プレゼント

2035年に起こる皆既日食を生で見ることがいまの目標です

私の元気の秘訣

気象予報士 森田 正光さん

元祖〝お天気キャスター〟といえば、やっぱり森田正光さん。ワイドショーやニュースなど、幅広い番組でお茶の間に気象情報を届けつづけて40年以上。71歳を迎えたいまでも現役で活躍する森田さんが天気の世界に飛び込むことになったきっかけとは?その経緯と元気の秘訣を、デビュー当時から変わらない笑顔で語ってくれました!

偶然飛び込んだ気象の世界でいまでは最年長の気象予報士になりました

[もりた・まさみつ]——1950年、名古屋市生まれ。財団法人日本気象協会を経て、1992年に日本初のフリーのお天気キャスターとなる。同年、民間の気象会社である株式会社ウェザーマップを設立して代表取締役を務め、2017年から会長に就任。親しみやすいキャラクターと個性的な気象解説で人気を博し、テレビやラジオに多数出演するほか、全国で講演活動を行う。2005年、財団法人日本生態系協会理事に就任。2010年、環境省が結成した生物多様性に関する広報組織「地球いきもの応援団」のメンバーとして活動。環境問題や異常気象についての分析にも定評がある。

いまでこそテレビやラジオで多くの気象予報士が活躍し、毎日の天気を伝えてくれていますが、私がこの世界に入った1960年代当時は、まだ気象予報士という資格自体が存在していませんでした。気象予報士の資格試験が始まったのは1994年からなんです。

では、なぜ私がこうして気象の世界へ進むことになったのかというと、実はこれは単なる偶然のようなものでした。愛知県で生まれ育った私は、地元の高校を卒業する際に、進学と就職の両にらみで進路を模索していました。そこで単に、日本気象協会への就職が先に決まっただけのことなのです。

いまでもよく「子どもの頃から天気に興味があったのですか?」と聞かれることがありますが、残念ながらまったくそういうことはありませんでした。なんとなく決まった就職先に、流されるようにして進んだだけのことなんです。

でも、結果的にはこれが、人生を大きく左右する重要な選択であったことは間違いありませんでした。

日本気象協会の東海本部に採用された私は、入社直後から天気を予測するための勉強が課せられました。ゼロからのスタートですから、この時期は下手に大学に進学するよりもはるかに勉強していたように思います。

そしてやがて、毎朝電報で届く気象データをもとに天気図を描いたり、漁業関係者向けのラジオ放送に予報を流したり、少しずつ天気を伝える仕事をさせてもらうようになります。気象は科学の世界ですから、右も左も分からないうちは大変でしたが、知識が増えていくほどおもしろくなっていきました。

一つの転機になったのは1974年、東京本部への出向が決まったことです。東海本部にテレビ要員が不足していることから、3年間の期限付きで人材を東京本部に送って勉強させるのが目的の異動でした。

もちろん、だからといって最初からメディアに出られるわけではありません。東京本部に異動した当初は、予報官の隣で言葉を口述筆記するなど、サポートの仕事が中心でした。

「第一回目の気象予報士の資格試験に落ちたときはびっくりしました」

その後、ラジオ番組で天気予報を伝える役目を仰せつかることになり、私は弱冠28歳にしてテレビ出演を果たします。実はこれ、この世界では極めて異例のことでした。

というのも、当時の日本気象協会では厳密な職位制があり、一定以上の階級に上がらなければメディアに出演することはできないルールがあったからです。階段を一つ上がるのに3年くらいかかるのが普通で、どんなに優秀な人でもテレビやラジオで天気を伝えられるようになるには、15年以上かかるのがあたりまえでした。だから当時は、ニュースで見かけるお天気キャスターは40代、50代のベテランばかりだったのです。

私がある意味でラッキーだったのは転勤者であったことで、要は手早く育てて名古屋へ戻さなければならない人材でした。そのため、そうした業界内の慣習を度外視して、異例といえるほど早くラジオ出演が決まったのです。

