プレゼント

健康は心身の両面がそろって成立するものだと実感しています

私の元気の秘訣

俳優 船越 英一郎さん

テレビは1日30分と決められていたので慎重に吟味しました

[ふなこし・えいいちろう]——1960年、神奈川県生まれ。1982年、ドラマ『父の恋人』(TBS系列)で俳優デビュー。『その男、副署長』(テレビ朝日系列)で連続ドラマ初主演を果たし、『刑事吉永誠一 涙の事件簿』(テレビ東京系列)、『小京都ミステリー』(日本テレビ系列)など数多くの2時間サスペンスドラマで主演を務める。在京5局の2時間サスペンスドラマで主演作品がある唯一の俳優といわれ、「サスペンスドラマの帝王」と呼ばれる。教養番組やバラエティ番組においての司会やナビゲーター役としても高い評価を集め、多方面で活躍。

ご存じの方も多いでしょうが、私の父(船越英二(ふなこしえいじ))も母(長谷川裕見子(はせがわゆみこ))も俳優を生業(なりわい)にしていました。しかし、実は私自身はその事実を小学校3年生になるまで、まったく知らなかったんです。父は自分の職業を「サラリーマンだ」と、ずっといい張っていたんですよ。

ある日、両親が当時小学校3年生だった私を映画館に連れて行ってくれました。タイトルは忘れもしない、『ガメラ対大悪獣ギロン』。人生初の映画館に胸を躍らせていると、スクリーンの中に突然、博士役を演じる父が登場し、私は心底びっくりしたものです。それまでは映画館へ行くことを禁じられていたので、両親なりのカミングアウトだったわけです。

これはわが子にあまり浮世離れした感覚を持たせたくないという教育方針によるものでした。できるだけ普通の感覚を持った人間に育てるために、子どもを芸能界の空気に触れさせないようにしていたのです。もっとも、当の私はめったに自宅に帰ってこない親の様子を見て、「こんなに忙しいなら、サラリーマンにだけは絶対にならないぞ」と幼心に誓っていましたから、これは逆効果だったのかもしれませんが(笑)。

そんなわが家は、私が2歳になる頃に、東京から神奈川県の湯河原(ゆがわら)に移住しています。

親が田舎(いなか)暮らしを始めた理由は主に二つありました。私が当時、小児ぜんそくを患っていたため、できるだけ空気のきれいなところで育てたいというのがまず一つ。それから、夫婦ともに俳優業という人気に左右される不安定な職業に就いていたことから、湯河原に移って温泉旅館を開き、二足のワラジを履いて生活の基盤を安定させたいというのがもう一つの理由でした。

とはいえ、二人ともいつも忙しそうにしていて、家族がそろうのは週末くらいでした。ですから、ふだん身の回りのことはお手伝いさんが世話をしてくれていましたので、これはやはり寂しかったですね。

父は教育や子育てに対して、非常に厳格な人でした。例えば、テレビは1日30分までと決められていたので、どの番組を見るのか慎重に吟味しなければなりません。幼い頃はちょうど『鉄腕(てつわん)アトム』や『(エイト)マン』といったアニメが大人気で、『ウルトラマン』などの特撮ものも始まっていました。1日たった30分しかテレビをつけられないので、それこそ食い入るように画面に集中していたのを覚えています。

「ソノシートで物語の世界に没入するのが楽しみでした」

そしてテレビを見終えた後は、当時流行(はや)りの、ムック本とセットになったソノシートという塩化ビニール製のレコードで、物語の世界に没入するのが唯一の楽しみでした。山奥での生活で、ほかにはあまり娯楽がありませんから、ソノシート一枚一枚に収録された音声ドラマを、どれもすり切れるほど聴き込んだものです。

おかげで普通の子どもは興味を持たないであろう、声優さんの名前などまで細かくチェックする習慣がいつの間にか身についていました。こうした興味・関心が、のちに私を俳優の世界に導くことになったのかもしれません。

