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プロ野球界初のチームドクターが元気の秘訣を告白!

著者インタビュー

上山田病院整形外科医師 吉松 俊一さん

王・長嶋から松井、イチロー、大谷まで、歴代の名選手たちに愛された

[よしまつ・しゅんいち]——日本整形外科学会専門医、日本リウマチ学会専門医、日本リハビリテーション医学会認定臨床医、日本体育協会公認スポーツドクターとして活躍。主に子どもの肩・ひじ関節、またスポーツ現場で見られる腰痛と遺伝の関連性などを40年以上の長期にわたって研究。さらに、日本屈指のスポーツドクターで、負傷したプロスポーツ選手が数多く治療に訪れ、復帰に貢献している。

依然として続くコロナ()で気がめいりがちですが、私は87歳になったいまでも元気いっぱい、夢に向かって突き進んでいます。私が元気でいられるのは、好きなことをとことんまで楽しんでいるからでしょう。

私は、日本プロ野球界の一翼を担うチームドクターとして、これまで数多くのプロ野球選手を心身両面からサポートしてきました。大好きなことに無我夢中で全力投球してきた結果、偶然にも多くのすばらしい出会いに恵まれ、私の人生を豊かなものにしてくれました。情熱を燃やしてきたことのすべてが後のかけがえのない財産となり、私の人生を支えてくれています。

球団のチームドクターを任されれば、チームに所属する全選手の健康管理や医療サポートを担当することになります。これまで私が親交を重ねた選手の中には、プロ野球史にその名を残す大スターたちも含まれます。「野球を心から愛する(よし)(まつ)先生にぜひ受け取ってほしい」と記念品の数々もいただきました。

現在では、後進のチームドクターに道を譲るようにしていますが、一つひとつの出会いに容易に語り尽くせないほどの思い出がぎっしりと詰まっています。一例を挙げれば、“ミスタープロ野球”の異名を持つ(なが)(しま)(しげ)()さんです。巨人軍の監督を務めていた頃にはご家族のことなどでも相談に乗ることがありました。そのご縁から、ご家族の健康管理も担当させていただきました。

通算本塁打数868本の世界記録を樹立した“世界のホームラン王”こと(おう)(さだ)(はる)さんとも懇意にさせていただきました。王さんは福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンクホークス)を2度の日本一に導くなど、選手としてだけでなく監督としても大成しました。

ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)時代の野村克也選手とのツーショット

ON(オーエヌ)(王、長嶋)がヒマワリなら、オレはひっそりと咲く月見草」というコメントで“月見草”が代名詞となった“ノムさん”こと()(むら)(かつ)()さんとも交流がありました。あるとき、私が西武ライオンズの選手の前で講演していたところ、当時選手として在籍していた野村さんが最前列に座って熱心にメモを取っていたのです。

野村さんは私のことを気に入ってくれて、よくメンタルトレーニングや確率・統計の話をしたのを覚えています。監督として野村さんをヤクルトスワローズの球団側に推薦したのも私です。野村さんの“ID野球”と私のスポーツ医学の理論は相性がよかったのかもしれません。野村さんからは、特に配球面などでたいへん勉強させていただきました。

2020年2月11日、野村さんの訃報が私のもとに届きました。選手としては世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王を達成。選手としてばかりか、南海、ヤクルト、阪神、楽天の監督を歴任し、自由契約やトレードで放出された選手を獲得して活躍させるなど、“野村再生工場”という愛称でも有名な偉大な指導者でした。

野村さんとのご縁で、ヤクルトスワローズ一筋で現役を過ごし、名捕手として一時代を築いた(ふる)()(あつ)()さんとも交流がありました。古田さんが現役時代には「ベンチにいるときでも、自分がサインを出していると思ってノートをつけるといい。ピッチャーの投げた球種が分からなかったら本人に聞けばいい」と助言したことがあります。

現役を引退する古田敦也選手から贈られた吉松医師へのメッセージカード

選手兼任監督として「代打、オレ」という有名なフレーズを残した古田さんですが、2007年にヤクルトのBクラス入りが確定して監督を退任し、背番号27が球団初の“名誉番号”になりました。私は以前、ある野球関係者から「吉松先生だったらプロ野球の監督でも十分務まる」とお褒めの言葉をいただいたことがあります。古田さんが監督を辞めるときも「もしどこかで監督をやることがあったら、吉松先生もまた来て手伝ってください」といわれました。言葉にできないくらいうれしかったですね。

特徴的なサイドスローの投球フォームで読売ジャイアンツの投手陣を支え、2年連続で20勝、——連続完投勝利という記録を打ち立てた(さい)(とう)(まさ)()選手とは、こんなエピソードがあります。実は、斎藤選手は打撃と守備のセンスがよかったことから、入団当初は「ピッチャーではなくショートを守れ」といわれていました。斎藤選手といえば、平成初の(さわ)(むら)(えい)()賞を受賞した“平成の大エース”と呼ばれる大投手です。

そこで、私が斎藤選手に電話して聞いてみたところ、「やはりピッチャーがやりたい」というではありませんか。そのことを当時読売ジャイアンツの監督だった(ふじ)()(もと)()さんに伝えたところ、「吉松先生がそういうのなら」とサイドスローに転向して、ローテーションに定着しました。“ノミの心臓”などと気の弱さを()()されたこともある斎藤選手でしたが、藤田監督から「おまえは気が弱いんじゃない、気が優しいんだ」と励まされたこともあり、のちに大活躍することになったのです。

