薬剤師・理学博士 大野 秀隆
ゲスト 薬剤師・一般社団法人薬局支援協会代表理事 竹中 孝行さん
『健康365』で“伝説の消臭博士”として人気を集める大野秀隆先生は、薬剤師としての顔も持っています。「薬剤師には無限大の可能性がある」と語る大野先生の対談企画。1回目の相手は、新しい薬剤師と薬局像を求めて活動する薬剤師の竹中孝行さん。孫のような若い世代に“薬剤師魂”を注入していただきました。
竹中:大野先生は私が生まれた1980年代に“消臭博士”として日本中で大ブームを起こしたそうですね。当時はどのような状況だったのでしょうか。
大野:悪臭成分を化学的に分解して消失させるOS液を開発して、大きな話題を集めました。ブームの主役となったのは、女子大生や若いOLさんたち。多くの女性が悩んでいた、トイレで用を足した後のにおいを解決する手段として注目されたんです。私が開発した消臭食品は、口紅、ポケベルと並ぶ“女性の三種の神器”と呼ばれて大ヒット商品になりました。日本経済新聞のヒット商品番付にも載ったほどです。
竹中:いまでこそ消臭を目的としたサプリメントは耳にしますが、その先駆けだったのですね。消臭食品のほかには、どのようなものを手がけられたのですか?
大野:何でもやりましたよ。化粧品、育毛剤、香料、油脂化学。若い世代なら、ガムの話が分かりやすいかな。ロッテのチューインガムがあるでしょ?あのガムとなる原料(ガムベース)を開発したのは私なんですよ。
竹中:ロッテのチューインガムまで?それはびっくりです。スーパーマーケットやコンビニに多くの種類が並んでいますよね。
大野:私が開発したガムの原材料がいまでも受け継がれているかは分かりませんけどね。当時のロッテは、アメリカにあるスタンバック社という会社のガムベース220番を輸入してガムを作っていました。ところが港湾ストライキが原因で輸入できなくなり、困った状況になってしまったんです。そんなときに私のもとに依頼がきたので、スタンバック社のガムベース220番を調べてイメージしながら作ったら、数日でできちゃった。
竹中:新商品を開発されるときは、ひらめきのようなものが働くのでしょうか。
大野:経験にもとづくイメージです。発想のもとはすべて薬学なんですよ。薬学は応用範囲が広い学問だなあとつくづく思います。商品の開発には柔軟な発想と緻密な分析が必要ですけど、いい加減な形で商品が世に出ることもありましたね。
竹中:たとえば…?
大野:ある企業から、「春の月夜に咲く花畑のイメージで香料を作ってほしい」という依頼があったんです。「こりゃ難しいなあ」と思いながら、実際に花畑に通ったりして一生懸命作りましたよ。なんとか作り上げて1ヵ月後に持っていくと、先方の社長から「こんなのダメだよ。いままで何やってたの?夕方に新しいの作って持ってきてよ」といわれて却下。やり直すのもしゃくだから、夕方に同じものを社長に持っていったら、「これだよ、この香りだ!よくやってくれた」といってOKが出たんです。
竹中:同じ香りなのに…。
大野:まあ、長く生きていればいろいろなことがあるということです。ところで、竹中さんはどうして薬剤師になったの?
竹中:私は幼い頃に父を亡くして、母子家庭で育ったんです。父の看病で病院によく通っていたので、医療に携わる仕事に就きたいという気持ちが自然と芽生えていました。医師になることを目指したこともありましたが挫折し、薬剤師をベースにして人のために役立つ、そして、広い意味で人を救える活動をしていきたいと思うようになりました。
大野:竹中さんの活動ぶりは、『健康365』の編集部からいただいた資料で読みましたよ。「薬局アワード」という催しをやっているそうですね。
竹中:はい。「みんなで選ぶ薬局アワード」は、全国の薬局の中から創意工夫をしている薬局を選んで表彰するイベントです。「薬局ってどこも一緒じゃないの?」と思われがちな薬局のあり方を変えていくために、皆で考えるいい機会になっています。これまで3回開催しています。
大野:大いにやるといいです。商品開発からサービス業まで、薬剤師ってなんでもできる存在なんです。特に若い世代の薬剤師は、自分の力を信じて、活動の可能性をもっと広げてほしいですね。
竹中:可能性を広げるためには、何が必要になりますか?
大野:ご縁を大切にすることです。私も振り返ってみると、「あのとき、あの人と出会ってなかったら」「あの研究と出合わなかったら」という出会いがたくさんあります。ご縁の数だけ可能性が広がるということかな。
竹中:ご縁が続いた人生ですか。
大野:古い話をしますとね、私の父親はミシンを踏んでワイシャツや白衣を作る職人で、小学校すらまともに出ていないんです。「勉強なんてとんでもない」という家でしたけど、小学校の担任の先生が商業学校(東京府立第一商業)への進学をすすめてくれました。3年生のときに終戦を迎えましたが、家庭教師をしていた家のご主人が順天堂病院の医師で、私を気に入ってくれたんです。「生活の面倒を見るからうちに来なさい」といわれて、医学部か薬学部への進学をすすめられました。当時の大学は医学部が6年間、薬学部が4年間。面倒を見てもらう立場だから遠慮して薬学部を選びました。進学した東京薬科大学でも、卒業時に先生が「就職に役立つから」といって東京大学のいまでいう大学院へ推薦してくれたんです。30歳くらいのときには病院の経営にも携われたし、数え切れないほど商品開発ができたのも、すべていただいたご縁のおかげです。
竹中:薬剤師の範疇にとどまらない活動をされてきた大野先生の「縁」という言葉には重みがあります。
大野:縁を生かすためには、薬剤師の皆さんが自信と誇りを持つことが大切ですよ。「薬剤師の仕事はすごいんだ」ってね。日本は明治時代に西洋の医療を取り入れるまで、いまでいう薬剤師はとても重用された存在だったんです。高貴な人の体調管理は「薬師(くすし)」と呼ばれる人が担っていました。「薬」の名がつく奈良県の薬師寺や薬師如来も、健康や平癒を祈る人々から崇められる存在だったのだからね。
竹中:大野先生とのご縁も大切にさせてください。今日は人生について学ばせていただきました。ありがとうございました。
大野:こちらこそありがとう。最後に私の好きな言葉を贈ってお開きにしましょう。
小才は縁に出合って縁を気づかず、
中才は縁に気づいて縁を生かさず、
大才は袖振り合った縁をも生かす
(江戸時代の大名で剣術の新陰流を完成させた柳生宗矩の言葉より)