プレゼント

孫たちの笑顔と「おじいちゃんがんばってね」というかわいい声援が何よりの良薬です

患者さんインタビュー

NPO法人キャンサーサポート 西村 正美さん

前立腺がんと告知され、「死が眼前にある」という恐怖を抱いたのは生まれて初めてでした

[にしむら・まさみ]——2016年、前立腺がんと判明。7ヵ所骨転移が見つかり、ステージD(ほかのがんではステージⅣに相当)と診断される。ホルモン療法を受け、現状を維持。がんをきっかけに約40年のサラリーマン生活を辞め、現在はボランティア活動と趣味を楽しむ。2018年、NPO法人キャンサーサポートに所属。

5年前、(ぜん)(りつ)(せん)がんの告知を受けました。当時の私は67歳で、大手ホテルに約25年勤務した後、親交のあった大手ビルメンテナンス企業に15年勤務していました。

体力には自信があり、学生時代には水泳をやっていましたし、社会人になってからは日頃からランニングをやっていて、50歳になるまではちょくちょくフルマラソンにも参加していました。健康にも気をつけていて、お酒は毎日晩酌するほど好きでしたが、タバコは30歳で完全にやめていました。小さなケガや軽い病気になることはあっても入院の経験はなく、毎年受けていた健康診断の検査値はすべて異常なしでした。

私のがんが発見されるきっかけになったのは、ダイエットでした。その年の春、身長167㌢で体重が75㌔もあった私はダイエットに取り組みました。それまでやっていた運動だけでなく、食事制限も始めたところ、みるみると体重は減っていき、夏には67㌔になりました。

私はダイエットが成功したと喜んでいたのですが、ある日家内が「お父さん、()せすぎじゃないの? どこか悪いんじゃない?」といいだしたんです。「ダイエットをがんばったからだよ」と答えていたのですが、一つ気になることがありました。

その頃、夜中にトイレのために起きる回数が増えていたんです。以前はひと晩に1回だったのが3~4回になっていました。年齢のせいだと思いながらも、家内の言葉が心に引っかかって、かかりつけの内科を受診することにしたんです。

主治医の先生に相談し、前立腺がんの(しゅ)(よう)マーカーであるPSA(基準値は4.0以下)の検査を受けました。何度も健康診断は受けていたものの、実はPSA検査を受けたことがなかったのです。

採血された翌日の夕方に電話があって内科へ行くと、いつもは優しい笑顔の先生が厳しい顔つきをしていました。検査の結果、PSAが51という異常な数値だと判明したんです。

すぐに紹介された大学病院の()尿(にょう)()科でCT(コンピューター断層撮影)や骨シンチグラフィ(全身の骨の様子を撮影し、がんの骨転移など、さまざまな骨の状態を詳しく調べる検査)などの精密検査を受けました。

精密検査の結果はやはり前立腺がんで、病期はほかのがんの場合のステージⅣに当たるステージDというものでした。しかも、がんは前立腺だけでなく、7ヵ所も骨転移していたんです。あらためて測ったPSAの数値は前回よりももっと悪い57、悪性度を示すグリーソンスコアは2~10まで段階があるうちの九と判定され、いずれの値も悪性度の高いがんであることを示していました。

結果を知ったとき、ショックのあまり私はしばらく言葉が出せなかったのですが、隣で説明を聞いていた家内が涙目で「先生、主人の命はどうなりますか」と質問したんです。(かた)()をのんで答えを待っていると、先生はこういいました。

「現在のデータをもとにお答えするならば、5年生存率は約50%です。手術や放射線治療が効果のある時期は過ぎており、残念ながら完治は望めません」

先生のすすめに従い、ホルモン療法を行うことにしました。しかし、その日から食欲はなくなり、大好きな晩酌をする気も失せて、うつ状態の毎日を過ごしていました。「死が眼前にある」という恐怖を抱いたのは生まれて初めてでした。

うつうつと過ごしていたある日、庭続きの家に住んでいる二人の孫が私の部屋に訪ねてきました。当時小学4年生だった孫が、目に涙をいっぱい浮かべて、「おじいちゃん、がんになったと? 死なんでね」と訴えてきたんです。私は、どのように答えていいのか戸惑いながら、「ごめんね、心配かけるね。おじいちゃん、がんばるからね」と伝えたんです。涙を抑えることができませんでした。

「50%の人は5年以上生存している」と前向きになって考えられるようになりました

さらに10日ほどたった頃、外出先から帰ると、仏壇の前に家内と長女、孫二人が座っていたんです。手を合わせて「おじいちゃんのがんが治りますように、一日でも長生きできますように」と祈ってくれていました。その姿を見て、「こんなにも私のことを心配してくれている家族がいる。親しい友人や知人も私の回復を待っていてくれる。病院のスタッフも全力で治療を行ってくれている。いつまでも落ち込んでいてはいけない」と思ったんです。

その日以来、私はがん治療に対して前向きになることができました。私の心の中でいちばん大きく変わったのは、5年生存率の受け止め方です。それまでは、5年生存率50%と聞き、「5年以内に死んでしまう」とばかり考えていました。しかし、発想を転換して「50%の人は5年以上生存している」と考えられるようになったんです。これを私は「二分の一プラス思考」と名付けています。

