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脳梗塞から生還!私を救ってくれた薬膳スープカレーを広めたい!

ニッポンを元気に!情熱人列伝

株式会社エム・トゥ・エム代表取締役 伊藤 眞代さん

日露戦争の日本海海戦を大勝利に導いた東郷平八郎元帥も愛したとされる名物カレーの味を受け継ぎ〝鎌倉カレー女王〟と呼ばれて注目を集める伊藤眞代さん。奮闘の背景には、ビジネスのみならず、脳梗塞との厳しい闘いもありました。

生保業界のトップセールスウーマンから食品業界へと転身

[いとう・まこ]——神奈川県鎌倉市生まれ。保険外交員を経て、28歳で経営不振に陥った家業を救うべく3代目社長に就任。工場長を務める弟の黒田順麗さんと二人三脚で自社ブランドを確立。経営を再建させた辣腕ぶりから〝鎌倉カレー女王〞と呼ばれる。47歳の時に脳梗塞で倒れ、生死の境に立たされたが復帰を果たす。著書『強くしなやかな女性になる50の言葉』(講談社)が発売中。

今回の情熱人は、無添加のカレールーが評判となり〝鎌倉カレー女王〟と呼ばれている伊藤眞代いとうまこさん。脳梗塞のうこうそくの後遺症を不屈の闘志で克服した伊藤さんによると、看板商品であるホワイトソース・カレールーの歴史は、今から約145年前にさかのぼるといいます。

「私の曽祖父そうそふ黒田政吉くろだまさきちは、東京・上野にある西洋料理店『上野精養軒うえのせいようけん』の料理人でした。もともと洋食店を開きたかった曽祖父の願いをかなえるべく、祖父の黒田長蔵ちょうぞうは、1928年にフランス料理店『レストラン太平洋たいへいよう』を開店し、数多くの著名人が通う人気店となりました。〝太平洋〟と金文字で書かれた牛革のスリッパに履き替える斬新なスタイルの店内には大きなシャンデリアが輝き、純白のテーブルクロスがかけられたテーブルの上には銀の一輪挿しが置かれた贅沢ぜいたくな空間だったそうです。メニューの中では、日露戦争で連合艦隊司令長官を務めた東郷平八郎とうごうへいはちろう元帥げんすいも愛したカレーが人気で、祖父は東郷元帥のご自宅でカレーを作ったこともあったとのことです」

その後、長蔵さんは、レストランの味を家庭で楽しめる粉末クリームスープの素・ホワイトソースを開発。伊藤さんの父・黒田圭助けいすけさんが事業を受け継いだ後は、陸上自衛隊用のカレーなどを展開したものの、1998年頃から経営危機に陥ります。

「当時28歳だった私は、食品とはまったく縁のない保険会社のトップセールスウーマンとしてバリバリ働いていました。父から経営状況を相談された時は会社の清算を勧めましたが、亡き祖父母や母、父の気持ちをんで、弟の順麗まさよしと再興することを決意したんです」

再起にあたり、まずは社名の変更を決めた伊藤さん。「姉と弟が二人三脚で家業の再建に取り組む」という想いを2人の名前のイニシャルに込めて、エム・トゥ・エム(M to M)と命名したといいます。

「姉の私が社長、調理好きで鋭敏な舌を持つ弟は工場長。互いの得意分野で販売と製造を分担し、祖父が開発したホワイトソース、カレールー、父が開発したビーフシチューの3商品で再起を図りました」

当時、伊藤さんが抱えていた借金は約1億5000万円。借金返済の見通しや社員の給料の工面など、資金繰りを考えるだけでも心労が重なる毎日だったと当時を振り返ります。

前から3列目の右端が「レストラン太平洋」を創業した長蔵さん

業績の回復を図るために伊藤さんがキーワードにしたのが「無添加」。当時のスーパーマーケットには、無添加食品のカレールーがなかったことから、需要があると考えたそうです。

「大量生産は難しかったので、営業先を高品質な商品を置く中型店舗に絞りました。勇んで店舗へと営業に行きましたが、門前払いの日々。保険業界のトップセールスウーマンとして屈辱感を覚える時もありましたが、そこは根性です。諦めずに営業を続けて、時には率先して店内の掃除もしました。ようやく店長さんがカレールーを試してくれることになり、『おいしい。契約しましょう』といわれた時は、ほんとうにうれしかったです」

無添加カレールーは大評判となり、業績はV字回復。借金は完済したものの、毎日の睡眠時間が2~3時間という忙しさから体調不良が続いたある日、伊藤さんはふと「遺書を書こう」と思い立ったそうです。

早期処置を受けられず脳梗塞の後遺症として失語症に苦しんだ

「体調不良を察知した潜在意識が、自分が倒れた後のことを考えたのでしょう。予知は当たり、遺書を書いた1年後の2017年8月に脳梗塞で倒れました。47歳でした。心臓の冠動脈にできた血栓けっせんが脳に飛んだそうですが、今思えば出張先で心臓に少し痛みを感じたり、携帯電話を忘れたりしていました。異変の前兆はあったと思います」