小学校の高学年になると、母が仕事量を減らすようになり、平日も家にいられることが増えました。この頃、家庭のルールが少し〝緩和〟され、毎週土曜の夜だけは、親といっしょにテレビで映画を一本見られるようになります。

当時、NETテレビ(現・テレビ朝日)系列で「土曜映画劇場」という番組をやっていて、『ローマの休日』などクラシカルなハリウッド映画を毎週、家族で楽しんでいました。娯楽に飢えていた私としては、この時間はまさに至福のひとときでした。

こうなると、今度は映画に出演している俳優や監督について(むさぼ)るように調べるようになり、私はしだいに映画の世界に傾倒していったのです。

二世ブームが到来して映画監督になりたくて俳優業を始めたんです

そんな小学生時代でしたから、中学生になると完全なる映画少年に仕上がりました。そして関心が向かう対象は、俳優業ではなく監督業だったんです。「いつか自分で映画を撮ってみたい」と考えるようになり、高校を卒業して日本大学の芸術学部(映画学科)へ進んだのもそんな夢をかなえるためでした。

ところが、その頃は日本映画がちょうど鍋底不況の時代でした。子どもの頃から見ていた大映(だいえい)が倒産し、日活(にっかつ)もポルノ路線に切り替えるなど、まさに冬の時代の真っただ中。

東映(とうえい)東宝(とうほう)(しょう)(ちく)はどうにか生き延びていましたが、経営が縮小の一途です。とても新入社員を採用できるような状況ではありませんでした。

では、どうすれば映画監督になれるのか?

本来であれば、制作会社に入れてもらって、雑用を重ねながら経験を積み、やがて助監督から監督へ……というルートをたどるのが王道なのでしょう。しかし、自分でいうのもなんですが、お坊ちゃん育ちの私にそんな過酷な下積みができるとはとても思えません。

どうしたものかと悩んでいたところ、二世ブームがやってきました。

中井貴一(なかいきいち)さんや佐藤浩市(さとうこういち)さんといった二世俳優たちが次々にデビューして人気を博するのを見て、二世のはしくれである私も、「これはいい時代がやってきたぞ」とほくそ笑みました。

実際、父の人脈からそれらしいオファーも少し舞い込んでくるようになっていましたし、ここはひとまず割り切って、いったん俳優の道に進んでいくらかの資金を作り、そしてタイミングを見て自主制作映画の一本も撮れば、そこからいつか伊丹(いたみ)(じゅう)(ぞう)さんのような名監督になる道が開けるに違いない——。本気でそう考え、私はひとまず俳優になる道を模索しはじめます。

さらにそこで、母と昵懇(じっこん)のテレビプロデューサーの石井(いしい)ふく()さんから、「どうせ出るんだったら私の作品から出なさいよ」とお声掛けをいただいたことから、私の俳優デビューはとんとん拍子に決まります。デビュー作は石井ふく子さんプロデュースの単発ドラマ『父の恋人』(TBS系列)で、これが大学4年生のときでした。なんだか本気で俳優を目指してがんばっている方からすると、怒られてしまいそうなほどにイージーなデビューだったわけです。

もっとも、あたりまえのことではありますが、いざデビューしたからといって、私が考えていたほど簡単な世界ではありません。ここからしばし、鳴かず飛ばずの時代が続きます。

当時は映画が低迷していた代わりにテレビドラマがたくさん放送されていたので、どうにか食べることはできましたが、特に最初の1、2年は生活が苦しかったですね。ドラマ一本のギャラは、手取りで2万円程度にすぎず、映画を撮る資金作りなんて夢のまた夢。これは大変な世界に足を踏み入れてしまったなと、少し後悔しかけたほどです。

それでも与えられた役を食らいつくようにこなしつづけ、当初は「(俳優を)やるなら3年間だけ。それで食えなければきっぱり諦めろ」といっていた父を納得させることができるようになりました。

そうなると不思議なもので、俳優としてこの業界に入ったからには、一人の職業人として胸を張れるくらいの存在になりたいという欲が出てきました。つまり、役者と映画監督という〝二兎(にと)〟を追うことをきっぱり諦め、俳優としてとことん高みを目指そうというモチベーションが湧いてきたのです。

