数。2022年、吉本新喜劇のゼネラルマネージャーに就任。

どうしても関西のイメージが強いと思いますが、僕は高知県の生まれなんです。大阪へ移ったのは12歳になってからなので、ほぼ小学校いっぱいまで高知で過ごしたことになりますね。

故郷は高知と愛媛の県境に近い高知県幡多はた郡という地域で、今は宿毛すくも市と名を変えています。1学年に6人しか児童がいない、ほんとうにひなびたド田舎いなかでした。

そんな環境ですから遊び相手もろくにいなくて、放課後はたいてい1人で川へ行って、魚を突いたりウナギを捕まえたりするのが常でした。

ウナギ獲りは楽しかったですね。山から竹を切り出してきて筒状のわなを作り、中にミミズをたくさん入れて川に仕掛けるんです。入ることはできても出られないしくみなので、エサにつられて筒の中に入ってきたウナギをそのままいただくという寸法です。

夏場の台風で川が増水すると、せっかくこしらえたわなが流されてしまわないかと不安になって確認に行きましたが、今思えばこれはけっこう危険でしたよね(笑)。親もよく行かせてくれたものだと思います。

また、ランの花がたくさん咲いている地域だったので、山の中に分け入ってたくさん花を摘んで来たり、木の枝を細工してわなを作って鳥を捕まえたりすることなんかもしました。とにかく自然と戯れる日々で、なにもない環境なりに、毎日すごく楽しんでいた記憶がありますね。

ところが、6年生の夏休みに親父おやじの仕事の都合で大阪市の住之江すみのえ区に移ることになります。突然、大都会にやって来たものだから、暮らしぶりはがらりと変わりました。

なにより驚いたのは、中学校ですよ。とにかく規模がでかい。高知では1学年に6人しかいなかったのに、700人も800人も子どもがいる。クラスも1学年で17組くらいまであるんです。過疎地とのギャップに心底戸惑いましたよね。

当時はマンションなんてしゃれた建物はほとんどなくて、長屋のような文化住宅か、アパートにおおぜいの人たちが暮らしていました。そして僕と同世代の子どもたちはみんな、親からお小遣いをもらうのではなく、新聞配達やくず鉄を集めて売っていて、自分でお金を稼いでいたんです。

これはカルチャーショックでした。みんな、すごいなと。それに感化されて、僕もすぐに新聞配達を始めましたし、配達の合間には、近くの造船所がある工業地帯で鉄くずを拾う——そんな毎日でした。

「筒状のわなを作ってウナギを獲るのは楽しかったですね」

思えば、住之江区も今はずいぶんきれいになりました。有名な住之江競艇場きょうていじょうも、当時は単なる沼地みたいな場所で、そこに自生しているを集めて金魚屋さんに売りに行ったのもいい思い出です。やっぱり、大阪には商人の魂が根づいているのかもしれません。

それだけ必死こいて働いて小銭を得ても、いつも腹をすかせていたのは、育ち盛りだったからなんですかね。

今だからいえることですが、新聞配達の途中で、よそ様の家の牛乳をこっそり失敬するのもよくしていました。でも、同じ家で3回やるとたいていバレるんですよ。そりゃそうですよね。

「いつも牛乳飲んじまっているのはおまえか!」って家主にどやされることも一度や二度じゃありませんでした。そこで「ごめんな、おっちゃん。でも、腹が減ってしかたがないねん」といえば、なんとなく許された。そんなおおらかな時代でもありました。

そうしたひもじい記憶があるからなのか、僕は吉本興業よしもとこうぎょうに入ってから、何度も何度も他人の保証人になっては痛い目に遭っているんです。金銭的に、ほんとうにどん底まで追い込まれて嫁さんにもたくさん迷惑をかけました。