28歳でのデビューは、お天気キャスターとしては間違いなく最年少。それがいまではこうして最年長の気象予報士となっているのですからおもしろいものですよね。

土居まさるさんとの掛け合いが大ウケしてオファーが殺到しました

ラジオに出るようになってしばらくしてから、私にファンレターが届くようになりました。お天気キャスターとしてはこれもまた、異例中の異例といっていいでしょう。

なぜリスナーの方が、ただ天気予報を伝えるだけの私に目をつけたのかというと、番組のキャスターとの掛け合いが大いにウケたからでした。

当時予報を担当していたのは、いまは亡き()()まさるさんの番組で、お天気のコーナーが始まると私と土居さんの間でちょっとしたトークを行うのが恒例でした。しかし、私はタレントでもない単なる(しろ)(うと)ですから、いま思い返してもかなりとんちんかんな受け答えをしていたのです。

例えばある日の放送では、土居さんとこんな掛け合いがありました。

「森田さん、今週末は?」

「ええと、野球を見に行こうと思ってます」

「バカ(笑)、週末の天気を聞いているんですよ!」

私としては大真面目だったのですが、こうしたとぼけたやり取りがリスナーに大好評だったのです。

きっと土居さんもこのやり取りを楽しんでくれていたのでしょう。ほんとうは30秒程度のコーナーのはずなのに、毎日なんだかんだで5分くらい、土居さんとの掛け合いを楽しんでいました。

すると、それを聴いていたTBSテレビのプロデューサーから「天気キャスターに若手はいないと聞いていたけど、おもしろいのがいるじゃないか」と、日本気象協会のほうに問い合わせがあり、別の新たな出演が決まります。もともと人前に出ることが好きなたちでもなかったので、これは自分としても予想外の展開でした。

そのうち夕方のニュース番組に(ばっ)(てき)されると、さらに大きな反響が私の元に届くようになりました。番組への出演オファーだけでなく、講演依頼や原稿の執筆依頼なども増えはじめ、仕事の幅がどんどん広がっていったのです。

しかし、テレビやラジオに出ているとはいえ、私は日本気象協会に所属するサラリーマンです。どれだけ仕事量が増えたところで、収入は変わりません。当時はある電機メーカーのコマーシャルにまで出演していましたが、出演料はすべて協会に入り、私が受け取ったのは交通費のみでした。

あるとき、そんな状況を見かねた放送作家の方が「森田さん、独立したほうがいいよ。そんなに忙しいのに、まったく割に合わないでしょう?」との助言をくれました。それまで独立することなんてみじんも考えたことがありませんでしたから、このアドバイスには戸惑いました。自分の人生に、そんな選択肢があったのか、と。

確かに、当時は家を買ったばかりでローンを抱えていましたから、収入は多いに越したことはありません。また、テレビにたくさん出ていたことで、協会内の先輩方からやっかまれてしまい、居心地の悪さを感じてもいました。

そういういくつかの要素に後押しされたのでしょう。私は悩みに悩んだ末、日本気象協会を辞して、フリーのお天気キャスターになる決意を固めます。

不安がなかったわけではありません。フリーになったはいいものの、出演オファーが来なければ無収入になってしまうのです。それではローンの返済どころか、生活が立ち行かなくなってしまいます。

しかし、その放送作家の方はこともなげにこういったのです。

「テレビ局と専属契約を結べばいいんですよ。いまの森田さんなら、局側も喜んで応じてくれるでしょう」

これが決定打になりました。

一回目の気象予報士の資格試験を受けたらまさかの不合格でした

「最年長の気象予報士として、これからもお天気を伝えていきます」

1992年、私はTBSテレビと専属契約を結び、フリーの立場になりました。

ずっとサラリーマンだったので、やっぱり先行きが不安でたまりませんでしたが、いまにして思えばこれはいいタイミングだったのかもしれません。この頃は気象予報の技術が著しく高まっていた時期で、天気予報の精度が上がっていくにつれて、お天気キャスターの需要がどんどん増していたからです。

