一般社団法人らふ代表理事 蓮尾 久美さん
「間違いなく乳がんだわ」と話したとたん、涙がこみあげて大泣きしてしまいました
私が最初にがんを身近に感じたのは、私が30代後半のときでした。1歳年上のママ友が、乳がんを患って亡くなったんです。彼女から「蓮尾さん、乳がん検診に行ったほうがいいよ」といわれてからは、毎年乳がん検診を受けるようにしていました。ところが、その年だけ多忙のために乳がん検診を後回しにしていたんです。「最近、乳がん検診を受けていないな」と気づいたのは、42歳のときでした。
とりあえず自己検診をしてみようと思い、入浴中に乳房を指で回しながら触りました。すると、左乳頭の下辺りに、ゴロッとした感触がありました。試しに片方ずつ乳房を上げてみたところ、右側には特に不自然な点はなかったものの、左乳房を下から持ち上げたときにボコッと突起のようなものが出ているのが目視できたんです。「もしかしたら……」と不安がよぎりました。
友人に電話で相談すると、「すぐに診てもらったほうがいい」といわれ、その場でクリニックに予約を入れました。2005年6月13日、触診、マンモグラフィー検査、エコー検査を受けました。さらに、先生から「念のために乳腺外科でも検査を受けてください」といわれ、総合病院の乳腺外科を紹介してもらいました。同じ月の23日、紹介された乳腺外科で検査を受け、「乳がんでほぼ間違いないでしょう」といわれたんです。
当日、付き添ってくれた母が、「代わってあげたい」といってくれました。ただ、それを聞いて「どんなに不安でも親と子どもの前では泣かんとこう」と心に決めました。
私は長い間マンション暮らしをしていて、同じマンションに仲のいい友人がいるんですが、彼女には検査を受けることを話していました。きっと心配してくれていると思い、自宅に帰る前に彼女の家に立ち寄って、玄関先で立ち話をしたんです。
「どうやった?」と聞かれ、「間違いなく乳がんだわ」と話したとたん、涙がブワッとこみあげてしまいました。
涙を拭いて帰宅したつもりだったのですが、当時中学3年生だった息子に「どうしたん?」と聞かれました。「お母さん、たぶん、乳がんやねん」と話すと、「ふーん」といいながらいったん部屋に入ってまた出てくると、「それで、大丈夫なん?」と尋ねられたんです。あの乳がんで亡くなったママ友は、息子の同級生の母親でした。何か思うところがあったのかもしれません。小学6年生だった娘も、息子といっしょに話を聞いていたような気がします。
ちょっと無理をしてでも娘の運動会に行っておいてよかったと思っています
6月27日、夫が単身赴任先から一時的に帰ってきてくれたのでいっしょに病院に行き、確定診断を受けました。がんの大きさは2.5㌢でステージはⅡB、「ちょっとたちの悪いがん」と説明されました。〝トリプルネガティブ〟と呼ばれる種類で、再発率が高く、再発後の生存期間がほかの乳がんよりも短いといわれるタイプだったんです。当時の私は42歳と若かったので、まだどこか自分ががんになったことが信じられませんでした。
先生から「標準治療でも大丈夫ですが、手術前に抗がん剤治療をしてがんを小さくする、術前化学療法の臨床試験を受けるのはどうでしょう」という提案をいただきました。いまのままでは手術で左乳房を全摘することになる一方で、抗がん剤が効いてがんが小さくなれば乳房を温存できるかもしれないとのことでした。
当時の私はがんに関する知識がまったくなく、〝標準治療〟や〝術前化学療法〟といった専門用語の意味がまったく分かりませんでした。何をどう決めたらいいのか分からないまま、7月5日から先生がすすめてくださった術前化学療法の臨床試験に参加することになりました。
治療が始まると、脱毛、吐き気、嗅覚異常、口内炎など、抗がん剤の副作用に苦しみました。4回目の抗がん剤投与を受けた後には熱が出ました。先生からは「38.5℃以上の熱が出たら入院になります」といわれていたのですが、発熱しはじめたのが娘の小学校最後の運動会の日だったんです。
娘ががんばる姿をもう見られないかもしれないと思い、ちょっと無理をして運動会に行き、それから病院へ向かいました。結局、病床がいっぱいで入院することができず、点滴と注射を打ってもらって帰りました。先生からは怒られるかもしれませんが、あの日ちょっと無理をしてでも運動会に行っておいてよかったと思っています。
