上山田病院整形外科医師 吉松 俊一さん
メジャーから学んだ登板調整メニューやアイシングの必要性を野球界に紹介しました
私は、日本プロ野球界の一翼を担うチームドクターの第一人者として、これまで数多くのプロ野球選手を心身両面から支えてきました。ただし、初めからすべて自分の思いどおりにできたわけではありません。ときには「そんなことをやられては困る」と怒られたこともあります。
それでも、決して諦めませんでした。自費で渡米してメジャーリーグを訪れ、最先端の情報収集に努めたことも一度や二度ではありません。国境を越えた私の野球への思いがメジャーリーガーとの交流を深める原動力となり、日本プロ野球を発展へと導く懸け橋となっていったのです。
私は、1970年代に160㌔以上の剛速球を記録し、メジャー屈指の速球王として知られるノーラン・ライアン投手に手紙を出し、「あなたに会ってお話を伺いたい」と申し出ました。すると、私の熱意が通じたのか、来たのは「OK」との返事。当時は公式戦の最中だったのですが、幸運なことに私がノーラン・ライアン投手とお会いできたのは登板した翌日でした。私は、本来であれば関係者以外立ち入り禁止のロッカールームに入ることができました。私の英語はたどたどしいものでしたが、じゅうぶんに時間を取って会話をしながらノーラン・ライアン投手の調整メニューを教えてもらったのです。
まず、登板した翌日は完全休養日で、ボールをまったく触らないとのことでした。そして、室内のバイシクル・トレーニング(自転車こぎ)を中心にメニューをこなしながら、3日目、4日目とボールを触る回数を増やしていき、登板日までに徐々に肩を作っていくというのです。
かつて日本プロ野球では、リリーフ登板も含めて連投や中一日で多投する投手が見られました。しかし、近年では中五日もしくは中六日が主流になっています。もし日本プロ野球における先発ローテーションの前時代的な考え方が定着したままだったら、故障に涙する投手がおおぜいいたかもしれません。ノーラン・ライアン投手の貢献は計り知れないといえるでしょう。
また、降板した投手がよく行っているアイシングも、私が提案したものです。アイシングは当時、言葉自体も存在していませんでした。しかし、1978年に日米野球で来日したニューヨーク・メッツのトム・シーバー投手が、日米野球の試合後に積極的にひじのアイシングをしている姿を日本側のベンチ内で球団関係者に見せることで、日本プロ野球にも導入されることになったのです。
トム・シーバー投手といえば、1969年にニューヨーク・メッツをワールドシリーズ制覇に導いた立役者であり、当時のメジャーリーグのナンバーワン投手です。それまでお荷物球団として期待されていなかったニューヨーク・メッツが下馬評を覆して見事にワールドチャンピオンに輝いた大躍進劇は、いまでも「ミラクル・メッツ」と称賛されています。
トム・シーバー投手は、野球理論のみならず、みずからの自己管理や解剖学、生理学にも精通していました。私はトム・シーバー投手の野球理論や体験論を日本の方々にもぜひ知ってもらいたいと思い、彼の書籍『勝つための投球術』(講談社)を翻訳したこともあります。
余談ですが、まだ新人だった桑田真澄投手が読売ジャイアンツの練習グラウンドで「吉松先生~! これを読みました」といって声をかけてきたことがあります。桑田投手の手には、私が翻訳したトム・シーバー投手の著書『勝つための投球術』が握られていたのです。その際、桑田投手から「野球がうまいだけでなく、勉強熱心で非常に頭のいい選手だ」とキラリと光るものを感じたことを覚えています。
トミー・ジョン手術のフランク・ジョーブ医師と意気投合し世界野球の開催を果たしました
実は、私は大学時代に野球で右肩を傷めてしまったことがあります。すぐに病院を受診しましたが、「治せない」とサジを投げられてしまい、3年という長い期間を要したものの、どうにか自力で完治させることができました。しかし、このときの経験が後に非常に役に立つことになります。
例えば、子どもの頃によく10㍍くらいの深さまで海に潜って魚を銛で突いていたことを思い出し、大学時代の夏休みに故郷である神奈川県小田原の近くの真鶴で1ヵ月間毎日のように海に潜って魚を捕っていました。水に潜るには相当なパワーを要しますし、10㍍ほど深く潜れば海水の温度は低くなります。つまり、当時としては日本プロ野球ではタブーとされていた筋トレとアイシングの両方を偶然にもトレーニングに取り入れ、その有効性をみずから証明していたのです。
