テレビプロデューサー 矢追 純一さん
満州で終戦を迎えて待ち受けていたのは突然の貧困生活でした
私は戦前の満州で生まれましたが、幼少期を思い出そうとしても、不思議なことにまったくといっていいほど記憶がないんです。小学校にも通っていなかったので、思い出らしい思い出ができなかったのかもしれません。はっきりと覚えているのは、戦争が終わった瞬間くらいからの記憶です。
それまでは満州国建設省の役人をしていた亡き父が建てた洋館で、母と2人の妹と4人で、それなりに裕福な暮らしをしていました。地上2階、地下1階からなる、いわゆる白亜の豪邸で、当時としてもかなり恵まれていたのではないかと思います。
ところがある朝、目を覚ますと使用人としてわが家で働いていた中国人たちが「日本は負けた。ここはもう我々の国だから、この家から早く出ていってくれ」というではありませんか。あまりにも突然のことで驚きましたが、抗う術のなかった私たちは急いで荷物をまとめて家を出るしかありません。彼らからすれば、自分たちの土地を占領していた日本は彼ら(連合軍)に負けたのだから、私たち敗戦国民は追い出されるべき存在になったわけで、これも当然なのでしょう。
それでも、母は大変強い人で、その日のうちにどうにか安アパートを借りて住まいを確保すると、私たち3人にこういいました。
「これまでは何不自由なく生活してきたけど、今日からは食べるものも満足にない暮らしが始まります。自分が食べていくために、それぞれが精いっぱい努力をしなさいね」
当時、10歳になっていた私はともかく、妹はまだ6歳と4歳でしたから、何が起こっているのかさえまったく理解していなかったことでしょう。
それからは、私も生きるために毎日必死でした。母は辛うじて家から持ち出した着物や家財を私に預けると、「売ってきなさい」と命じます。実際にそれらをお金に替えるまで家に入れてもらえないので、道行く中国人に懸命に声をかけ、行商のようなことをやってどうにか日銭を稼ぎました。
満州は寒い土地なので、毎日がとても過酷です。道路に雪が降ると溶けずに踏み固められてつるつるになり、夜の間にさらにその上に雪が降り積もり、それがまた踏み固められ……、そして仕上がった硬いアイスバーンに足を滑らせて顔面を思い切り強打したことは一度や二度ではありませんでした。
また、終戦直後の満州というのは、現代では考えられないような無法地帯でした。街にあふれるソ連兵たちが、空き巣や強盗など悪行の限りを尽くしていたんです。
後から知ったことですが、当時、ソ連軍の最前線には弾除けとして死刑囚などの極悪非道な連中が囚人部隊として配備されていたそうですから、連中のお行儀が良くないのも当たり前。一方で、そうした素行の悪い兵士たちを取り締まるために、ソ連の秘密警察がパトロールをしていて、そこかしこで激しい捕り物劇が行われているようなありさまでした。
ある日、下の妹がそうした無法者にさらわれてしまったことがありました。人身売買が目的です。この時は幸い、すぐ近所の闇市で妹が売りに出されていると聞きつけた母がその場に乗り込んで、どうにかわが子を奪還して事なきを得ました。母が悪党を相手にどう立ち回ったのかは知るよしもありませんが、ほんとうに強い人だと子ども心に感心したものです。
またある時は、日中何をするでもなく友人と道端で座り込んでいたら、目の前で突然、銃撃戦が始まりました。盗品と思われる家財を積んだトラックを秘密警察が追跡し、警官の発砲をきっかけに撃ち合いになったのです。
銃弾が当たって人の頭が吹き飛ぶシーンを目の当たりにして、私はちょっとした興奮状態でした。すかさず隣の友人に、「おい、すごいぞ! 今の見たか?」と聞きましたが、返事がありません。見ると、その友人は流れ弾に当たって息絶えていました。
これは私にとって「運命とは何か」「命とは何か」を考えさせられる重大な出来事でした。