他人の保証人になりどん底まで生活が困窮して離婚を考えました

僕、新喜劇しんきげきの舞台でつえを振りまわして暴れるキャラをやるでしょう? 嫁さんから当時、「あんた、あの杖の先にハンコ仕込んでんのか?」なんていわれるくらい、山ほど保証人になっていましたから。ほんとうに世間知らずでした。

でもね、これはしかたのないところもあるんです。僕は24歳で座長になれましたが、周りはみんな先輩です。その先輩方から「おまえ、座長やろ? じゃあ、ちょっと保証人やってくれや」といわれたら、なかなか断れるものじゃありません。芸人の世界は縦社会ですから。

そして、その先輩が会社をクビになったり夜逃げしたりするものだから、そのたびに僕が何百万円も補償しなければならなくなって……。

そんな僕に嫁さんが愛想を尽かすことがなかったのは、ほんとうに幸いなことでした。嫁さんはどんなしんどい状況でも、なぜか僕に対して絶大な信頼を寄せてくれていました。

「金銭的に、ほんとうにどん底まで追い込まれて嫁さんにもたくさん迷惑をかけました」

当時よくいわれたのは、「あんたはもし吉本をクビになったとしても、どんな仕事をやってでも家族を養ってくれるやろ? もし収入が10万円しかないなら、10万円の生活をすればいいだけのことやから」というセリフです。確かにな、と妙に納得させられたのを覚えています。

でも、ある日、とうとうほんとうの限界が来るんです。家に取り立てのヤクザが連日来るようになって、日常の生活に支障をきたすようになってしまったんです。このまま一緒にいたら嫁さんがかわいそうなので、嫁さんの両親と僕の両親を集めて、話し合いの場を持ちました。もう別れたほうがいい、と。

ところが、そんな真剣な場なのに、嫁さんはこういったんです。

「あんたが緒形拳おがたけんさんになったら別れてあげるわ」

なんで緒形拳やねん⁉(笑)。当時の緒形さんといえば、必殺シリーズや数々のヒット作に出まくっていたスーパースターです。

「あれくらいスターになったら別れてあげるわ。でも、今のこんなん状態じゃ、とても別れてやるわけにはいかん」

そういわれたら、引き続きがんばるしかないですよね。嫁さんには今でも感謝しかないです。

人生すべてにおいて流れに逆らわないをモットーにしています

そんな僕ですけど、人生すべてにおいて、とにかく「流れに逆らわない」ことをモットーにしてきました。10代の頃は、特に目の前の流れに自然に乗っておけば、必ずなにかが起こるという、妙な確信があったからです。

なにしろ、僕はもともとは歌手になりたかったんです。橋幸夫はしゆきおさん、舟木一夫ふなきかずおさん、西郷輝彦さいごうてるひこさんの「御三家」に直撃された世代ですから、いやが応でも憧れるというものですよ。

自分もあんなスターになりたいと夢見て、高校を卒業するとすぐに東京へ出ました。そして大箱のキャバレーを片っ端から回るんです。当時は有名な歌手やグループは、キャバレーを主戦場にしていたので、誰かに弟子入りできるかもしれないと考えたわけです。

でも当然、そう簡単にことが運ぶはずもありません。日々、漫然とキャバレーを回っていてもまるで成果がなく、どうしたものかと思案に暮れていた時、美川憲一みかわけんいちさんの大ヒット曲『柳ヶ瀬やながせブルース』が思い浮かびました。そして、岐阜の歓楽街・柳ヶ瀬へ行けば「美川憲一さんに会えるかもしれない!」とひらめいたんです。

同じタイミングで、土建屋さんをやっていた中学時代の友人から、「大阪万博の準備で人が足りないから、一度帰って来てくれないか」と声がかかったのも、一つのご縁だったのかもしれません。僕は、東京から大阪へ戻る途中に柳ヶ瀬に寄って、美川さんを訪ねることにしました。