私はチームドクターとして、可能な限り最先端の医療を行いたいと考えていました。整形外科で肩・ひじの領域はアメリカが進んでいます。私は読売ジャイアンツの尾山末雄トレーナーとたびたび渡米し、アメリカで行われている最先端の医療を貪欲に学んだのです。
私がトミー・ジョン手術の権威であるフランク・ジョーブ医師のもとを訪れた際は、トミー・ジョン手術のテクニックが録画されたビデオを用意してくれていました。トミー・ジョン手術とは、主にひじの靱帯断裂に対する手術術式のことです。1974年にフランク・ジョーブ医師によって考案され、初めてこの手術を受けたトミー・ジョン投手の名前にちなんでこう呼ばれています。そのご縁から、ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の村田兆治投手やヤクルトスワローズの荒木大輔投手、読売ジャイアンツの桑田真澄投手などをフランク・ジョーブ医師に紹介しました。
フランク・ジョーブ医師は、私と同じように野球が大好きな人でした。野球の話で意気投合し、2人で世界野球を実現しようとフランク・ジョーブ医師が会長、私が副会長を務め、第1回イタリア大会を開催したこともあります。
そのほか、メジャー屈指の攻撃型遊撃手として、1982年から15年間にわたって2632試合連続出場という大記録を打ち立てたボルティモア・オリオールズのカル・リプケン選手ともお会いしたことがあります。カル・リプケン氏は、引退後も少年野球の指導者として後進の育成に携わるなど、野球を心から愛する人物です。私とすぐに打ち解け合い、お互いに野球少年に戻ったかのように野球談議に花を咲かせました。〝野球好き〟に国境はありませんね。
また、メジャーリーグ歴代ナンバーワン投手の呼び声が高いランディ・ジョンソン投手とお会いしたときは、身長約208㌢という上背もさることながら、その緻密さに衝撃を受けました。というのも、ランディ・ジョンソン投手は登板する試合の前にストレッチなどをしながら精神集中をする時間を設けていて、その試合で対戦するだろう打者に対して投球シミュレーションを一打席ずつ行っているというのです。左腕歴代最多となるサイ・ヤング賞5度受賞をはじめ、300勝を成し遂げた功績の背景には、たゆまぬ努力があったのだと思い知らされました。
松井秀喜選手は手のひらが分厚く類まれなパワーの秘訣をかいま見ました
気づいてみれば、私の提案した水泳や筋トレ法などが日本プロ野球の現場で徐々に受け入れられ、しだいに頼りにされる存在になっていきました。数多くの球団から依頼が寄せられ、多いときでは10球団の春季キャンプを回り、全12球団のチームドクターになりました。また、シーズン中には、国立長野病院(現・上山田病院)で故障や成績不振に陥った選手などの治療・指導にあたったのです。
私が星稜高校の野球部のめんどうを見ていたご縁で、〝ゴジラ〟の愛称で親しまれた松井秀喜選手とも交流がありました。松井選手は読売ジャイアンツやニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した、1990~2000年代の球界を代表する長距離打者です。2009年のニューヨーク・ヤンキース時代にはワールドシリーズ制覇を経験し、アジア人初のワールドシリーズMVPを受賞しました。
1993年の読売ジャイアンツ時代、オープン戦で成績がふるわずに初の公式戦を二軍で迎えた松井選手は「落としたことを後悔させるようにがんばる」と語ったそうです。その後、みごとに有言実行の大活躍を果たしたことは周知の事実です。
読売ジャイアンツ時代に一度、松井選手の手のひらを触ったことがありますが、親指の下辺りがとても分厚かったのが印象的でした。松井選手の類まれなパワーの秘訣の一端をかいま見たような気がしました。反面、松井選手は非常に真面目で物静かな人でした。2013年には国民栄誉賞を受賞しましたが、これも松井選手の人徳のなせる業ではないかと考えています。
メジャーリーグでアジア人初の首位打者をはじめ、新人王や盗塁王、シーズンMVP、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞など、数々のタイトルを受賞したイチロー選手も印象に残っています。シーズン最多安打記録保持者でもあり、日米の球界史に残る〝安打製造機〟といえるでしょう。
