女優 中村 メイコさん
2歳で女優デビューを果たし、今年で実に84年のキャリアとなる中村メイコさん。演技だけでなく、歌や文筆活動など多彩に活躍してきた中村さんですが、最近では身の回りの物を断捨離する終活にも積極的です。昭和・平成・令和と三つの時代を駆け抜ける大女優に、元気の秘訣をお聞きしました!
最年少現役女優として慰問を経験するなど激動の幼少期でした
まだもの心がつく前のことですが、幼い頃の私はまゆ毛が〝八の字〟のユニークな顔だちだったおかげで「ぜひメイコちゃんに出演をお願いしたい」と、メディアからよく声がかかっていたそうです。父が小説家だったので、メディア関係の方とは昔からご縁があったのでしょうね。結果的に、それが映画デビューのきっかけになりました。
デビュー作はいまの東宝(旧ピー・シー・エル映画製作所)が制作した『江戸っ子健ちゃん』という作品で、横山隆一さんの新聞連載『フクちゃん』を映像化したものでした。
といっても、当時は2歳8ヵ月ですから、もちろん記憶はほとんどありません。自分ではない何かの役柄を演じている意識はあったのでしょうけど、その後も子役時代は男の子の役柄ばかりだったので、「どうして私は女の子なのに〝僕〟っていわなきゃいけないんだろう?」と不思議に思っていたものです。
それから、「メイコちゃん、いまのシーンもう一回やってみようか」といわれると、すごく嫌な気持ちになったことははっきり覚えています。「リテイク(撮り直し)」をしなければならないということは、自分が何か失敗をしたからだと子ども心にも自覚していました。
やがて太平洋戦争が始まると、そんな日常にも大きな変化が訪れます。最年少の現役女優として、軍隊への慰問の仕事もたくさんこなすようになりました。訳も分からないまま飛行機に乗せられて、北はアリューシャン列島から南洋のトラック島まで、最前線の基地へ慰問団として連れて行かれました。終戦間際には明日確実に死ぬことが分かっている特攻隊の皆さんの前で歌うこともありました。
もう10歳になる頃ですから、胸に複雑な思いが去来したものです。その前後ですね、劇場でお芝居をしている最中に、客席の後方が爆撃を受け、小屋が燃え出したこともありました。
ところが、戦争が終わったら今度は進駐軍への慰問活動に追われることになるのですから、なんとも忙しいものでした。世界の情勢や自分の立場が目まぐるしく変わる中でも休むことなく仕事を続けたおかげで、その後の人生において、どんなどんでん返しがあってもそうそう慌てることはなくなりましたね。
不思議なもので、「もっと遊びたい」とか、「働きたくない」と思うことは一度もありませんでした。というより、もの心ついた頃からずっと仕事をしていたので、「遊ぶ」というのがどういうことなのか、よく理解していなかったのでしょう。
余談ですが、これは私の大親友である美空ひばりさんも同じでした。彼女もまた、年端もいかない頃から仕事をしていたので、お手玉や縄跳びなど、およそ同世代の女の子たちが興じる遊びを一つもやったことがなかったんです。
晩年、体を悪くした彼女といっしょに過ごすことがたびたびありましたが、「何かして遊ぼう」といっても、お互いに何をすればいいか分からないんです。そこでしかたなく歌を歌うのですが、あの美空ひばりと歌いっこするなんて、冗談じゃないですよね。でも、とてもぜいたくな時間で、いまでもいい思い出になっています。
幼稚園にも上がらないうちから、映画に出たり舞台に立ったりしていた私の少女時代はかなり特殊なものだったと思います。ふだんから大人に囲まれて生活していましたから、たまに行く学校はもの足りないし、あまり楽しい場所ではありませんでした。
休み時間になるといつも、「中村メイコが来てるってよ!」と、人だかりができて、痩せっぽちだった私は、その勢いで引き倒されてしまうこともありました。
