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重度の生理痛は病気でした。子宮内膜症の激痛に耐えた後、迎えた息子の出産日にいままでにない喜びを覚えました

有名人が告白
タレント 穴井 夕子さん

高校生のときから生理痛に苦しんだが病気とは思わなかった

[あない・ゆうこ]——大分県生まれ。1990年、アイドル・ライブグループ「東京パフォーマンスドール」に入団して芸能活動をスタート。1995年に同グループを卒業後、バラエティー番組、ラジオ、ミュージカルなどで活躍。2000年、プロゴルファーの横田真一さんと結婚。著書に『ふたりはじめ』(青春出版社)、『命に会いたい Baby meets MaMa』(実業之日本社)などがある。

私が子宮内膜症と診断されたのは24歳のときです。プロゴルファーである横田真一との結婚が決まり、妊娠に向けて検診を受けたのがきっかけでした。病名を聞いて戸惑ったのを覚えています。

先生によると、子宮内膜症は強い生理痛が特徴とのことです。先生の説明を聞いたとき、思い当たる節がありました。私は、高校生の頃から重い生理痛に悩まされていたんです。

耐えがたい生理痛のため、いつも鎮痛剤が手放せませんでした。生理が始まる直前に鎮痛剤を飲まなければ効果がなく、少しでも薬を飲むのが遅れると激しい痛みと頭痛、吐き気が襲ってきて、立っているのもつらいときがありました。

痛みを表現するのは難しいのですが、お産を経験して分かりました。陣痛が来て、子宮が〝キューッ〟と収縮するあの痛みにとても似ています。生理が来るたびに、お産の苦しみを味わっていたようなものです。

あるときは、電車の中でおなかが痛くなり、痛さのあまり震えが止まらなくなったこともあります。そのさい、偶然いっしょにいた義理の兄におぶられ、電車から降りて病院に連れて行ってもらいました。

子宮内膜症と診断を受けるまで、重い生理痛を病気だとは思ってもいませんでした。周囲にも私と同じように生理痛の重い友達がいたので、高校時代は生理のたびに保健室に行くのが普通だったからです。

母と姉も似ている体質で生理痛が重いほうだったということも、病気だとは思わなかった一因です。「うちは生理がひどい家系なんだ」と思い込んでいました。「痛みがいちばんひどいのは、生理の1日目と2日目だけ。うんうんうなりながらでも、鎮痛剤を飲んで寝ていればなんとかやり過ごせる」と考えていたんです。

妊娠を目指して薬も使わずに子宮内膜症の重い生理痛に耐えた

「息子が生まれたとき、いままでにない喜びを覚えました」と穴井さんは話す

子宮内膜症と診断された後、先生から「治療を優先するか、妊娠を優先するか、選択肢は2つに1つです」と告げられました。子宮内膜症は、生理が重なるたびに進行するそうです。治療を優先する場合は、薬で生理を止めるとのことでした。

もう一方の選択肢は、妊娠です。妊娠すればその間は生理が止まるので、自然に症状の進行を抑えることができるとのことでした。早くに出産を経験していた母や姉は、妊娠を経験したからこそ子宮内膜症も改善されていたのだと思います。

妊娠を望んでいた私は、「妊娠することで子宮内膜症を改善したい」と先生に伝えました。しかし、先生は簡単には首を縦に動かしてくれませんでした。

先生が懸念していたのは、子宮内膜症を患っていると妊娠しにくいという点でした。さらに、妊娠を目指す場合は、薬で生理を止めるわけにはいきません。つまり、子宮内膜症の痛みを抱えながら、不妊治療を進めることになります。「ただでさえ心身に負担のかかる不妊治療に加えて、子宮内膜症の激痛を抱えながら生活することに耐えられるのか」と、先生は懸念していました。

先生から話を聞いた私は、それでも迷うことなく〝妊娠〟を選びました。物心ついた頃から子どもが大好きで、結婚したら子どもをたくさん欲しいと思っていたからです。

ところが、問題は子宮内膜症だけにとどまりませんでした。私の場合、子宮内膜症に加えて、排卵を止める働きのあるプロラクチンというホルモンが多く出てしまう「高プロラクチン血症」という病気や、排卵を促す脳の働きが悪い「視床下部性排卵障害」を合併していて、不妊症に拍車を掛けていることが分かったんです。

「もしかしたら子どもを授かることは難しいかもしれない……」。そんな不安を抱えながら、私は不妊治療に取り組みはじめました。不妊治療のために多くの薬を飲むようになり、「生まれてくる赤ちゃんのためにも、これ以上体に薬を入れたくない」と考え、いつも手放せなかった鎮痛剤を飲むのをやめました。