私と友人の距離は、ほんの30㌢ほど。流れ弾が私ではなく彼に当たったのは、ほんとうにたまたまでした。このわずかな距離が、運命を左右したのです。
誰しも「自分は流れ弾に当たるわけがない」などとつい高をくくりがちですが、それは都合のいい考えでしかありません。人の命など、たった30㌢の違いでどうなるか分からないものだということを、私はこの時に思い知らされたのです。
これは病気だって同じでしょう。いくら「自分は大病とは無縁だ」なんて思い込んでいたとしても、その自信には何の根拠もないのですから。
命からがらの帰国後は大学に進学してテレビの世界に入りました
こんな体験をお話しすると、「そんな危険な環境なら早く日本へ帰ってくれば良かったのに」と思われるかもしれません。実際、満州に残された日本人のために、大連の港から九州の佐世保へ向かう定期船が出ていました。
しかし、船便はごく少ないためにいつも大混雑で、私たちの一家が乗れるまでには長い待ち時間が必要でした。母子4人は、危険と隣り合わせの状況で、毎日をどうにか精いっぱい生き抜いて、船に乗れる日を待っていたのです。
ようやく日本行きの船に乗ることができたのは、終戦から1、2年ほどたってからのことだったと思います。
粗末な貨物船の内部は窓もない倉庫のようなスペースで、大勢の乗客は雑魚寝状態でした。配給やトイレの際には3メートルほどの縄ばしごを上って、甲板に出なければなりません。
また、トイレにしてもちゃんとした設備があるわけではなく、甲板から突き出した細い板の上で、海に向かって用を足すのです。玄界灘は波風の激しい難所ですから、急な揺れや風に足を取られ、海へ落ちてそのまま帰らぬ人となった乗客も決して少なくなかったようです。私たちは最後の最後まで、命を守ることに必死でした。
ようやく佐世保の港に到着した時が、私にとって初めて日本の風景に触れた瞬間でした。といっても、特別な感慨はありませんでした。むしろ、にぎやかな満州育ちの私には、何もないのどかな田舎にしか見えなかったことを覚えています。
その後は国の母子寮に入ることができ、生活はいくらからくになりました。しかし、それでも貧しいことに変わりはありません。中学を卒業して高校生になるといくつものアルバイトを掛け持ちして家族を養う毎日になりました。しかも、高校に入学してまもなく母が亡くなってからは、なおさら妹たちを育てるために一生懸命働きました。
世にいう苦学生そのものですが、それでもどこか心にゆとりを持っていられました。満州で命の危険と背中合わせの生活を経験して、胆力が鍛えられていたからです。おかげで、どんなに居丈高に振る舞う大人と相対しても、私は萎縮するようなことはいっさいなく「いいから黙ってろ!」といってのけるくらいでした。
将来について思いをはせることはありませんでしたね。修羅場をくぐりすぎてきたせいか、10代にして妙に達観していた私は、健康に人生をまっとうできさえすればそれでいいと本心から思っていたのです。これから先、自分に何が起ころうとも素直に受け止めて、すべてをありがたく運命に委ねる——そう腹をくくっていました。
そんな私が大学へ進学する決意をしたのは、書店でたまたま手にした入試対策の問題集を見たことがきっかけでした。「これならたいていの大学には入れそうだぞ」と思ったのです。
もちろんアルバイト三昧で多忙でしたから、熱心に勉強していたわけではありません。しかし、学校の教科書を徹底的に理解しようと通読すると、それだけで不思議とどの教科も理解できたのです。これはちょっとした特技だったのかもしれません。
果たして、私は私大の中で学費が比較的安かった中央大学の法学部に進むことになります。
大学時代は人並みにマージャンに興じるなど、アルバイトの間隙を縫ってそれなりに気楽な時間を過ごすことができました。