そんなことが続いて、「メイコちゃん、危ないからこの中に入ってなさい」と先生にいわれたのが、かつて孔雀を飼っていた檻でした。ほかの生徒が中へ入れないように南京錠までかけられて……いまなら児童虐待で大騒ぎになるでしょうね。もっとも、ほかの子どもたちが檻の外から私を眺めているのと同じように、私も普通の子どもたちはどうやって休み時間を過ごしているのかと興味深く観察していましたから、なんともヘンテコな学校生活でした。
心が疲れて自暴自棄になって茅ケ崎の海に飛び込んだんです
16歳になる頃には、演技の仕事とは別にアルバイトも始めました。といっても、お金目当てではありません。単純に、アルバイトという横文字に強い憧れがあったんです。
アルバイトをやってみたいと私がいうと、「いいね、社会勉強になりそうだ」と父も大賛成。すぐにおつきあいのあった出版社を紹介してくれました。「メイコにできることといえば、気難しい作家の先生の前でにっこり笑い、元気づけてやることだろう」というのです。本業との両立で、時間のやりくりにはそれなりに苦労もありましたが、一介のアルバイトとして取材や撮影に立ち会うのはとても楽しい経験でした。
また、私自身が作家としてデビューすることになったのもこの頃です。これはもともと、執筆を依頼されていた父が気まぐれを起こして、「メイコ、おまえも小説を書いてみろ」といい出したのがきっかけでした。
このときに書き上げた小説が、『ママ横をむいてて』という作品です。親にずっと見張られていることに窮屈さを感じはじめた、思春期の少女の心情を描いたもので、いわば反抗期を題材とした物語。どういうわけかこれがベストセラーになり、やがて映画にまでなるのですから人生分からないものですね。
そうやっていろいろな分野に手を出していたせいか、19歳になった頃に一度心が疲れてしまい、何もかもがめんどうくさくなってしまったこともありました。なにしろ3時間睡眠があたりまえの生活でしたから、「いっそもう死んでしまいたい!」と捨て鉢になったのも無理からぬことでしょう?
そこでほんとうに、当時住んでいた茅ケ崎の海にざぶんと飛び込みました。でも、泳ぎが得意なことが災いして、私の体はまったく沈んでくれません。そのままざぶざぶと泳いでいたら、しまいにくたびれてしまい、しかたがなく浜辺に上がりました。なんだかもう、喜劇ですよね。
しかし、近所の皆さんからすると、突然ずぶぬれの私が浜辺に現れたものだからびっくりです。どんどん人が集まってきて、ちょっとした騒ぎになってしまいました。
どうしたものかと困り果て、何気なく着ていたブレザーのポケットをまさぐっていたら、たまたま出てきたのが夫である神津善行さんの電話番号が書かれたメモでした。「何か困ったことがあったら、いつでも相談に乗るから連絡してね」と手渡されたものです。
心配してすぐにすっ飛んできてくれた彼と結婚することになるのは、それから4年ほどしてからでした。
人騒がせではありますけど、そうやって思い切って海に飛び込んでみたら、気持ちがスッキリしたのも事実です。何より、身投げ騒動を聞きつけた仕事関係者が、その後は私を腫れ物に触るように大切に扱ってくれるようになりましたから、飛び込んでみてよかったといまでも思っています。
私にとって晩酌のスコッチが睡眠薬の代わりになっています
そんな騒々しい毎日でしたけど、幸い大病を患うこともなく、私は虫歯ひとつない健康体を今日まで維持してきました。成長期は戦中・戦後の食糧難の時代、甘い物が身近にあるわけがありません。私は祖母が茹でてくれたエダマメやトウモロコシをおやつとして食べていましたから、むしろ栄養状態はよかったのでしょう。
ただ、いまも昔もお酒は大好きで、スコッチの濃いめの水割りを7、8杯飲んでから眠るのが日課になっています。さすがに飲みすぎだと心配する人もいますけど、私にとってこれは日常的な寝酒のようなもの。寝つけなくて睡眠不足になるほうが体に悪いですし、睡眠薬を服用するよりもよほど健康的なのではないかと思っています。
