一般社団法人CSRプロジェクト 大村 利佳さん
乳房を失うつらさを避けられるのではないかと思い、全摘同時再建手術を選びました
左の乳頭がゆがんでいることに気づいたのは、2011年2月のことでした。当時の私は、遠距離恋愛を続けていた現在の夫と、結婚式を挙げた直後でした。「もしかしたら、乳がんかもしれない」という不安はあったものの、生活の拠点を東京へ移したばかりの私は土地勘がなく、どの診療科で診てもらえばいいのかはもちろん、病院がどこにあるのかも分かりませんでした。
結婚直前まで10年以上、タイで暮らしていた私は日本への帰国と引っ越しが重なったこともあり、新しい生活に振り回される毎日に追われていたんです。ようやく生活が落ち着いた2011年5月9日に、乳腺外科があるクリニックを受診しました。マンモグラフィーと超音波の検査を受けた結果、左乳房に腫瘍があることが判明したんです。その時点では良性か悪性かは不明だったものの、担当の先生から、「この大きさならどちらにしても手術が必要です」といわれました。
数日後に総合病院を受診し、血液検査や針生検をはじめとしたいくつかの精密検査を受け、乳がんであることが確認されました。検査にはいつも夫が付き添ってくれていたので、とても心強かったです。それでも、頭の中で「え? 私が? 乳がん?」と、自問自答を繰り返していました。
治療方針と手術日は、あっという間に決まりました。頭では自分ががんであるということを理解していましたが、心ではなかなか納得ができないでいました。自分なりに乳がんのことを調べて知識を蓄えるうちに、最初に主治医の先生から提示されていた治療法に疑問を感じるようになったんです。
主人の勤務先の産業医の先生に相談すると、セカンドオピニオンをすすめられたので、3つの病院を受診しました。セカンドオピニオンを受けた2つ目の病院で提示された治療法を3つ目の病院で話したところ、先生から「その治療法はこの病院ではできません。でも、個人的には最善の治療法だと思います」といってくださったんです。その先生の言葉に背中を押される形で、2つ目のセカンドオピニオンを受けた病院で治療を受けることを決めました。
手術を受けるより前に、2011年7月から抗がん剤治療が始まりました。初回の投与のみ3泊4日の入院をし、その後は通院で抗がん剤の投与を受けました。2回、3回と投与を続けるうちに脱毛や吐き気・味覚障害・食欲不振といった副作用が出てきました。
後半の3ヵ月は別の抗がん剤と分子標的薬の投与を受けることになったのですが、今度は別の副作用に苦しみました。足の裏全体がしびれて、歩くことすら困難になりました。さらに、体じゅうの関節が痛むので、声を出さないと呼吸ができないほどでした。
そして、2012年1月に、乳房の全摘出と再建手術を同時に行う「全摘同時再建手術」を受けました。当時、全摘同時再建手術を行っている医療機関は少なく、保険適用外の治療だったのですが、幸いにも、この病院で受けることができたんです。
乳がんの治療を受けるにあたり、乳房を全摘することをある程度覚悟はしていました。全摘同時再建手術であれば、乳房を失うつらさを避けられるのではないかと思い、この治療方法を選びました。
私の乳がんはホルモンの影響を受けやすいとのことで、再発を予防するために10年間、ホルモン療法を受けることになりました。ホルモン療法の副作用には個人差があるそうですが、私の場合はホルモン注射を受けている間、副作用がかなりきつかったように思います。体がほてるホットフラッシュに悩まされ、真冬でも汗だくになることがありました。
関節痛もつらかったです。乳がんは骨に転移することが多いがんでもあり、「もしかしたら、転移かもしれない」と、関節痛が起こるたびにいまでも不安に駆られます。
2012年2月から5年間は、毎月通院してホルモン注射を受け、毎日飲み薬を服用していました。いまは、ホルモン注射は終了し、飲み薬の服用を続けています。
就労で悩んでいるがん患者さんにはCSRプロジェクトの就労相談サービスを利用してほしいです
結婚後は東京暮らしですが、私は生まれも育ちも大阪です。20代の頃にタイの舞踊に出合ったことで人生が変わりました。私はタイと日本を行き来しながらタイ舞踊を習得し、大阪でタイ舞踊団を結成して日本全国のイベントに出演していました。
30代になってすぐに、交際中だった現在の夫が東京に転勤することになりました。彼が転勤している間に腰を据えてタイ舞踊の勉強をしようと思い、タイで暮らすことにしたんです。彼の東京勤務が思ったよりも長く続いたこともあって、12年ほどタイで暮らしていました。
結婚するために日本に帰国したのは、2011年3月末です。2月に一時帰国をして大阪で結婚式を挙げました。日本に帰国した直後に乳がんと診断され、闘病生活へと入ったんです。
