岩手医科大学歯学部補綴・インプラント学講座摂食嚥下・口腔リハビリテーション学分野教授 小林 琢也
噛む力が低下すると食事が偏りやすく栄養状態の低下を招く
社会の高齢化を迎えた日本において、「健康寿命」というキーワードが一段と重要視されるようになりました。健康寿命とは、健康上の問題がなく、日常生活を制限されずに送ることができる期間を表しています。年を重ねても介護や介助を受けずに自立した生活を送っている人は、健康寿命が長いといえるでしょう。
私たち日本人の寿命は、長年にわたって世界トップクラスの長さを誇っています。その一方で、健康寿命は男性が約8年、女性は約12年も短いのが現状です。つまり、私たち日本人は、10年前後も介助や介護が必要な時間を過ごしていることになるのです。
現在の日本では、国家予算に占める医療費の増大が深刻な問題になっています。健康寿命を延ばして本当の意味での長寿を叶えることは、個人はもちろん国にとっても解決すべき急務といえます。
健康寿命の延伸を図るべく、国内の医療従事者の間では、さまざまな取り組みが行われています。この記事では、私の専門である口腔領域の観点から、「歯の喪失と健康寿命の関係」について分かりやすく解説したいと思います。
歯を失うことが、高齢者の健康にどのような影響を及ぼすのでしょうか。具体的に項目を挙げていきましょう。
●全身疾患の原因になる
高齢者が歯を失う原因として、う蝕(虫歯)のほかに歯周病があります。歯周病は歯周病菌という細菌によって引き起こされる炎症性の疾患ですが、その影響は口腔内にとどまりません。
多くの研究から、動脈硬化・脳梗塞・心筋梗塞などの心血管系疾患や、糖尿病・肥満・がん・誤嚥性肺炎といった疾患の引き金になることも分かってきています。歯を残すことは、咀嚼機能を含めた口腔機能の維持はもちろん、全身に起こるさまざまな疾患の予防にもなるのです。
アメリカで行われた研究では、歯の数が減ると死亡リスクが13%上昇すると報告しています。消化器系のがん(35%)、心疾患(28%)、脳卒中(12%)などは、特にリスクが上昇する疾患です。
日本でも、歯と健康寿命に関する調査と研究が行われています。69~71歳の計468人を対象にした調査では、臼歯部(奥歯)の咬合(嚙み合わせ)を失うと動脈硬化になりやすくなることが分かっています。しかも、肥満や高血圧といった多くの人に知られている生活習慣病よりも、咬合のほうが動脈硬化との関係が深いと結論づけられたのです。
歯の喪失と認知機能の関係を動物実験と臨床研究で実証
●脳の活動が低下する
健康寿命の延伸を考えるうえで重要なのが、認知機能の維持です。2019年に厚生労働省が発表した調査結果によると、寝たきり(介護)の原因となった疾患の第一位は認知症です。脳の健康を保って認知機能を維持することは、健康寿命を延ばすために欠かせない条件といえます。
最近では、咀嚼機能と認知機能が密接な関係にあることが多くの方に知られるようになってきました。私たちの研究グループが行った動物実験でも、歯を早期に喪失することで学習記憶機能のみならず、脳の構造にも変化を与えることを確かめています。人間に対する研究では、すべての歯を喪失した80歳以上の高齢者は、80歳で20本以上の歯を残している高齢者と比較して、記憶学習に関与する「海馬」や認知機能と情動に関与する大脳基底核の一部である「尾状核」、認知機能に関与する「紡錘状回」で脳の容積が低下していることが明らかになりました。
さらに、咀嚼が脳にどのような影響を及ぼしているのかを調べた別の実験では、あごをだけを動かして咀嚼したふりをした場合と比べて、実際に咀嚼したときは明らかに脳が活性化されていることが分かりました。
私が所属する岩手医科大学では、アメリカのハーバード大学との共同研究で、歯の喪失と認知症の関係を検討し、研究結果を2021年3月に発表しています。その結果、「上下のあごで自身の歯どうしの接触があるグループ」と比べて「自身の歯どうしの接触がないグループ」は、認知症になる確率が前期高齢者で約1.9倍、後期高齢者で約1.3 倍となることが分かりました。さらに、「上下のあごですべて自身の歯どうしでの接触があるグループ」と「上下あごの歯がすべてなくなり、総義歯で接触するグループ」を比較したところ、後者は認知症になる確率が前期高齢者で約2.4 倍、後期高齢者で約1.4倍も上昇することも分かりました。
以上の研究から、健康寿命の延伸のカギとなる認知機能の維持は、口腔環境と密接な関係にあるといえることが分かりました。健康寿命の延伸については、世代や年齢に関わらず、いずれは誰もが直面する課題です。歯科医のもとで定期的に検診を受けるなど、口腔環境を意識する生活を心がけることが大切といえるでしょう。