一方で、食生活は質素なものです。2年前に股関節を骨折してからは、基本的に夫が朝食を用意してくれるようになりました。果物やサラダが中心で、あとは牛乳をグラス一杯飲むくらいです。昼はほとんど食べることもなく、夜は家族のために作る食事を味見する程度にしています。
たまに息子たちから、「お母さん、よくそんなに質素な食生活でそれだけ元気に生きていられるよね」といわれますが、うっかり食べすぎてしまった日のほうが不調を感じるので、私にはこれぐらいの食生活が合っているのでしょう。
おかげで太ることはありませんが、そうかといってガリガリなわけでもないようで、医師の先生からも「病的な瘦せ方ではないのでいいと思いますよ」と太鼓判をいただいています。
結局のところ、何をどれだけ食べるかというよりも、自分の心身にとってストレスにならない食事を心がけることが大切なのでしょう。私の場合は甘い物が苦手なのもよかったのかもしれません。あとは毎晩のお酒があれば、十分にハッピーでいられるわけです。
こうしたストレスのない食生活というのは、食べる回数や時間、そして内容は人によってそれぞれでしょう。皆さんもぜひ、ご自分が快適に過ごせる食事の習慣を探してみてはいかがでしょうか。
美空ひばりさんの遺品であるハンカチは処分できませんでした
私が身の回りを積極的に整理しようと目覚めたのは、いまから8年前、79歳のときでした。きっかけは引っ越しを決意したこと。それまでは作曲家の夫が使うグランドピアノのスペースや、3人の子どもたちの部屋など、とにかくたくさんの空間が必要でした。
けれど、子どもたちが巣立ってしばらくしてから、夫がおもむろにこういい出したんです。
「おい、引っ越そう。こんなに広い部屋はもういらないし、庭の手入れだってこれからはますます大変になるだろう。ここを売ったお金で、どこか気の利いたマンションでも探そうじゃないか」
この言葉には私もすぐに賛成しました。役者というのはセットに合わせて役を作り込む仕事ですから、もともと環境に対する適応力は高いんです。
そうと決めたからには、新たな環境に適応するために、ひたすら身の回りの物の処分に励みはじめました。これまでいただいたたくさんのプレゼントや、地下室に所蔵していた高級酒など、いっさいがっさいを潔く捨てていったんです。
中にはエノケンこと榎本健一さんからいただいた思い出深い人形などもありましたけど、、どのみち墓場までは持っていけませんからね。寂しかったけど、これも終活の一環ということで、処分させていただきました。
ただ、唯一処分しきれなかったものがありました。それは美空ひばりさんの遺品のサングラスとハンカチです。これだけはいまも大切に保管していて、自分が他界したときに、いっしょに棺に入れてもらうつもりなんです。
こうして振り返ってみると、ほんとうにいろいろなことがあった人生です。そこであらためて気づくのは、私の人生だけが特別なのではなく、誰もが独自の人生を生きているということです。同じストーリーを生きる人生は、二つとありません。
だからこそ、訪れる運命には、逆らうことなく、いつでもどっしりと構えて受け止める余裕を持っておきたいものです。ときにはつらいこと、苦しいこともあるでしょうけど、なんでも謙虚に受け止める姿勢を持っていれば、老いも病気もさほど怖いものではないでしょう。いくつになっても、唯一無二の人生を存分に楽しめる人間でありたいですね。
中村メイコさんからのお知らせ
『大事なものから捨てなさい メイコ流 笑って死ぬための33のヒント』
(講談社、1,100円+税)
中村メイコさんの家には、数々の「宝物」がありました。ただ、「いちばん大事なもの」から捨てないと人生の最後を身軽に生きることはできないと決心し、79歳のとき一大整理を実行。大事な物を手放したことで心が軽くなるなど、笑って楽しく生きるためのヒントを紹介しています。