でも、美川さんがいつも柳ヶ瀬にいるわけがありません(笑)。僕は3日ほどで捜索を諦めて大阪へ向かい、そのまま腰を落ち着けることに……。

しばらく土建屋さんの友人を手伝っていましたが、今度は大工になった友人から連絡がありました。

「家は俺が建てられるから、おまえは左官かタイルをやらへんか? そして、一緒に会社を作ろうや」

「いいな、それ。ほな、俺はタイルを貼るわ」

そんな軽いノリで、僕は流れに任せてタイル屋さんになる修業を始めましたが、これがなかなか難しい世界でした。最初のうちは貼っても貼っても落ちてしまいます。

タイル貼り修業を半年続けても、どうもうまくいきません。タイル屋さんは諦め、流れに身を任せて職を転々としている時に、気晴らしにラジオを聞くようになったんです。ずっとラジオを聞いていたら、「ああ、こういうしゃべる仕事もええなあ」と気づいたことが、芸人を目指すきっかけとなりました。

当時ミナミにあった千日劇場せんにちげきじょうに頻繁に出入りしはじめたことが縁となり、すっとんトリオさんに弟子入りすることができ、芸人としての修業が始まります。当時、新世界しんせかいにあったストリップ劇場に放り込まれて、そこで1年ほど舞台を踏んで経験を積み、吉本興業に入ったのが21歳、1970年のことでした。

吉本は吉本で、厳しい世界でした。僕は高知のなまりがあるものですから、「あいつは使い物にならん」と、最初はまったく舞台に出してもらえず、ただただ先輩の靴を磨いたり、洗い物をしたりするばかりの日々。

それでもめげずにがんばっていたところにやって来たのが木村進きむらすすむさんで、彼とコンビになる形でどうにか少しずつ出番が増えはじめました。

余計なことを考えすぎず毎日を素直に過ごすことが元気の秘訣なんです

「ここまでの流れを見れば分かるように、要所要所で誰かが助けてくれる人生でした」

24歳で座長になれたのは、単なるラッキーだったと思います。座長になった時に、救ってくれたのは池乃いけのめだかさんでした。芝居しばいの初日に台本がうけなかったら、直して翌日から修正した芝居を取り入れていくんです。ただ、僕は台本を直すのが苦手で悩んでいました。その時に、池乃めだかさんが台本を「ここはこうやな」と的確に指摘してくれて、どんどんうける芝居になったんです。

ここまでの流れを見れば分かるように、要所要所で誰かが助けてくれる人生でした。芸人になってからも、一時は東京に出ようと欲をかいて、仕事を失った時期がありました。でも、そんなタイミングでギリシャの鉄人マラソン「スパルタスロン」出場の話が舞い込んだのは、大きな転機でしたね。

「スパルタスロン」は全246㌔の過酷なレースで、完走率はほんの15%ほど。僕も190㌔くらいのところでリタイヤすることになるのですが、それでもこの様子がテレビに流れると大反響を呼びました。

ここから「間寛平は走れるヤツだ」というイメージが根づいて、結果的に2年かけて4万1000㌔を走破するアースマラソンのような取り組みにもつながっていきます。こういう頑丈な体に産んでくれた両親には大感謝ですし、幼い頃に野山を駆け回っていた下地が生きているのかなとも思います。

実は、健康管理は嫁さん任せなんです。いわれるまま、朝起きたらまず白湯さゆを飲むし、食事の内容にもまったく口を出しません。そういう素直さこそが、僕にとっての健康の秘訣なのではないかと感じています。

誰しもストレスはあるでしょうけど、深く考えないのがいちばん。悩んで考えてしまって、眠れなくなるのは嫌なんです。たっぷり眠ることは活力のみなもとだと思っています。寝不足では、マラソンのような運動や頭と体をフル回転させるお笑いできません。そのためにも、睡眠時間は確保しています。そして、日々の流れを素直に受け止めること。これに尽きます。

僕は今も毎日、家を出る前に「今日も一日、素直に素直に」と唱えるようにしているんです。意外と効きますから、皆さんもぜひ試してみてください。