子宮内膜症の治療ができないうえに、鎮痛剤に頼ることもできません。生理のたびに、耐えがたい激痛に苦しむことになりました。痛みのあまりベッドの上を転げ回り、朝まで一睡もできなかったこともあります。

苦しむ私を見て、夫は一生懸命に支えてくれました。病院についてきてくれましたし、私が痛みで転げ回っているときは腰を優しくさすってくれました。でも、だからといって痛みが軽減されるわけではありません。現実的には何もできない夫に、イライラしてしまったこともあります。

子宮内膜症の痛みに耐えながら、夫と二人三脚で不妊治療を続けました。それでも妊娠の兆候がまったく見られません。精神的にも追い詰められてしまったとき、先生から「精子を採取して直接子宮内に入れる人工授精という方法もある」と提案されたんです。

人工授精の話を聞いたとき、「なんだ、もっと早く知りたかった!」と心の底から叫びたくなりました。別の方法があることを知っていたら、もう少し希望を持って痛みに耐えられていたと思うからです。

先生から「一度帰って旦那さんと相談してください」といわれました。でも、とにかく1日でも早く妊娠したかった私は、夫に相談することもなく、その場で先生に「人工授精をやります!」と即答していました。

息子を出産した日に無上の喜びを覚えうれしさで眠れなかった

生理痛で悩んでいる若い人は積極的に検査を受けてほしいです

幸運なことに、私たち夫婦は1回目の人工授精で妊娠に成功しました。不妊の夫婦は人工授精に切り換えても、なかなか妊娠できないことが多いと聞いていたので、私たちはほんとうに恵まれていたと思います。

妊娠が分かった日のことを、私は鮮明に覚えています。そろそろ生理の予定日が近づく頃だったので、妊娠検査薬を持ってトイレに入りました。前日と前々日の結果は陰性……。「今日もダメかな。こんなに早く妊娠するわけがない」と思いながら、判定結果を見たんです。すると、妊娠反応を示す線がうっすらと浮き出ているではありませんか。その瞬間、私はトイレから飛び出し、階段を2段跳びで駆け上りました。寝室にいた夫に知らせると、そのままベッドの上で、しばらくの間「やったあ~! やったあ~!」と叫びながらぴょんぴょん飛び跳ねていました。私のあまりの喜びように、夫は少しびっくりしていたようです。

2年間の不妊治療を経て、28歳のときに私たちは無事男の子を授かることができました。妊娠中は生理が止まっていたので、子宮内膜症も進行しません。ウソのように痛みがなくなりました。

2002年11月21日、長男を迎えたあの日、私はいままでにない喜びを覚えました。あまりのうれしさに興奮を抑えられず、まる2日間まったく眠ることができなかったほどです。1週間の入院中に8㌔も痩せて、看護師さんから「育児がつらくて眠れない人はいますが、うれしくて眠れない人は初めてです」と笑われてしまいました。

長男を妊娠・出産して、約1年半は生理が止まっていました。子宮内膜症もかなり改善したようです。再び生理が来たときは、以前ほどひどくなく、1ヵ月ごとに重いときと軽いときを繰り返すようになりました。

不妊治療を経て長女を出産したのは、それから5年後のこと。長男のときと同じくらいの喜びで心が満たされました。子宮内膜症の症状はさらに軽くなり、違和感を覚えなくなりました。ただ、不妊治療のためにホルモン治療を続けてきた関係なのか分かりませんが、自分ではホルモンバランスがうまく取れなくなってしまい、最近では更年期に近い状態になっています。

更年期になって生理がなくなれば、子宮内膜症の症状も自然に治まってしまいます。子宮内膜症の治療という面ではよかったのですが、汗が急に出たり、疲れやすくなったり、イライラしたりするような更年期症状に悩まされるようになりました。

病院で更年期症状を抑える薬を処方されたのですが、症状は治まっても副作用で気分が悪くなってしまいます。いまはなるべく薬に頼らずに、オーガニックの食べ物や運動で、体を健康に保つように心がけています。

子宮内膜症は、かつての私のようにただの生理痛と間違えている人も多く、若い人で婦人科を受診する人は少ないように思います。でも、いざ子どもが欲しいと思ったとき、子宮内膜症のせいで妊娠しにくい体になっている可能性もあります。将来のことを考えて、若い人でも積極的に婦人科を受診することをおすすめします。