虎の門病院顧問 大内 尉義さん
日本は、65歳以上の人口の割合が全人口の28.7%を占める超高齢社会。高齢者の健康と医療の領域である「老年医学」で、認知症やフレイルなどの問題を解決するための研究は日進月歩です。そんな老年医学の権威である大内尉義さんは「食から認知機能について考える会」を発足し、最初の治療を間違えないことが何よりも肝要と啓発しています。
全身にわたる総合的な診療が求められる「老年医学」の難しさ
少子高齢化に歯止めがかからない日本社会。おのずと注目されるのが、高齢者を対象とする「老年医学」です。老年医学とは、肺炎や認知症などのほか、骨粗鬆症や転倒・骨折など、高齢者にとってリスクが高いあらゆる領域にまたがる医療のこと。
その老年医学の専門家として名高い、医学博士の大内尉義先生は、内科と老年医学の最大の違いは、患者さんの全身を横断的に診なければならない点だと指摘します。
「若い患者さんを診る場合であれば、疾患のある臓器を治療すればそれで十分でしょう。しかし高齢者の場合、複数の疾患を抱えていることが珍しくありません。例えば、心筋梗塞で入院している患者さんが肺炎で亡くなるようなケースは、決して少なくない。つまり、全身にわたる総合的な診療が求められるのが老年医学の難しいところであるため、この分野に携わる医師にはそれだけ幅広い知見が求められるということなのです」
日本の老年医学の始まりは1962年のこと、大内先生の母校である東京大学医学部附属病院に老年病科(当時・老人科)が設置されたのが最初でした。しかし、高齢者専門の診療科が必要な理由は、医師の間でもなかなか理解されなかったと、大内先生は当時について振り返ります。
「循環器科でも呼吸器科でも、高齢の患者さんの診療はそれまでも日常的に行われていましたから、そうした疑問も当然だったかもしれません。しかし、高齢者の場合、全身の臓器を診なければならないという、ほかの診療科にはない特性があるのです。なぜなら、高齢者では、1つの臓器に対する治療が、ほかの臓器に悪影響を及ぼす可能性もあるからです」
例えば、心不全を治療するために利尿薬で体内の水分を排出させたとします。すると脱水症状で腎臓が悪くなり、それによって寝たきりになって、肺炎を引き起こすといったリスクもあると大内先生は語り、次の点を強調します。
「高齢者に対する医療では、全身を診ることによって最初の治療を間違えないことが何よりも肝要です。こうした、高齢の患者さんならではのリスクがあるため、高齢者専門の診療科の設置が必要なのです」
正しい知識を得て日々の食習慣から認知症の予防を
これからいっそう高齢化が進んでいくと、老年医学の存在意義はさらに大きなものになると大内先生は語ります。
「特に、健康寿命を長く維持することが、強く求められるようになるでしょう。そのために、生活機能障害ではフレイルをいかに克服するかが喫緊の課題です」
フレイルは2014年に日本老年医学会が提唱した概念で「健康な状態と要介護状態との中間の領域」という意味です。
「フレイルに関連する疾患として重大なのが、認知症の克服です。ところが、認知症は神経の変性疾患であり、根本的な治療法はまだ存在しておらず、完全な予防も難しいのが実情なのです。その一方で、食の改善や運動からのアプローチによって、進行のスピードを遅らせられることが、近年の研究で明らかになってきました。こうした最新の科学的根拠を、高齢者の皆さんに正しく伝えていく必要があります」
そのために大内先生は2020年5月、「食から認知機能について考える会」を設立したところです。この会を通じて、認知機能低下の抑制、あるいは予防につながる、科学的根拠の重要性を強調しています。
「例えば、サプリメントにしても効果の曖昧な商品が多数存在しています。いろんな情報に惑わされないで最新の科学的根拠に基づいて、脳の認知機能低下の抑制や予防に取り組んでいただきたいですね」
現時点で認知症の治療法が確立していないのであれば、進行のスピードを遅らせるよう努めるのが最善の策。「食から認知機能について考える会」発足の狙いは、まさにそこにあるわけです。
「フレイルには大きく3種類あります。1つ目は加齢によって運動機能が衰える“身体的なフレイル”。2つ目は、認知症に代表される“脳のフレイル”。そして3つ目が、独居や貧困によって日常生活を成り立たせることができない、“社会的なフレイル”です。『食から認知機能について考える会』ではまず、脳のフレイルをターゲットに正しい知識の啓発を行っていますが、それだけでは不十分で、社会的なフレイルを予防するために、社会のしくみそのものを変えていく必要があります」
例えば、医師から「健康のためにもっと運動しなさい」とアドバイスされたとしても、多くの人にとって運動を習慣化するのは簡単ではありません。ウォーキングを始めたところで、三日坊主に終わってしまった……なんてありがちなこと。そこで、一定の運動量を確保するために、車に乗らない環境を作ってしまえばいいと、大内先生はいいます。
「実際、1970年代に深刻な排気ガス問題が持ち上がったドイツのフライブルクという都市では、周辺の自然環境への影響を懸念して、都市整備の面から抜本的な対策が行われました。街の中心に自動車進入禁止エリアを設け、高齢者や障害を持っている方のために路面電車を敷設し、その中心にさまざまなお店を集めたのです。これにより、買い物中はいやがおうでも歩かざるをえない環境ができあがり、住民の運動量が大きく向上したことは、日本の街作りにとっても参考にすべきモデルといえるでしょう。日本でもいくつかの自治体で検討が始まっています」
一人の患者と向き合うより一度に多くの患者を助けられる研究がしたい
大内先生が医師を志すようになったのは小学生時代でした。
「実は、なぜ医師を目指したのかという明確な理由はなかったんですよ。父は会社員、母は教員という家庭でしたし、特に自分が大病を患ったような体験もありませんから、自分でも、どうして医者になりたいと思ったのか、いまから思うと不思議なんですよね」
そう笑うと、大内先生はこうつけ加えました。
「ただ、一人の患者と向き合うよりも、一度に多くの患者を助けられる研究がしたいという大きな志が、その当時からありましたね」
多くの高齢者を救うことができる老年医学という学問は、大内先生にとってまさに天職だったわけです。
大内先生と老年医学の出合いは古く、研修医時代のローテーションで老年病科を経験したことが最初の接点。その後、1986年に縁あって老年病科の所属となったことから、この分野に本腰を入れるようになります。
「当初は内科の一部門であったこともあり、高齢者を診る特殊な専門科という程度の認識しかありませんでした。しかし80代、90代という高齢者の診療を経験するうちに、老年医学が非常に難しい反面、大きなやりがいのある分野だと実感するようになりました」
こうして、老年医学の研究を続ける大内先生は、現在、専門家としての立場から、この分野をさらに発展させるには、一面から見ているだけではだめだと警告します。
「すべての臓器にまたがる医療から生活環境作りまで、老年医学ではさまざまな視点が必要となります。例えばこの先、便利だからといってなんでもやってくれる介護ロボットができれば、お年寄りはいよいよ体も頭も使わなくなってしまい、それだけフレイルに、そして要介護になる方が増える危険があります」
71歳を迎えたいまでも、国民の健康を守りたいという大内先生の使命感は、ますます強まるばかりのようで、もっと大きく、社会的な側面からの提言も行っています。
「さきほどのロボットの例でも、工学だけでなく、老年医学など、さまざまな分野の専門家が集まって、街作り、モノ作りを行うのが理想なんですよ。その実現のために必要な情報発信を、今後も続けていきたいですね」
老年医学のさらなる発展に期待しましょう。