例えば、試験ならば合格か不合格かの可能性は50%ずつですし、何かの試合でも勝つか負けるかは50%ずつです。努力すれば合格できますし、試合に勝つことだってできます。50%という可能性は決して低くなく、十分に希望の持てる数字だと思えるようになったんです。

気持ちが前向きになってまず決めたのは、40年余にわたるサラリーマン生活に終止符を打つことでした。残りの人生は社会への恩返しとして、ボランティア活動に微力を注いで行くことにしました。

ボランティアは子どもと接するものがいいと私は思いました。私は子どもが好きで、自分の子どもや孫が参加していない小学校の運動会を一日中見ていて、家族にあきれられてしまったことがあったくらいです。もし生まれ変わったら、今度は教師になりたいと思っています。

西村さんは子どもたちと触れ合うボランティア活動に励んでいる

そんな私がボランティアとして最初に始めたのは「毎朝の小中学生の登校時交通整理(セーフティガード)」でした。近所の田んぼの真ん中にある交差点を小中学生が毎朝の登校に使っているのですが、朝だけは交通ラッシュと重なって危険な場所になっているんです。私は毎朝7時から、黄色の服に黄色の手旗を持って交差点に立ち、交通整理をしています。

小学校に通う子どもたちに「おはよう、行ってらっしゃい」と声をかけると、笑顔とともに「おじちゃん、おはよう。今日もありがとう」と声を返してくれます。子どもたちの成長は早く、黄色い帽子に黄色いランドセルカバーだった1年生が、いつの間にか新1年生を先導しながら通学するようになります。彼らの成長を見るのは、我が子や我が孫のことのようにうれしくてたまりません。

また、町内に「(ささ)(ぐり)おはなし会」という、子どもたちへの本の読み聞かせのボランティアグループがあります。その活動を見学させてもらうと、子どもたちが絵本やお話に目を輝かせながら聞き入っていたんです。私はとても感動して早速入会。いまでは町内の小中学校を定期的に訪問し、読み聞かせを行っています。

NPO法人キャンサーサポートの活動の一環として、小中学校でがん教育を行っている西村さん

さらに、がんになったからこそできるボランティアにも取り組んでいます。きっかけは、小学校の教員をやっている長女の話でした。NPO法人キャンサーサポートという団体が主催して小中学校でがんについての授業をしていると聞き、3年前に参加を決めました。

NPO法人キャンサーサポートは、約7年前に数人のがんサバイバーと看護師が、福岡市の小学校から「がん教育」の依頼を受けたことから始まっています。授業の内容に共感した小中学校からの依頼が増え、福岡市の教育委員会から市内の小中学校すべてに実施依頼を受けるまでに発展。数年前からは、福岡県からも毎年40校余りの中学での授業を委託されています。

授業の前半はがんという病気について看護師さんが話し、後半は私たちがんサバイバーが自分の体験を交えて「命の大切さ・人のあたたかさ・時間の大切さ」について話しています。私たちはこの三つを「キャンサーギフト(がんからの贈りもの)」と呼んでいます。私たちの話を、子どもたちは熱心に、ときには涙ぐみながら聞いてくれます。

完治は望めませんが、あと10年、現状を維持して平均寿命まで生きたいと思っています

家族の支えがあるからこそ、前向きに生きることができていると西村さんは話す

いまではがんになる以前からやっていた趣味にも積極的に取り組めるようになりました。会社を辞めて時間がありますし、趣味の腕がすべて前よりも上達してきている気がします。

40歳の頃から()( ぎん)を始め、地元の「(けい)(ほう)(ぎん)(えい)会」に所属して(けい)()に励んでいるんですが、がん治療が始まってから参加した県大会では、仲間といっしょに吟ずる(ごう)( ぎん)の部で優勝することができました。詩吟は、腹式呼吸で大きな声を出す必要があるので、健康維持には最適な趣味かもしれません。

30代で始めたゴルフは、退職後に練習の時間ができたことで上達しているようです。昨年福岡市内有数のショートコースでシニアチャンピオンに輝き、一生の思い出になりました。

残念ながら、いまはコロナ()で制限されていますが、どの趣味でも仲間との触れ合いも深まって充実した日々が送れています。

私は、現在も3ヵ月に1回通院して、定期検査とホルモン療法の注射を受けています。ホルモン療法の副作用で一日数回のホットフラッシュが起こりますが、薬の効果があるからこそだと前向きに考えています。幸い骨転移の進行はなく、PSAは0.2前後で安定しています。病状が進まずにすんでいるのは家族をはじめ、友人、知人、病院のスタッフの温かな支えがあるからだと思っています。

中でも家内の支えには、心から感謝しています。特に食事面では注意を払ってくれており、家庭菜園で汗を流しながら収穫した葉野菜をジュースにして毎朝食卓に出してくれます。還暦を迎える頃から、夫婦で海外旅行に行くようになりました。現在は、国内のサクラや紅葉に合わせた旅行を二人で楽しんでいます。

隣に住む長女の家族も、沖縄在住の次女の家族も、何かと気を配って優しく励ましてくれます。孫たちの笑顔と「おじいちゃんがんばってね」というかわいい声援が何よりの良薬です。

私のがんと上手につきあうコツは、ボランティアと趣味に打ち込み、家族の力を借りることです。私の場合、がんの完治は望めませんが、あと10年、現状を維持して平均寿命まで生きたいと思っています。

この記事が、私と同様がんの治療を続けながら前向きに生きている全国の皆様への、励ましのメッセージになることを願っています。