脳梗塞は発症後の早期処置が、予後を左右するといわれます。伊藤さんの場合、処置がとても遅れてしまったそうです。

「脳梗塞を起こしたのは、会食をしていた時でした。お酒を飲むといつも以上に酔いが回って、1人で帰れなくなるほどでした。迎えに来た息子に背負われて帰宅しましたが、その時すでに脳梗塞を発症していたんです」

帰宅後はベッドに寝かされた伊藤さん。ご家族から酔いつぶれたと思われて10時間以上眠っていたそうですが、失禁を見たご家族が異変に気づいて救急搬送。脳梗塞の発症から16時間が経過していたそうです。

「搬送された病院の集中治療室で3日間、意識不明のまま過ごしました。断片的に覚えているのが、息子に背負われて帰宅した時から、自分のたましいが浮遊したり肉体に戻ったりしたことです。息子に背負われて帰宅した時も、息子が『お母さんの体が軽い』とつぶやいた様子を2~3㍍の高さから見ていました。そのほか、病院で医師が『仕事の復帰は無理でしょう』と家族に話していたり、高校生と中学生の息子たちが『お母さん!』と泣いていたりする姿も天井近くから見ていました。幽体離脱をしているという自覚はありませんでしたが、特異な状況であることは分かりました」

集中治療室で治療を受けた後、ようやく意識を取り戻した伊藤さん。早期の処置が施されなかったこともあり、手足のマヒや失語症といった後遺症が残ったそうです。

言葉を発したいけれど話せない——伊藤さんが陥った後遺症の中でも、失語症は深刻でした。また、漢字と英語、数字は理解できるものの、ひらがなとカタカナが分からなくなっていた伊藤さんは、言語聴覚士と一緒にイラストを見ながら言葉を覚えるリハビリを続けたといいます。

「数字を読めても、概念が分からなくなっていました。たとえば、500円と4000万円のどちらが大きい金額なのか判断できなかったんです。試練と呼ぶにはあまりにもつらい毎日に、何度も自死を考えましたが、そのたびに息子たちの顔が浮かんで踏みとどまりました」

処方された治療薬を服用し、医師から指導された運動や毎日2㍑の水を摂取することを励行した伊藤さん。自死を考えるほどだった伊藤さんを救ったのは、鎌倉かまくらにある建長寺けんちょうじを訪れた時だったそうです。

「建長寺の高台には半僧坊はんそうぼうという鎮守があるんです。実際に立ち、空を見上げてから海を見下ろした時、『私の悩みなんて小さいな』と思ったんです。倒れる前にバリバリ働いていたスーパーウーマンのスイッチが入った瞬間でした」

祖父母が営んだ「レストラン太平洋」を鎌倉の地で再建したい

伊藤さんは工場長を務める弟の順麗さん(左)と二人三脚で「レストラン太平洋」の再建を目指している

当時は主に筆談でコミュニケーションを取っていた伊藤さん。音読やカラオケなど、ご家族のすすめによるリハビリは効果を発揮したそうですが、意思を言葉で伝えられないストレスから、心が折れそうになる時もあったそうです。

「息子はよく、『お母さん、でんでん虫を目指そうよ』といってくれました。でんでん虫の動きはゆっくりですが、前にしか進みません。息子がいうように、歩みは遅くてもいいから着実に回復していこうと思いました」

伊藤さんが50歳を迎えた時、リハビリとビジネスの両面にとって大きな転機が訪れます。「脳梗塞対策の食事としてカレーがよいのではないか」と考えた伊藤さんは弟の順麗さんに相談。鋭敏な舌を持つ順麗さんが、伊藤さんのアイデアを薬膳カレールーとして実現させたのです。カレーのスパイスは料理のみならず、漢方薬としても広く用いられています。それは同時に、家業であるカレーのビジネスを大きく飛躍させるチャンスでもありました。

伊藤さんが脳梗塞の後遺症対策として飲んだ薬膳スープカレーをもとに開発した『薬膳カレールー』は、小麦粉を使わないグルテンフリーが特長。天然塩と粗糖を使用し、化学調味料や着色料、動物由来の原料は不使用

順麗さんが作り上げた薬膳カレールーは、145年以上の歴史を受け継ぐカレー一族にとっての新しい味。伊藤さんは毎朝、カップに入れた薬膳スープカレーを飲みつづけるうちに、明らかな変化を感じるようになったそうです。

「2020年12月から飲みはじめると、半年後の検診でスムーズに話せるようになっていました。『ここまでの回復は奇跡です!』といってくれた医師と原因をさぐりましたが、カレー以外の理由は見当たりません」

薬膳スープカレーは、伊藤さんの心身のみならず、ビジネスにも大きく貢献します。コロナだった当時、免疫力の低下に警鐘が鳴らされていました。伊藤さんは順麗さんとともに、『食事で免疫力を高めよう』とうたった薬膳カレールーを商品化したところ、たちまちヒット商品となったのです。

現在では、アメリカやイギリス、フランスなどの海外にも商品を輸出している伊藤さん。会社の業績は右肩上がりで、仕事のかたわら好きなゴルフを楽しめるほど体調が回復しています。

「いちばんの目標は、祖父母が経営していたレストラン太平洋の再建です。145年の歴史を受け継いだ私たちの世代の味を地域の人と観光客の方々に提供できるお店を、この鎌倉の地でかなえたいと思います」