また、私が独立してほどなく、気象予報士が国家資格として認定されたことも大きかったでしょう。一般の方でも気象予報士になれると話題になり、多くの人がこの資格の取得を目指しました。ところが、ここで忘れられない笑い話が一つあります。

気象予報士の資格化により、私も第一回目の試験を受けることになりました。ずっと第一線でやってきたわけですから、自信満々でこの試験に臨みましたが、結果はなんと不合格。試験自体は余裕しゃくしゃくで解いたつもりでいましたから、これには自分でもびっくり。余裕を持ちすぎて、簡単な計算式の暗算を間違えたり、凡ミスを連発したりしていたようです。

私の不合格が判明すると、翌日の新聞やニュースがそれを大々的に取り上げました。お茶の間でおなじみのお天気キャスターが気象予報士試験に落ちたのですから、確かに話題として(こっ)(けい)だったでしょう。それと同時に、この資格試験がいかに難関であるのかを世間に知らしめることにつながりましたし、何より私自身に対する宣伝効果も非常に大きかったと思います。

ちなみに私は、翌年の第二回試験で合格を果たし、無事に気象予報士の資格を得ることができました。もっとも、二度も落ちたらいよいよ仕事がなくなってしまうのではないかと恐れ、このときは相当な重圧の中で試験を受けたのを覚えています。

なお、こうして私は個人事務所を作って独立したわけですが、この会社を気象予報士のプロダクションとして育てようというアイデアを持っていました。

最初は所属の気象予報士は私一人だけでしたが、世の中のニーズの高まりに合わせて少しずつ増員し、いまでは150人ほどが所属する大所帯となっています。それだけ、近年になって気象の分野が急成長したあかしといえるでしょう。

もちろんその分、責任が増えましたが、幸いにしていまのところ大病を患ったことはありません。年相応に(ぜん)( りつ)(せん)の肥大が見られるので、それを抑える薬を服用している程度です。

もともとあまりストレスをため込むタイプではないのがよかったのかもしれませんが、強いて健康の()(けつ)を挙げるなら、やはり適度な運動を習慣付けていることでしょう。歩数計を常に携帯し、なるべく一日一万歩を維持するようにしています。

散歩は誰にでもできる手軽な運動ですし、歩数計をたまに眺めると確実に歩数が進んでいるので、張り合いがあるんです。これは世のすべての高齢者におすすめしたいですね。

実際、歩いているとさまざまな発見が得られます。自分が住んでいる地域に思わぬ史跡を見つけることもありますし、災害時の避難場所など、地域の防災情報を知ることもあります。また、風景を眺めていれば季節や気候の変化にも敏感になり、雲ひとつをとっても実にいろいろな種類があることが実感できるでしょう。こうした身近な変化に気が回る生活は、非常に豊かだと思います。

歴史的な天体ショーの皆既日食を見るためにお酒を控えています

「2035年9月2日に起こる皆既日食がいまから楽しみなんです」

実は最近、大好きなお酒を控えています。なぜなら、どうしても85歳まで生きたいという目標があるからです。

私が85歳を迎えるのは、2035年のこと。実はこの年の9月2日のお昼頃に、北陸地方から関東地方にかけて(かい)()( にっ)( しょく)が見られるんです。天気にさえ恵まれれば、皆既日食が起こる地域以外でも極めて大きな部分日食が観察できるはずで、私はこれをいまからとても楽しみにしているんです。

部分日食ではなく、太陽全体が隠れる皆既日食が見られる機会は、関東では約200年に一度の現象です。日本で見られた最近の皆既日食といえば、1963年の北海道北東部と2009年の鹿児島県にあるトカラ列島くらいです。

だからこそ、そのときその瞬間、どうしても自分の目で日食を見てみたい。そのためには、生きていたとしても寝たきりの状態では意味がありませんから、2035年9月2日に照準を合わせて、できる限り健康を維持できるようにがんばろうと決めたのです。

目標や励みはなんでもかまわないと思いますが、この歴史的な天体ショーをぜひ、皆さんも楽しみの一つにしてみませんか?