以前、イチロー選手がオリックスの球場で打撃練習をしている際にライトを守らせてもらったことがあります。ホームランの連続で、ほとんど守備の練習にはなりませんでしたが(笑)。
強肩かつ俊足でも知られたイチロー選手ですが、「50歳までは現役で活躍したい」と私に話していました。その際、私はイチロー選手に〝誰でも一流の走者になれる〟という内容のメモを「きっと役に立ちますよ」と手渡しました。読んでくれたかどうかは定かではありませんが、2019年に46歳で現役を引退するときまで、イチロー選手の足は衰えていなかったと思います。
私が2020年に上梓した『オリンピック子育て論』(ゴルフダイジェスト社)では「誰でも天才になれる」という内容をテーマにしました。イチロー選手の名言の一つに「僕は天才ではありません。なぜかというと、自分がどうしてヒットを打てるかを説明できるからです」というものがありますが、イチロー選手は〝努力する天才〟だったのだと、私は思います。
岡島秀樹投手が最優秀セットアッパーに選出されたときは感慨もひとしおでした
ボストン・レッドソックス時代の2007年にセットアッパーとしてワールドシリーズ制覇を経験した岡島秀樹投手が読売ジャイアンツに入団する際、実は、私は球団側から相談を受けていました。当時、岡島投手はひじを負傷していたため、私は球団側に「1年目は治療に専念させて、絶対に使わないでほしい」とお願いしました。すると、球団担当者が「吉松先生にすべて従うので、契約してもいいか」ということで読売ジャイアンツ入りを果たしたのです。
岡島投手といえば左投げで、投球モーションに入ってから投げるほうの左腕を下げてグローブをはめた右腕を上げながら、リリースの瞬間に顔を下に向けてホームベース方向を見ずに投げる独特な投球フォームで知られています。さまざまなコーチが岡島投手のフォームを矯正しようと取り組んできましたが、1998年に読売ジャイアンツの二軍投手コーチに就任した鹿取義隆さんが岡島投手の独特な投球フォームに賛成してくれたことで、のちに変則投手として大成することになるのです。
岡島投手が一軍に昇格したのは2年目のシーズン終盤のこと。読売ジャイアンツが私の言葉を信じて約束を守ってくれたことが、岡島投手のその後の活躍につながったといえるでしょう。2007年に岡島投手がメジャーリーグ公式ウェブサイトによるファンが選ぶ「最優秀セットアップ投手」に選出されたときは感慨もひとしおでした。
メジャーリーグのロサンゼルス・エンゼルスに所属する大谷翔平選手は投手と打者を両立する〝二刀流〟の選手として活躍し、球速165㌔という日本人最速記録を誇る、もはや野球マンガを超える伝説級の存在といえるでしょう。大谷選手が日本ハムファイターズに所属していたとき、私が栗山英樹監督と親しかったことからサインボールをもらったことがあります。
じっくりとお話ししたわけではありませんが、大谷選手が足首を捻挫したとき、私が考案した「吉松式・再発防止法」を指導しました。2018年に受けた右ひじのトミー・ジョン手術からの回復を目指している大谷選手ですが、二刀流選手として復帰した暁には、ぜひ剛速球を投じる彼と真っ向勝負をしたいものですね。
いくつもいくつも湧いてくる夢を実現するためにも生涯現役を貫きます
いま、私が所属している早起き野球チームと全日本生涯野球チームの平均年齢は約75歳です。人間70歳を過ぎると何かしらの故障を抱えているものです。しかし、皆で「99歳までは現役プレーヤーでいよう」と励まし合っています。
「野球を通じて多くの人々に夢や希望を与えられたら、夢や希望をかなえる喜びを味わってもらえたら」というのが私の願いです。そして、子どもの教育や障害を持った方々の生きがい創出にも、野球が貢献するものと私は信じています。第二の故郷である長野県千曲市と上田市の地域振興のためにも、これまで以上に野球の普及活動に尽力していきたいと考えています。
他人から見れば、バカらしいことかもしれません。しかし、どんな夢でもかまわないから、夢中になれる目標に真剣に打ち込む——これが、整形外科医として88歳を迎えるいまでも現役で働きつづける私の健康の秘訣です。
エネルギーに満ちあふれた私の好奇心の数だけ、いまでも夢が無尽蔵であるかのようにいくつもいくつも湧いてきます。その実現のためにも、整形外科医としてだけでなく草野球選手として、生涯現役を貫いていきたいと思っています。