斎藤選手の後援会に(らい)(ひん)として招かれたときは、市長の次に私がスピーチするというVIP待遇を受けました。私への感謝の念を忘れていなかったのでしょう。私は「できた人だな~」とつくづく感じました。斎藤選手は〝善人〟を絵にかいたような方です。

読売ジャイアンツ時代に松井秀喜選手が獲得したセ・リーグMVPの記念品

 “ゴジラ”の愛称で親しまれた(まつ)()(ひで)()選手とも交流がありました。松井選手は読売ジャイアンツやニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した、1990~2000年代の球界を代表する長距離打者です。2009年のニューヨーク・ヤンキース時代にはワールドシリーズ優勝を経験し、アジア人初のワールドシリーズMVPを受賞しました。

1993年の読売ジャイアン時代、オープン戦で成績がふるわずに初の公式戦を二軍で迎えた松井選手は「落としたことを後悔させるようにがんばる」と語ったそうです。その後、みごとに有言実行の大活躍を果たしたことは周知の事実です。

読売ジャイアンツ時代に一度、松井選手の手のひらを触ったことがありますが、親指の下辺りがとても分厚かったのが印象的でした。松井選手の(たぐい)まれなパワーの()(けつ)の一端をかいま見たような気がしました。反面、松井さんは非常に真面目でもの静かな人でした。2013年には国民栄誉賞を受賞しましたが、松井選手の人徳のなせる業ではないかと考えています。

メジャーリーグでアジア人初の首位打者をはじめ、新人王や盗塁王、シーズンMVP、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞など、数々のタイトルを受賞したイチロー選手。シーズン最多安打記録保持者でもあり、日米の球界史に残る“安打製造機”といえるでしょう。

以前、イチロー選手がオリックスの球場で打撃練習をしている際にライトの守備を守らせてもらったことがあります。ホームランの連続で、ほとんど守備の練習にはなりませんでしたが……(笑)。

強肩かつ俊足でも知られたイチロー選手ですが、「50歳までは現役で活躍したい」と、私に話していました。その際、私はイチロー選手に“誰でも一流の走者になれる”という内容のメモを「きっと役に立ちますよ」と手渡しました。読んでくれたかどうかは定かではありませんが、2019年に46歳で現役を引退するときまで、イチロー選手の足は衰えていなかったと思います。

私がいま執筆している本の仮題は『誰でも天才は作れる』です。イチロー選手の名言の一つに「僕は天才ではありません。なぜかというと、自分がどうしてヒットを打てるかを説明できるからです」というものがあります。私は、イチロー選手は“努力する天才”だったのだと思います。

ボストン・レッドソックス時代の2007年にセットアッパーとしてワールドシリーズ制覇を経験した(おか)(じま)(ひで)()選手が読売ジャイアンツに入団する際、実は、私は球団側から相談を受けていました。当時、岡島選手はひじを負傷していたため、私は球団側に「1年目は治療に専念させて、絶対に使わないでほしい」とお願いしました。すると、球団担当者が「吉松先生にすべて従うので、契約してもいいか」ということで読売ジャイアンツ入りを果たしたのです。

"安打製造機"の異名を持つイチロー選手(オリックス・ブルーウェーブ時代)から贈られたグローブ
メジャーリーグで"世界一のセットアッパー"と評された岡島秀樹投手(読売ジャイアンツ時代)から贈られたグローブ
"平成の大エース"斎藤雅樹投手(元・読売ジャイアンツ)から贈られたサイン入りグローブ

岡島選手が一軍に昇格したのは2年目のシーズン終盤のことでした。読売ジャイアンツが私の言葉を信じて約束を守ってくれたことが、岡島選手のその後の活躍につながったといえるでしょう。2007年に岡島選手がメジャーリーグ公式ウェブサイトによるファンが選ぶ「最優秀セットアップ投手」に選出されたときは感慨もひとしおでした。

エネルギーに満ちた私の好奇心の数だけいまでも夢が無尽蔵に湧いてくるんです

日本ハムファイターズ時代の大谷翔平選手から贈られたサインボール

メジャーリーグのロサンゼルス・エンゼルスに所属する(おお)(たに)(しょう)(へい)選手は投手と打者を両立する“二刀流”の選手として試合に出場し、球速165㌔という日本人最速記録を誇る、もはや野球マンガを超える伝説級の存在といえるでしょう。大谷選手が日本ハムファイターズに所属していたとき、私が(くり)(やま)(ひで)()監督と親しかったことからサインボールをもらったことがあります。

じっくりとお話ししたわけではありませんが、大谷選手が足首を(ねん)()したとき、私が考案した「吉松式・再発防止法」を指導しました。2018年に受けた右ひじの(じん)(たい)(さい)(けん)手術(トミー・ジョン手術)からの回復を目指している大谷選手ですが、二刀流選手として復帰した(あかつき)には、ぜひ剛速球を投じる彼と真っ向勝負をしたいものですね。

エネルギーに満ちあふれた私の好奇心の数だけ、いまでも夢が無尽蔵であるかのようにいくつもいくつも湧いてくるんです。その実現のためにも、整形外科医としてだけでなく草野球選手として、生涯現役を貫いていきたいと願っています。