ひどい副作用に耐えて治療を受けたにもかかわらず、私の乳がんに抗がん剤はほとんど効きませんでした。抗がん剤が効かなかったという事実はショックを通り越して恐怖でした。死の恐怖が頭をよぎりましたが、さらに抗がん剤治療を継続するか、このまま手術をするかを私自身が決めなければなりません。でも、何を決め手に決断すればいいのかさえ分かりませんでした。
先生に率直に伝えたところ、再度触診をしてくださり、「触った感覚では小さくなっていないから、切ろうか」といってくださいました。先生の言葉をきっかけに抗がん剤治療は継続せずに手術を受ける決断をすることができました。
ちょうどその頃、あの乳がんで亡くなったママ友の娘さんを見かけたんです。すっかりキレイになってニコニコと笑っている姿を見て、「もし、ここで私が死んだとしても、うちの子どもたちは笑って生きていくんやろうなぁ」と思い、悲しいようなホッとするような不思議な感情になったのを覚えています。
10月19日に左乳房全切除の手術を受けました。手術後の治療として抗がん剤治療を提案されたのですが、術前の抗がん剤が効かなかったので、抗がん剤治療に対する疑念はありました。かといって「やりません」と断言する勇気もなく、「この抗がん剤、ほんとうに効くのかな?」と半信半疑ながら12月から2006年2月まで抗がん剤治療を受けました。
2006年3月から4月にかけて子どもの卒業式と入学式があり、4月20日に乳房再建手術を受けました。乳房の再建には自分の体の一部を用いる方法と、人工乳房を使う方法があると説明を受けました。私は、虫刺されの痕やちょっとした傷がケロイド状になりやすく、その部分が突っ張って痛むことがあり、体への負担が少ない人工乳房による再建方法を選びました。
相互理解を目指していろいろな人たちの力になっていきたいと思っています
当時の看護師長さんが患者会を作ることになり、私もいっしょになって「乳がん患者会すみれ会~smile」を2007年にたち上げました。患者会の活動を重ねるうちに気づいたのは、集会でおおぜいの人が集まっても、ほんとうの悩みを話せるわけではないということです。それも当然で、一人ひとりの事情は違っていますし、個人の悩みも深いので、多くの人を前に話すのはかなりハードルが高いと思うのです。
2013年5月にはマンションの一部屋に個別に相談ができる場として「がん患者サポート&コミュニティサロンらふ」を開くことにしたんです。その後、2015年に「乳がん患者会すみれ会」は解散。同年5月に「一般社団法人らふ」を設立し、以来、代表理事を務めています。「一般社団法人らふ」の活動で私がいちばん大切だと思っているのは、専門家と患者の「相互理解」です。
がんと告知された後には治療法などの説明を受けますが、病気を知ったばかりの患者さんやご家族が医療者の話をきちんと理解できるはずがありません。でも、そのことを医療者側は分からないんです。
活動の中で気づいたのは、患者側はもちろん、医療者側も悩んでいるということです。医療者の皆さんは専門外の知識や患者さんの情報を渇望されていたんです。そこで、私たちは医療者が知らない患者の立場の実情を伝える役目も担うことにしました。その一環として、私たちが医師の受ける緩和ケア研修の中で講義をすることもあります。
もちろん、患者側の努力も必要です。患者さんや家族は、病気や治療の情報だけでなく、制度や社会資源を知ることで、ある程度の心構えができます。それを患者さんの側に伝えることも私たちの大切な役割です。
現在は新型コロナウイルス感染予防対策を講じてオンラインとリアルを駆使し、少人数で患者どうしや家族が語り合う「茶話会」の開催や、看護師への相談、がん患者が生活に必要なウィッグや下着などの情報提供や試着会の開催、医療者や介護職など多職種の人たちの交流の場の提供、看護学生向けの講義など、さまざまな活動を行っています。
乳がんが見つかってから、今年で16年がたちます。甲状腺腫瘍もあるのですが、おかげさまで定期検査では特に変化はありません。乳がんと分かった当時まだ子どもだった息子と娘は、いまでは二人とも結婚し、子どもにも恵まれました。いまの私は、相談者の方が独身なら娘の立場、お子さんがいる方には母親の立場と、それぞれの立場で相談に乗ることができます。
私の心に鮮明に刻まれているのは、25歳で結婚したときに夫がいった「おまえは幸せにならなあかんけど、俺も幸せにならなあかん」という言葉です。この言葉が、いまでも私の原動力になっています。私にとっての幸せは、大切な人たちが幸せに笑っていることです。これからも皆さんの相互理解を目指し、いろいろな人たちの力になっていきたいと思っています。