乳がんのつらい治療中、大阪の親友が「元気になったら一緒に歩こう・走ろう」と治療後の楽しみをいつも語ってくれていました。そして治療後、すこし動けるようになってから日常的な運動ががんの転移や再発のリスクを下げることも知り、ウォーキングから始めていつしかマラソンをするようになりました。ホルモン治療も始まって副作用で関節や骨が痛み、それが骨への転移ではないかという不安につながるのですが、不安を払拭するように毎日走っていました。大阪の親友たちと毎年夏にはプーケットマラソンに、秋には福井マラソンに参加しています。2014年にはフルマラソンも完走しました。
マラソンと並行して、2012年の半ばから、乳がん患者だけで構成されるゴスペルグループに参加しました。もともと歌うことが好きだったので、外に出る第一歩としてゴスペルを始めることにしたんです。その後、私の暮らす地域に強豪のゴスペルチームがあることを知り、2013年の末に入会しました。毎年一度開催される自主コンサートは、いつも満員御礼の大盛況で地元の仲間と共に練習を重ねています。
2019年8月からは、週に3日、一般社団法人CSRプロジェクトのお手伝いを始めました。CSRは、がん患者さんの就労支援を目的とする組織で、就労を希望する患者さんへのアドバイスをはじめ、小中学校などでがんの教育活動も行っています。私は各種サービスの取りまとめや、さまざまな調査のお手伝いなどをしています。
CSRのお手伝いをするようになって、仕事を通して就労に悩んでいるがん患者さんがたくさんいることを知りました。その方たちにどうすればよりよい情報を提供し、有効的に広めていくことができるのかなど、広い視野を持って考えられるようになりました。
特に、コロナ禍のいま、厳しい就労環境に置かれているがん患者さんは少なくないと思います。そのような環境にいる人は1人で悩まずに、CSRプロジェクトの無料の電話相談サービスを利用してもらいたいです。
「10年後に楽しく笑っていられるために、いま何ができるだろう?」と考えるようになりました
私は来年で乳がんの手術を受けてから10年になります。10年目を迎えるにあたり、今一度自分を見つめなおそうと思いました。たるんだ気持ちと体を引き締めて背筋を伸ばし、命のありがたさに感謝しながら罹患10年目を迎えたいと思ったんです。
そこで、2020年8月から、パーソナルトレーニングを受けています。初めは何も持たずにスクワットするのがやっとだったのですが、最近では30㌔のバーベルを担いでスクワットできるまでになりました。
トレーナーさんのていねいな指導を通して栄養のバランスの大切さや、身体環境リズムと正確で有効な筋力トレーニングを学んでします。トレーナーさんから学んだことは私の一生の宝となると確信しています。1人で立ち向かえば、越えられないこともトレーナーさんと共にだからこそ、乗り越えられるのだと思ってトレーニングに励んでいます。
乳がんのことをすぐに話したのは、兄と長年の親友だけです。大阪で暮らす両親には、しばらくの間は乳がんのことを伏せていました。心配をかけたくなかったからです。しかし、抗がん剤治療中に、兄が両親に私のがんのことを話しました。
ちょうど両親がひざを人工関節に替える手術を受けるために入院することになったのですが、私ががんの治療で大阪に帰れないことから、兄はもう隠しておけないと考えたようです。私ががんを患っていると知っても、両親は多くを語らずそっとしておいてくれました。
東京にいる私のことをいつも気遣ってくれる両親や兄には、感謝の気持ちでいっぱいです。
また、どんなときでも寄り添ってくれている夫と友人、治療の副作用で私がつらいときには、ご飯や散歩の催促もせずにそばにいてくれたいまは亡き愛犬たち、そして、昨年の春からいっしょに暮らしはじめた現在の愛犬、みんながいなければ、いまの私はありません。がんというつらい病気になったのが大切な家族や友人たちでなく、自分自身でよかったと思っています。
経過はいまのところ特に問題はなく、2018年からは、3ヵ月に一度の通院となりました。適宜、血液検査とマンモグラフィー・超音波・レントゲン検査などを受け、ホルモン剤を処方してもらっています。
手術の直後から腫瘍マーカーの数値は基準値の上限を超える数値ですが、主治医からは、「数値が高くても安定しているので気にしなくていいでしょう」といわれています。
最近は、「10年後に楽しく生きるために、いま何ができるだろう?」と考えるようになりました。10年後も笑っていられるよう、いまできることには積極的に取り組みたいと思っています。いまは未来の自分につながっていますから、いまを大切に楽しいことを続け、笑って過ごせていければ、10年後もきっと楽しく笑っている自分でいられると信じています。