そんなある日、日比谷公会堂でエレベーターボーイのバイトをしていたら、時折顔を合わせるスーツ姿の男性から「君はもう、就職先は決まったの?」と話しかけられました。
「いえ、まだ決まっていません」と応えると、男性は「日本テレビって知ってる? よかったら見学においでよ」といいます。しかし、当時はまだテレビそのものが珍しく、日本テレビという社名を知る人もほとんどいませんでした。
それでもよく分からないまま誘いに応じたのもまた、私の運命だったのでしょう。成り行きで訪ねた麹町の日本テレビで入社試験を受け、合格通知をもらったことで、期せずして私の卒業後の進路は決まったのです。
『11PM』で空飛ぶ円盤を取り上げたのを機にブームが到来しました
1960年4月、日本テレビに入社すると、私はドラマ班に配属されました。所属は一応、演出部となっていましたが、黎明期のテレビ現場では誰もが素人のようなもので、編集から雑用までありとあらゆる仕事をこなさなければなりませんでした。
世はホームドラマの全盛期。しかし、ごく一般的な家庭をよく知らない私にとって、これは決して楽しい仕事ではありませんでした。
かといって、ほかにやりたいことがあるわけでもなく、流されるまま5年ほどドラマ制作を続けたところで、名物番組『11PM』(日本テレビ系列)がスタートします。社会派なネタからお色気まで、さまざまなコンテンツを取り扱うこの深夜のバラエティ番組がとても魅力的に見え、私はすぐ上司に異動を願い出ます。この希望がかなったのは幸いでした。
早速、バラエティ番組向けの企画を考えはじめますが、いざ「何をやってもいい」となると、どんなネタを出せばいいのか分かりません。そこで何げなく足を運んだ書店で目にしたのが、アメリカで話題を呼んでいた〝空飛ぶ円盤〟の本でした。
なんでも、地球にはすでに別の惑星から宇宙人がやって来ているそうで、空飛ぶ円盤は彼らの乗り物なのだといいます。「これはおもしろそうだ!」と、すぐに企画書をまとめて提案したら番組内で取り上げることになりました。
反響は上々でした。当時、アメリカでは空飛ぶ円盤を未確認飛行物体(Unidentified Flying Object)と称していたことに目をつけた私は、その頭文字を取って、〝UFO〟という呼称を作りました。これが日本のUFO文化の始まりです。
それまでメディアがオカルト=超自然的な分野を扱うことはほとんどなかったせいか、UFOはたちまち一大ブームを巻き起こし、私は立てつづけにネッシーや超能力など、未知なる世界を番組で取り上げていきます。
こうした分野を語れる識者はほとんどいませんでしたから、テレビプロデューサーである私がみずから出演する機会も増え、いつしか「矢追純一といえば超常現象の第一人者である」とのイメージがお茶の間に定着しました。思いもよらぬ人生ですが、これもまた運命なのでしょう。
良いことも悪いことも終わったことはすべて頭の中から捨てます
以来60年近く、非常に多忙な生活を送ってきましたが、ありがたいことにこれまでケガや大病とは無縁でやってきました。
特に健康に気をつけた生活を送っているわけではありません。強いて健康の秘訣を挙げるなら、過去をいっさい振り返らない性分が良かったのではないかと思っています。良いことも悪いことも、終わったことはすべて頭の中から捨ててしまう。だから、満州でどんなに悲惨な生活を強いられても、それを引きずってうっくつすることはありませんでした。これも10代の頃に悟った「すべてをありがたく運命に委ねる」という考えがあればこそでしょう。
大きな宇宙の中の地球という小さな星における1人の人間の人生など、取るに足らない小さなものです。だから、何があってもジタバタしたところでどうにもなりません。そう腹をくくってしまえば、身に降りかかるすべてのことを受け入れられるのではないでしょうか。それが悩みやストレスと無縁で、健やかに生きていくコツだと私は思っています。