和方医学研究所株式会社代表 村田 克彦さん
漢方薬を取り扱う老舗製薬会社で長年勤務した経験と培った人脈をもとに、独自の商品をプロデュースしている村田克彦さん。漢方と並ぶ「和方」の解釈を広げた「多様性のある医療」を提唱する村田さんに、これまでの経緯とその背景について伺いました。
漢方の製薬会社に入社し貿易から製造・営業まで一連の仕事を覚えました
今月の情熱人は、和方医学研究所株式会社の代表を務める村田克彦さん。薬剤師の顔も持つ村田さんは、長年勤めた漢方の製薬会社での経験を活かした独自の発想で体感のあるサプリメントを開発しています。経験に基づく漢方の理論と科学的根拠を伴う独自の発想によって作られる数々の商品は、利用者から「期待を裏切らない」と評判を呼んでいます。配合の妙を支える成分の見立てをはじめ、起業までの経緯とこれからについて、村田さんにお話を伺いました。
「社名に謳っている『和方』とは、一般的には日本で生まれ、培われてきた伝統的な医術や医学を指します。伝統薬の世界でも、中国由来の『漢方』とともに古くからある概念です。和方という言葉は、中国から漢方が輸入されてきた時に区別するためにできたと聞いています。しかし、私が考える和方とは、漢方をはじめ、日本の伝統薬やイスラム文化圏の伝統医学であるユナニ医学、インド・スリランカ発祥の伝統医学であるアーユルヴェーダといった世界の古典的なハーバルメディスンはもちろん、ヨーロッパで現在も使用されているハーバルメディスンも含めて〝和える〟という意味です。日本における代表的な和方は黒焼きで、ミゾソバを材料にした石田散薬が有名です。幕末期に新選組の副長として知られた土方歳三さんの実家が薬屋さんで、武家を中心に2百年以上販売されていました。ほかにも、かつての日本には、さまざまな黒焼きがありました。このような、消えつつある日本の伝統医療も残していきたいという思いがあります」
会社員時代を含めると、漢方薬との関係は40年以上になるという村田さん。そもそも、薬学との接点はいつ頃から始まったのでしょうか。
「もともと私は化学が好きだったんです。幼い頃は、家にあった百科事典を手に取り、三重水素(トリチウム)など、大人でも難解な有機化学の解説記事や分子構造の図を熱心に読んでいたそうです」
村田さんが高校卒業を控えた当時の日本は、有機物から化学合成をする有機化学分野が産業として全盛期を迎えていました。
薬学にも関心が高かった村田さんは、「進学先を化学にするか、それとも薬学か?」と悩み抜いたそうですが、薬学の大学に合格したことで薬学の道に進みます。大学卒業後は、愛知県名古屋市にある漢方の製薬会社に入社したそうです。
「その会社は従業員数が200人前後と、大きな企業ではありませんでしたが、私の尊敬する先生が師と仰ぐパリトキシンの構造を解明した平田義正先生が顧問をされていたんです。これはきっと凄い会社だろうと思って入社を決めました。貿易・中間原料の製造・最終商品の製造まで行っている製薬会社だったので、漢方薬に関わる一連の仕事に携われることに魅力とやりがいを感じていました」
印象に残っている仕事を、村田さんはこう振り返ります。
「生薬を使ったお茶を開発してヒット商品にしたのがよい思い出です。当時、私は営業部門に所属していましたが、生薬の研究現場は効能ありきの世界ですから、研究部門がお茶を開発しても苦かったり味がまずかったりして販売しにくいんです。そこで私は、ウーロン茶や緑茶、ジャスミン茶を配合して飲みやすい味に仕上げたところ、大評判となりました。売り上げは年間1億円以上、製造ラインを増設するほどのヒット商品です。今でこそブレンドティーの発想は当たり前ですが、当時としては斬新だった飲みやすさを追求することで、消費者のニーズを知る大切さを実感できました」
50歳を機に独立。薬剤師の知識も生かして新しい健康食品に挑む
漢方の製薬会社に勤務しながら生薬の知識を深めつつ、調剤薬局での現場で西洋医学の経験も積み重ねていった村田さんの転機は50歳の時。2017年に独立を果たします。
「若い頃から、50歳までは家族のために生き、50歳になったら自分のために生きようと決めていました。安定した収入を捨てて崖から飛び降りる勇気をくれたビジネスパートナーには感謝しかありません」
村田さんの独立を後押ししたのが、現在も取引をしている中国人のビジネスパートナーの存在だったといいます。