この意識改革はその後のキャリアを左右する、重要な転機だったといえるでしょう。精神的にも俳優業に専念するようになってからは、いっそうがむしゃらに仕事と向き合うようになりました。

「サスペンスドラマの帝王」というありがたい異名は私の誇りです

「一度断った役を演じることができてご縁を感じています」

気がつけば「サスペンスドラマの帝王」などといっていただけるようになったのも、目の前の仕事を一つずつ必死にこなしてきた結果でしょう。元は映画少年だったので、映画へのこだわりがなくなったわけではありません。ですが、私はテレビドラマに育てられた俳優ですから、これはありがたい評価だと誇りに思っています。

何より私自身、いまではテレビドラマならではのおもしろさや醍醐味(だいごみ)を存分に享受しています。例えば、最近の仕事では、テレビ東京で制作している『十津川(とつがわ)警部の事件簿』シリーズで、十津川警部役を演じさせていただいています。十津川警部といえば、これまでさまざまな局でさまざまな俳優さんたちによって演じられてきた、国民的なキャラクターです。この大きなキャラクターを自分なりにどんな味つけをして演じるかというのは、一つのチャレンジでもありました。

実は40代の頃にも一度、十津川警部役のオファーをいただいたことがあるんです。でもそのときは、お世話になっている先輩の渡瀬恒彦(わたせつねひこ)さんや高橋英樹(たか はし ひで き)さんが演じたキャラクターであることから、恐れ多くてとてもお引き受けすることはできませんでした。還暦(かんれき)を過ぎてから、あらためて十津川警部役をやらせていただくことができたのは、ご縁というほかないでしょう。

しかも、今回のシリーズは、俳優になる前から憧れの存在であった、角野卓造(かどのたくぞう)さんとのタッグです。意外に思われるかもしれませんが、実はいままでありそうでなかったキャスティングで、私としても感慨深いものがありますね。

就寝前には必ずいいイメージを植えつけて眠るようにしています

こうして60代になっても元気に仕事を続けられているのも、健康を維持していればこそです。若い頃は暴飲暴食はもちろん、ろくに睡眠も取らないような不規則な生活があたりまえだったことを思えば、丈夫な体に生んでくれた両親に感謝するしかありません。

愛犬のレオくんと遊んでいるときが至福のひとときという船越さん

しかし、あぐらをかいてばかりもいられませんから、最近では年相応に健康面も十分にケアするようになりました。人間ドックは定期的に受けるようにしていますし、食事だけで補えない栄養素についてはサプリメントを飲むなど、できるかぎり気をつけています。

また、良質の睡眠を取るのも大切だと思います。睡眠の質を左右するのはたいてい精神面ですから、私は就寝前に必ず、いいイメージを頭に植えつけて眠りに就くようにしているんです。具体的には、その日にあったいいことを思い返し、あらためて感謝してから目をつむります。

もちろん、誰しも日々生きていればいいことばかりではありません。仕事先で怒られたり、理不尽な仕打ちを受けたり、あるいは人間関係でもめてしまったり。就眠時まで感情にしこりが残るような出来事もたくさんあるでしょう。でも、そのすべてのことをいったんとりあえず受け止めて、感謝するんです。

失敗は成功のためにあるものですし、失敗のない人生で成長は得られません。だから嫌な思いをしたときほど、それが自分を成長させてくれる(かて)になると考え、感謝する。そうしながらくよくよする材料を一つずつ頭の中から取り除いていくと、すっきりと穏やかな気持ちで眠ることができるので、これはぜひ皆さんにもお試しいただきたいですね。

いろいろな経験をしてきたからこそいまの自分がいる——。人の健康とは結局、心身の両面がそろって成立するものだと実感しています。

いいイメージを持つことでリラックスし、自律神経で興奮を担う交感神経から休息を担う副交感神経に切り替えて深い眠りに就く。これに勝る健康法はないのではないでしょうか。