「退職した会社は仕事柄、中国との交流が盛んでした。架け橋的な事業に取り組んでいたこともあり、1972年の日中国交正常化の前も中国と貿易をしていました。中国との合弁会社もあったことから、私は当時から何度も中国に足を運び、漢方事業に関わる中国人たちと仕事をしていました。日本には『勤め上げる』という言葉がありますが、中国にはありません。中国人は『スキル・人脈・お金』の3つが手に入ると独立するんです。現地を見ていると、実際に多くのビジネスマンが3つの力を手に入れた時に独立しています。私が50歳になって独立を決めた数年前に、合弁会社の仲間だった中国人も独立をしていました。お互いに新規開発やものづくりが好きなこともあって、これからはお互いに経営者として一緒に仕事をしようということになったんです」
信頼の置けるビジネスパートナーから仕入れた漢方エキスを使って処方を開発し、新しい商品作りに挑みはじめた村田さん。独立第1号の製品は、知人の美容師さんからの依頼でした。
「知人の美容師から、年齢とともに深刻になる髪の悩みについて教えてもらったんです。現場からの声はリアルそのもので、商品化への意欲が高まりました。商品の告知はクチコミだけといった状態ですが、手前みそながら評判はとてもよく、開発者の私自身が驚くほどです」
有効性を重視する村田さんは、現代医療で利用されていないものの、漢方の世界では常識とされる「利水作用」の考えを製品開発に応用していると話します。
「尿の排泄を促す利尿作用という言葉は知られていますが、利水作用は耳慣れないのではないでしょうか。利水作用は、リンパ液をはじめとする体液の循環を整える作用です。血管と同様、全身に張り巡らされているリンパ管への言及は、リンパマッサージ程度にとどまっている印象があります。人間の体の六割は水でできているといわれますが、水と表現される体液の中には、血液はもちろんリンパ液も含まれます。血液のみならず、体液全体の循環を促し、体液をきれいにすることが大切と考えて開発をしています。アトピー性皮膚炎で苦しんでいる友人から相談された時は、世界中の論文を調べて肝機能と皮膚の関連性を発見し、研究に生かしました。次のテーマは腎臓です。現代の医学では、一度失われた腎機能は戻らないというのが常識ですが、腎機能は回復すると信じています。漢方的には補腎処方です。現在進めているモニター試験では、夜間頻尿の改善が確認されています。いずれにしろ、私は常に『目の前の人を大切にする』という思いを持って開発に取り組んでいます」
日本人ならではの「和える力」を強みに医療を発展させたい
仕事自体は会社員時代も起業後も大して変わらないと笑顔で話す村田さんですが、独立時に掲げたコンセプトが「和方」。村田さんは、従来の和方に「和える」という新たな解釈を加えたコンセプトを事業の核にしています。
「古来、日本には『和える文化』があります。私が考える和えるとは、『異質なものを否定することなく上手に取り入れ、さらに昇華させること』です。私は医学や健康の世界にも、和える文化を普及させたいんです」
日本ならではの和える文化として村田さんが例に挙げたのが、間もなくやって来る年末年始の過ごし方です。
「12月25日はキリスト教のクリスマスを過ごし、1週間後の年末はお寺で除夜の鐘をつき、翌朝は初詣に神社へと出かける。すべての日本人がこのような過ごし方をしているわけではありませんが、違和感なく日本人の暮らしになじみ、それぞれのよさを上手に取り入れて享受しています。繊細なテーマといえる宗教に関して、ここまで多様性と寛容さを持ち合わせている国はほかにないと思います。金刀比羅参りで有名なこんぴらさんも、クンビーラというインドの神様をルーツにした神仏融合によって生まれています」
宗教のみならず、日本の食文化が「和える」メニューの宝庫であることはよく知られています。インバウンドで日本を訪れる多くの観光客が驚くのが食の多様性。インド発祥のカレーや中国発祥のラーメンを、日本人は和えることによって独自に昇華させ、日本ならではの食文化として確立させているといっていいでしょう。
「宗教や食文化に見られる日本独自の和える文化が見られないのが医療面です。現在も医師や薬剤師の間で西洋医学と東洋医学の壁は高く、和える文化が進んでいないと感じます。西洋医学は主に緊急性の治療に優れ、東洋医学は主に長期的な体質改善をかなえることに役立ちます。それぞれを否定するのではなく、お互いのよさを和えて融合させる新しい医療が、今こそ求められているのではないでしょうか。私自身は、漢方の領域で日本人独自の和える力を発揮しながら、健康増進に役立つ商品を開発していきます」